ショートメッセージ【パウロ_2】
使徒行伝9章10-25節
創世記2章15-16節、3章1-6節
ローマ人への手紙5章1-5節
(アナニヤのサウロへの働きとサウロの宣教)
1、アナニヤのみた幻
2、アナニヤ、サウロへの按手
(1)《わたしが選んだ者》について
3、サウロの福音宣教スタート
1、アナニヤのみた幻
前回から始まりました“パウロ”シリーズですが、“サウロ”という名で登場し、同胞のイエス様を信じるユダヤ人たちを迫害する者でした。そのサウロ=パウロは、ダマスコという地域の諸会堂に向かい、そこのクリスチャンたちを縛りあげ、エルサレムまで引っぱってこようとする道中でイエス様から《「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」》とイエス様のお声を聞き、突然の天からの光が影響したのか、サウロは3日間目が見えなくなりました。
前回は、人々がサウロをダマスコまで連れていったところで終わりました。今回は、その続きです。
使徒行伝9章10-12節を読みます。
9:10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
9:12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
イエス様は、サウロに現われたあと、アナニヤを呼んで、彼をサウロのところに遣そうとされています。
アナニヤは、《「主よ、わたしでございます」》と、返事をしています。おそらく、福音を伝えておられたイエス様を近くで見ていたのでしょう。驚きあやしむことなく、応答しています。そして、イエス様は、サウロにも幻を見せておられて、アナニヤが自分のところに来て、自分の上に手を置くことを示されていました。
使徒行伝では、《アナニヤ》という名前の人が3名登場します。混同するので簡単にご説明いたします。
1人目は、使徒行伝5章に登場する“アナニヤ”です。この人は、サッピラの夫でご聖霊を欺いて、地所の代金をごまかしたとされる人です。
2人目は、先ほど読みました9章10-19節に登場する《アナニヤ》です。使徒行伝22章12節で《…律法に忠実で、ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよいアナニヤという人が、》と書かれています。
3人目は、大祭司“アナニヤ”です。この人は、議会で弁明するパウロを打つように命じて、パウロから《白く塗られた壁よ》(使徒行伝23章1-3節)と呼ばれた人物です。
使徒行伝9章13-14節を読みます。
9:13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
9:14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
この時点のサウロは、イエス様の教会の敵、迫害者なのですから、アナニヤからすれば、これは当然の反応です。
くわえて言えば、ここは注目すべき点で、アナニヤは、しっかりイエス様に自分の考えを述べています。
9章15-16節を読みます。
9:15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
今までサウロは、イエス様の聖徒たち=クリスチャンに迫害をしてきた側でしたが、次から、迫害を受ける側になります。これは、因果応報ではありません。主キリスト・イエスの名を宣べ伝えると、それに反対し憎む人たちが現われるからです。
(1)《わたしが選んだ者》について
ここで、主が仰せになった、《わたしが選んだ者》についてですが、サウロや12使徒、預言者のような個人を特定した“選び”について、キリスト教界では多くの議論が古くからあります。このような“選び”は、神さまが、民を導くために立てられた人物たちです。
旧約聖書の“選び”の代表的な人物で言えば、アブラハム。アブラハムは、イスラエル民族の始祖です。また、モーセ。モーセは、エジプトからイスラエルの民たちの奴隷解放と律法を神さまから授かり民たちへ指導しました。その他に、数多く神さまに選ばれ、ご命令に従い、働きをした人物がいます。
このような一方的な神さまの“選び”による任務と、いわゆる“救い”の“選び”は違います。
人を造られた神さまは、創世記2章16-17節で、
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
と命じられたのに、創世記3章1-7節で、
3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
狡猾な“へび”に、そそのかされて、神さまから命じられた、《善悪を知る木からは取って食べてはならない。》を破ってしまったのです。“そそのかされた”とはいえ、最後は自分の意志で、善悪の木の実を食べてしまったのです。
ここに神さまから人に与えられた“自由意志”を見ることができます。
自分自身で得た知識や思考、最後に自分の考えた意志で、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるのです。聖書の神さまを信じる者が、神さまのご計画、御心が示されて、“役割の選び”があるのです。“救いの選び”とは意味が全く異なります。
2、アナニヤ、サウロへの按手
使徒行伝9章17節を読みます。
9:17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
アナニヤは、もしかしたら、大きな権力を持ち、強気で威勢のよいパウロを目の前に怖さを感じていたかもしれません。しかし、イエス様の御声に聞き従って、サウロの泊まっている家にやって来ました。そして、驚くことに《兄弟サウロよ》と呼びかけています。
この一言は、サウロに会う前にサウロへの第一声を相当、試行錯誤したと思われます。
サウロだけではなく、アナニヤも思考の切り換えが必要でした。
アナニヤにとって、サウロは私たちの敵である。という固定概念を捨てて、神さまの“役割の選び”の器であり、私たちの兄弟である、という思いを身に付ける必要があったのです。そして、サウロの目が開けて、ご聖霊に満たされるように手を置きました。このアナニヤとパウロの記事は緊張する場面です。
9章18-19節を読みます。
9:18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
9:19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
アナニヤの按手によって、サウロはご聖霊に満たされました。
ここではとくに、異言などの超自然的なことが行なわれた記述はありません。特筆すべきは、これといった兆候がなくご聖霊に満たされたのだと思います。
サウロは、20節から、ただちに諸会堂でイエス様のことを宣べ伝えていますが、イエス様の証人になることがご聖霊のバプテスマを受けた証拠です。そして、サウロは、ご聖霊に満たされたあと、水のバプテスマを受けて食事を取りました。
ちなみに、9章18節の《サウロの目から、うろこのようなものが落ちて》は、日本でも“目からうろこが落ちる” と、何かのきっかけで物事の本質などがよく見え、理解できるようになったことを意味するたとえですが、この箇所からだと言われています。
3、サウロの福音宣教スタート
イエス様から召命を受けたサウロですが、今まで迫害してきたこと、次に、迫害の立場から福音宣教へ180度方向転換したサウロへ試練がおとずれます。
使徒行伝9章19b-21節を読みます。
9:19bサウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
9:20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
9:21 これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。
アナニヤだけではなく、サウロが発した《このイエスこそ神の子である》と聞いた人たちも驚いています。「イエスの名をとなえる者たちを捕まえるはずなのに、逆にイエスの名を説いているではないか。」と言っています。
使徒行伝9章22節を読みます。
9:22 しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
《言い伏せた。》の意味ですが、サウロが持っていた聖書知識は、他の人よりも格段に上です。主であるイエス様の素晴らしさを心底から理解し、ご聖霊に満たされたサウロは、だれもサウロの論証に反論することができませんでした。
そこで次のようなことが起こります。使徒行伝9章23-25節です。
9:23 相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。
9:24 ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。
9:25 そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。
サウロはイエス様を主と信じ回心し、御言葉を宣べ伝え、殺される側へ立場が変わり、どのように思ったのでしょうか。命を狙われ悲観したのでしょうか。
パウロの手紙を読むと、自己憐憫的な、暗い雰囲気は欠片もありません。むしろ、喜びと希望と愛に満ちた文章が、パウロの手紙から感じ取ることができます。その手紙の多くは、牢獄の中から書かれているのです。それは、パウロは、周りの状況ではなくて、キリストにある霊的な祝福に満たされていたからです。
パウロの長年の宣教生活での心の中を書いている1つ、ローマ人への手紙5章1-5節を読みます。
5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5章3節では、《それだけではなく、患難をも喜んでいる。》とパウロは言っています。その理由が、ローマ人への手紙5章6節です。
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
パウロの証しから、聖書が語っている“恵み”というのは、周りの状況が良くなること、物質的に恵まれることではなく、主イエス・キリストを知っていくことなのです。
ところで、パウロが書いた、ガラテヤ人への手紙1章17-18節によりますと、先ほど読んだ、使徒行伝9章22節と23節の間には、3年間の空白期間があります。使徒行伝9章23節の《相当の日数がたったころ》のところです。この間、アラビヤに行っています。
直接の目的やアラビヤがどこを指すのか、滞在の期間などについては、触れられていませんが、ダマスコ途上でのイエス様に会った意味を深く考えるためや、また、最初の宣教活動を試みたと推測されます。9章23節の《相当の日数がたったころ》は、エルサレムではなくアラビヤに行っていたのです。
2025年3月16日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正
「アナニアが聖パウロの視力を回復させる」ピエトロ・ダ・コルトーナ (1596–1669)
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに離れてしまった方々へ。理由は、いろいろあると思いますが、それより、「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ~」「礼拝へ出たいなぁ~」「賛美したい♪」「人と話すの苦手だけど礼拝に出席したい」と思われている方、オンラインで礼拝に出席されませんか。
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教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
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