ショートメッセージ【パウロ_8】
使徒行伝14章1-18節
(小アジアの伝道)
1、そそのかし
(1)めぐみの言葉をあかし
(2)続く宣教の旅
2、群衆によるパウロとバルナバへの崇拝
(1)足のきかない人のいやし
(2)神さまと人との違い
①勘違いするルステラの群衆
②神さまの賜物
パウロの伝道旅行は3回あります。使徒行伝13-14章は、パウロの第1次伝道旅行が書かれています。第2次伝道旅行は15章36節-18章22節まで、そして第3次伝道旅行は18章23節-21章26節まで、最後に捕らわれの身となりローマへ護送される旅が21章27節-28章31節までです。
使徒行伝のすべてを見て、パウロ異邦人伝道旅行を見たいと思いますが、かなりの時間をいただくことになりますから、第1次伝道旅行まで学び、あとは主な出来事を学びたいと思います。
1、そそのかし
これまで、パウロたちが、アンテオケの教会から遣わされて、キプロス島に渡り、それからピシデヤのアンテオケというところで、福音を語り多くの人々が救いに導かれましたが、ユダヤ人たちの反対と扇動によって、その町を離れなければならなくなりました。
(1)めぐみの言葉をあかし
使徒行伝14章1-3節を読みます。
14:1 ふたりは、イコニオムでも同じようにユダヤ人の会堂にはいって語った結果、ユダヤ人やギリシヤ人が大ぜい信じた。
14:2 ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意をいだかせた。
14:3 それにもかかわらず、ふたりは長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、そのめぐみの言葉をあかしされた。
彼らは、ピシデヤのアンテオケから東へ移動し、イコニオムというところで福音宣教をしています。今、読みましたように、大ぜいのユダヤ人とギリシヤ人が信仰に入りました。
14章2節では、信じないユダヤ人が、異邦人たちにそそのかして、すでに信仰をもった人々に悪意を抱かせようとしましたが、パウロとバルナバは、さらに大胆に福音を語り、神さまによって、しるしと奇跡が行なわれるようにまでなりました。
3節によると、彼らが語っていたメッセージは、《めぐみの言葉》となっています。
使徒行伝13章でパウロの説教を見ました。内容は、救い主イエス様のことでした。このイエス様の御名によって、あなたがたの罪は赦されます。また、信じることによって、正しい者と認められます、という内容でした。これが神さまの《めぐみ》であり、パウロはこのことをイコニオムでも語ったと書いています
ところが2節によると、信じない人たちは、激しくパウロとバルナバに反対しています。この反対は、さらに激しくなり、後にパウロが石打ちにあって、死んだようになってしまったほどになりました。
ユダヤ人が、また、“そそのかされた”異邦人が、なぜ、パウロたちのことをねたみ、悪意を抱かせ、抱いたのでしょうか。
それは、神さまの恵みは、信じる者には最上の喜びと幸せを与える反面、受け入れない者には、自分のすべてを否定される、疎ましく思われる内容だったからです。
古代の当時は、現代の人々の複雑な思考と違って、比較的、単純だったそうです。右か左。または、良いか。悪いか。現代の人たちは、さまざまな選択肢を模索し選択しますし、価値観が多様化しています。古代の当時は、そこまで考えなかったようです。
ですから、福音を語るパウロやバルナバに対する反応が、吟味することなく、納得するなら、とことん聞く姿勢ととなり、拒絶するなら相手に殺意を抱き行動に移すようです。
(2)続く宣教の旅
使徒行伝14章4-7節を読みます。
14:4 そこで町の人々が二派に分れ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。
14:5 その時、異邦人やユダヤ人が役人たちと一緒になって反対運動を起し、使徒たちをはずかしめ、石で打とうとしたので、
14:6 ふたりはそれと気づいて、ルカオニヤの町々、ルステラ、デルベおよびその附近の地へのがれ、
14:7 そこで引きつづき福音を伝えた。
イコニオムを去らなければならないときが来ます。パウロたちが去らなければならなかったのは、石打ちに遭うかもしれなかったからです。これは、迫害を免れようとしたからではなく、まだやるべき任務が残されているからです。ですから、彼らは別の地域で福音を宣べ伝えました。ユダヤ人たちの反対運動は、パウロたちの宣教を止めることはできません。
2、群衆によるパウロとバルナバへの崇拝
パウロとバルナバは、命の危険から逃げることができました。
(1)足のきかない人のいやし
使徒行伝14章8-10節を読みます。
14:8 ところが、ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。
14:9 この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、
14:10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。
パウロは、《足のきかない人》の信仰を見きわめ、《大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」》と言いました。《すると彼は踊り上がって歩き出した。》のでした。
(2)神さまと人との違い
14章8-10節の奇跡は、この地域の人たちに誤解を生みます。
①勘違いするルステラの群衆
使徒行伝14章11-13節を読みます。
14:11 群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。
14:12 彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。
14:13 そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。
ルカオニヤの人々は驚く行動に出ました。(ユダヤ人たちの反応とはまったく違います。)奇跡を誤解したのです。また、地域の宗教色が出ている場面です。神話の中の人物が登場します。
2人は神々が人間の姿になって現れたと見なされます。年長で威厳のあるバルナバをゼウスに,雄弁なパウロをヘルメスに見立てました。
13節では、ゼウス神殿の祭司まで登場しました。そして、2人に雄牛数頭の犠牲をささげようとします。
まことの神さまを知り、イエス様の福音を宣べ伝える2人にとって、この事は危機的状況なのです。
足のきかない人が歩き出したのは、神さまの行なわれた奇跡ですからパウロの力ではありません。また、パウロの手柄でもありません。まことの神さまを知らないルカオニヤの人々が勘違いし、パウロとバルナバを神々として崇め、雄牛数頭の犠牲がささげられようとしています。神さまの御業なのに、自分たちが崇められたら大変です。
使徒行伝12章21-23節に、ヘロデ王は神さまへ栄光を帰さなかったので、主の使いによって打たれてしまい。虫にかまれて息が絶えました。神さまが顕された奇跡を神さまへご栄光を帰さずに、自身に栄光を帰そうとすれば、ヘロデ王のようになるのです。
つまり、パウロとバルナバは、神さまのご計画や意図があって、人を通して顕された奇跡を、自分たちの力で行ったとは思っていません。
物事の状況が好転した時、私たちも気をつける必要があります。ヤコブの手紙1章17節の前半部を読みます。
1:17a あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。
多神教の文化を持つ人々は、神さまに用いられる人を崇めて、それを拝んでしまう傾向を持っています。使徒行伝10章25節では、コルネリオというイタリヤ隊の百人隊長が、ペテロの足もとにひれ伏して拝しました。そのように、神さまに用いられる人をもち上げてしまうのです。
現代の日本でも同じです。牧師や伝道師、多額の献金をした人、教会で大きな働きで用いられた人(器)に拝するように感謝してしまうのです。感謝することは悪いことではありません。拝するように感謝することが、背後に神さまが働いているのに無視することになるのです。
人と神さまとの間について、聖書は明確な線引きをしています。まったく別なのです。
創造者と被造物の関係です。人は人であり、神さまは、神さまなのです。神さまは、人では測ることのできない聖いお方です。イスラエルの民にとって、神さまは「聖」であり「絶対」なるお方なのです。
そのため、イエス様が《わたしと父とは一つである》(ヨハネによる福音書10章30節)と言われたとき、ユダヤ人がイエス様に石を投げつけようとしたのです。神さまに用いられる人をあがめる行為はNGですし、また、神さまに用いられる人は、称賛されることを受け入れてはいけないのです。
②神さまの賜物
14章14-15節を読みます。
14:14 ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで
14:15 言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。
2人は状況を理解し、抗議のしるしに衣を裂きました。旧約聖書には、衣服を裂く箇所が多くあります。創世記は3回。民数記、サムエル記やヨブ記など。すべて調べきれていませんが、嘆き、怒り、抗議の場面で書かれています。
15節で《天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。》と説明をしています。
詩編146篇6節に、
146:6 主は天と地と、海と、その中にあるあらゆるものを造り、とこしえに真実を守り、
とあります。詩編にはこのように神さまを賛美している箇所が多くあります。
パウロとバルナバは、このような信仰(アイデンティティ)がベースにあるのです。
使徒行伝14章16-17節を読みます。
14:16 神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、
14:17 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。
16-17節でも、神さまが恵み深いお方であることが紹介されています。
恵みは、受けるに値しないものを受けることを言います。人側が神さまへ働きかけがなく、神さまが一方的に私たちに与えてくださったことです。
17節の雨が降ること、実りの季節を与えることは、人間には決してできないことです。偶像は、私たちに恵みを与えることはできません。私たちの神さまは、一方的に私たちに恵んでくださる御方であり、私たちはその恵みを受けることによって、自発的に、喜んで、神さまに自分自身をささげるようになります。
14章18節を読みます。
14:18 こう言って、ふたりは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた。
14章16-17節にある2人の説明は、本当に分かりやすい内容です。私たちが普段いやがる雨は、私たちの食卓にある食物に直結しています。生活に関することすべて、神さまの恵みなのです。群衆もそのことを理解したようです。
2025年5月18日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正
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教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
教会や聖書の書かれていることに、ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。折り返し、こちらから礼拝のご案内させていただきます。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。