素直に読む【ヨハネの黙示録_25】

ヨハネの黙示録17章1-18節
「世と世の欲とは過ぎ去る」

〈はじめに〉 
 黙示録17章では、神さまに敵対するこの世の勢力“大淫婦バビロン”に対する神さまの“さばき”が、幻によって示されました。
 この“大淫婦”は、あらゆる民族や国々を惑わし、信仰者を迫害してきたこの世の支配体制を象徴しています。そして、女が乗っていた“獣”は、サタンの力を受けた政治的・軍事的な権力を表しています。
 ヨハネはこの幻を見て驚きましたが、御使いは「恐れるな」と語りかけます。なぜなら、どれほどこの世の勢力が強く見えても、小羊イエス・キリストが最終的に勝利することは確実だからです。
 さらに、黙示録17章14節では、こう強調します。

17:14 彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。

 要約しますと「小羊は王の王、主の主であるゆえに、敵に勝利し、彼と共にいる者たちもまた勝利する」。つまり、私たち信仰者も、小羊と共に歩むならば、恐れることなく、勝利の確信をもって歩み続けることができるのです。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録18章1-3節を読みます。

18:1 この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。
18:2 彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。
18:3 すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。

 ここでは、“大バビロン”、すなわち終わりの時代に現れる、神さまに逆らう強大なこの世の勢力の崩壊が描かれています。
 この“大バビロン”は、かつてのローマ帝国よりもはるかに強大で、人々を栄華や快楽、富によって酔わせる存在でした。そのバビロンに属する人々、国々の民、地の王たち、商人たちは、この世の繁栄に心を奪われ、神さまを退け、ついには神さまの怒りの“さばき”(ぶどう酒)を受けることになります。

 御使いは、神さまの栄光を帯びて光り輝きながら現れ、力強い声で18章2節《「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。…》と叫びます。18章1節の光は、神さまの真理の言葉が全地を照らしていることを象徴しています。
 17章では、小羊イエス・キリストがすべての悪しき勢力に打ち勝つ方であることが示されました。そして今、そのことが現実の“さばき”として実現し始めたのです。
 このあと4節以降は、その具体的な内容の説明です。
 ヨハネの黙示録18章4節を読みます。

18:4 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。

 バビロンは、悪魔や汚れた霊が集まる場所であり、神さまに逆らうあらゆる悪がうごめく場所です。
 そこから離れなさい、というのが神さまからの警告です。これは昔から、すべての時代の神の民に語られてきた忠告です。つまり、この世の富や快楽に心を奪われず、誘惑に巻き込まれないようにしなさいということです。
 ヨハネの黙示録18章5-8節を読みます。

18:5 彼女の罪は積り積って天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。
18:6 彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。
18:7 彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。
18:8 それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。

 ここでは、“大バビロン”に対する“神さまのさばき”が語られています。
 神さまは、“倍返し”をされる方だという意味ではありません。“大バビロン”が積み重ねてきた罪は、天にまで届くほど深刻で重いものであり、それに見合った正当な“さばき”として“二倍の報い”が語られているのです。

 また、バビロンは18章7節で《『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。》とあります。
 つまり、自分は特別だと高ぶり、神さまを恐れる心を持たなかったのです。そのような高慢に対して、神さまは、死や悲しみ、飢きん、火による“さばき”が突然一日にして襲うと告げられています。これは神さまが、すべてを正しくさばかれる力のあるお方であるということをはっきりと示しています。
 ヨハネの黙示録18章9-20節を読みます。

18:9 彼女と姦淫を行い、ぜいたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、
18:10 彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。
18:11 また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が、ひとりもないからである。
18:12 その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、
18:13 肉桂、香料、香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、そして人身などである。
18:14 おまえの心の喜びであったくだものはなくなり、あらゆるはでな、はなやかな物はおまえから消え去った。それらのものはもはや見られない。
18:15 これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、彼女の苦しみに恐れをいだいて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、
18:16 『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。
18:17 これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』。また、すべての船長、航海者、水夫、すべて海で働いている人たちは、遠くに立ち、
18:18 彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、『これほどの大いなる都は、どこにあろう』。
18:19 彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に舟を持つすべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』。
18:20 天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。

 ここでは、“大バビロン”が滅びた後、それに関わっていた人々の深い嘆きと、天にいる神の民たちの喜びが対比されています。

 まず、大バビロンと関係を持っていた3つの立場の人たち
 ① 地の王たち(18章9節)
 ② 商人たち(18章11節)
 ③ 海で働く人たち(船長、航海者、船員、漁師など)(18章17節)
 が、それぞれ嘆き悲しむ姿が描かれています。

 ① 王たちは、大バビロンと共にぜいたくな暮らしをし、それが永遠に続くと思い込んでいました。
その繁栄が一瞬で焼き尽くされるのを見て、恐れと悲しみに包まれ、ただ茫然としています。
 ② 商人たちは、自分たちの高価な商品を買ってくれる者がいなくなったことで、嘆きます。
 バビロンの贅沢が自分たちの富の源だったのに、それがすべて無に帰してしまったのです。商売の対象には「奴隷」や「人のいのち」までも含まれており、人間までも商品として扱っていた堕落した価値観が浮き彫りにされています。
 ③ 海で働く人々もまた、自分たちの生活や収入の基盤がバビロンによって支えられていたことを思い出し、嘆きます。
 ここでは、船長、乗客、船員、そして海運業者や漁師といった多様な人々が挙げられ、この世の繁栄に依存していた人々すべてが悲しんでいる様子が描かれています。

 このように、この世の富や栄光に望みを置いていた人々は、バビロンと共にそのすべてを失ってしまうのです。

 しかしその一方で、神の民の聖徒たち、使徒たち、預言者たちは、天で大いに喜ぶようにと呼びかけられています(18章20節)。
 それは、大バビロンの滅びが、神の民に対する迫害への正当な裁きであるからです。このようにして、18章は、この世に依存する者たちの滅びと、神さまに従う者たちの喜びを強く対比させながら、私たちに「どちらの側に立つか」を問いかけています。
 ヨハネの黙示録18章21-24節を読みます。

18:21 すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。
18:22 また、おまえの中では、立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを吹き鳴らす者の楽の音は全く聞かれず、あらゆる仕事の職人たちも全く姿を消し、また、ひきうすの音も、全く聞かれない。
18:23 また、おまえの中では、あかりもともされず、花婿、花嫁の声も聞かれない。というのは、おまえの商人たちは地上で勢力を張る者となり、すべての国民はおまえのまじないでだまされ、
18:24 また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。

 ここでは、“神さまのさばき”が、いよいよ、完全にくだされ、大バビロンが跡形もなく滅びる様子が描かれています。

 21節の力強い御使いが現れ、大きなひきうすの石を海に投げ込む場面は、大バビロンの滅びが突然で完全であることを象徴しています。
 つまり、「この世に栄えたバビロンは、もう二度と立ち上がることはない」とはっきりと宣言されたのです。
 22節、バビロンの中からはもう、音楽も職人の働きも、生活のにぎわいも、すべての楽しみや営みが消え失せます。
 23節の場面では、明かりは消え、結婚の喜びの声さえも聞こえなくなります。なぜなら、バビロンはかつて、強大な経済力と影響力をふるい、巧妙な誘惑で世界の人々を惑わせていたからです。
 そしてその裏で、神さまの預言者や信仰者たちを迫害し、その血を流してきた責任があったのです。
 この御使いの行動は、神さまの正義がついに完全に実現したことを示しています。
 この世やその繁栄に望みを置いていた者たちもまた、バビロンと共にすべてを失い、二度と戻ることのない永遠の“さばき”を受けるのです。

〈まとめ〉
 ヨハネは幻の中で、たとえ大バビロンのような強大な存在であっても、神さまに対抗できる力などどこにもないということを見せられました。

 私たちがこの世の現実に目を向けると、神さまに逆らう者が栄華を極め、豊かで幸せそうな暮らしをしている一方で、正直に生きようとする者が損をしているように思えるかもしれません。
 そして、その不公平な状態が、まるで永遠に続くかのように感じられることもあるでしょう。

 ですが、ヨハネが見た幻では、神さまの“さばき”の時が来れば、それは怒涛のように下されるということが明らかにされていました。
 その“さばき”には、誰も逆らうことはできず、大バビロンに属していた人々は、あっという間にどん底に突き落とされ、ただ嘆き悲しむしかなかったのです。

 では、なぜ神さまはこのバビロンの崩壊の幻を、ヨハネを通して、当時の読者たち、また、私たちに教えているのでしょうか。
 それは、18章20節にあるように、神の民である読者を励まし、慰めるためです。

 人は、「神さまはなぜ悪を放っておかれるのか? 本当に義なるお方なのか?」と、不信の思いを抱きやすいものです。
 しかし神さまは、この幻を通して、ご自身の力と義が確かであることを、はっきりと当時の読者や私たちに示してくださっているのです。
 そして同時に、この幻を通して、読者の心の中にある“この世への執着”を断ち切るよう促しておられるのです。
 人間は、目に見えるものでしか安心できず、実感できないと心が満たされないものです。
 だからこそ神さまは、ヨハネにこの幻を見せ、それを通して読者にも、神さまの完全な勝利を目に見えるかたちで教えてくださっているのです。
 ですから、主である神さまの勝利をどこまでも信じてください。
 どんな状況でも希望を失わず、光の子としてふさわしい信仰の歩みを続けていきなさいと教えられているのです。

2025年6月20日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_25】
タイトル:「世と世の欲とは過ぎ去る」
牧師:香川尚徳