ショートメッセージ【シメオンとアンナ】
ルカによる福音書2章25-38節
(神さまを待ち望む者の希望)
1、シメオンの心と役割から
2、アンナの心と役割から
3、希望はいつの時代も神さまにある
1、シメオンの心と役割から
ルカによる福音書2章25-32節を読みます。
2:25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。
2:26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。
2:27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、
2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、
2:30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
2章25節を見ますとシメオンの評価は、《正しい信仰深い人》です。
この《正しい》とは、これまでも見てきた通り、「罪を犯さない」という意味ではありません。むしろ、自分が罪深い存在であることをよく自覚し、神さまの前に悔い改め、憐れみを求める人だということです。シメオンは、自分の力ではなく、ただ神さまへの信頼によって生きていた人だったのです。
また、シメオンはかなり長生きした人だったようです。彼の人生は、ご聖霊によって「救い主に会える」と示され、その約束を信じて待ち続けたものでした。ご聖霊とともに歩む人には、大きなことでも小さなことでも、果たすべき役割があります。今の私たちは聖書を手にして、自分の人生に当てはめて考えることができますが、シメオンの生きた時代は、救い主がまだ来ていない時代だったため、ご聖霊の働きも多様だったと考えられます。それでも、「聖霊に導かれて生きる」ということは、今も昔も変わらない信仰の本質であることを心に留めたいと思います。
そして、ついにシメオンは幼子のイエス様と出会います。彼がその時にささげた賛美のことばが、2章29-32節に記されています。
現代の私たちから見ると、とても短い賛美に感じられるかもしれません。しかし、賛美とは長さや音楽の豪華さではなく、心から神さまにささげるものと考えるなら、シメオンがどれほど真っ直ぐに神さまを信じ、シンプルな信仰をもっていたかがよく分かるでしょう。飾り立てられた言葉や音楽も、それ自体が悪いわけではありませんが、ときに心が神さまではなく、他のものに向いてしまうこともあるのです。
ルカの福音書2章34-35節には、シメオンの次のようなことばが記されています。
2:34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
2:35 そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。
シメオンは、神さまの導きによって長く生かされ、この重要な預言のことばを語るためにここにいます。この“ことば”には、イエス・キリストが受ける苦しみ、そしてそれを見守る母マリヤの深い悲しみが予告されています。
私たちは今、聖書全体を通してこの場面を見られるので、読み流してしまいがちかもしれません。しかしこれは、キリストが十字架で苦しむことを《母マリヤ》(両親)に預言した、重みのある言葉です。そしてそれは、単に苦しみを語るだけでなく、多くの人が救われるという希望の始まりでもあります。
このシメオンの預言は、歴史の事実であると同時に、私たちへの励ましでもあります。人生では、誰もが落ち込んだり、心が折れそうになったりすることがあります。そんな時に、このシメオンの“ことば”は「神さまがともにおられる」という確かな希望を思い起こさせてくれます。
もしかしたら、シメオンがマリヤに語ったこのひと言が、神さまを信じて生きる私たちにも語られているのかもしれません。そして、私たち自身が、誰かにその希望を伝える存在になることができることを、この“ことば”は教えてくれているのです。
2、アンナの心と役割から
ルカの福音書2章36-38節には、アンナという女性の預言者のことが記されています。
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、
2:37 その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。
2:38 この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。
アンナは、結婚生活をわずか7年で終えた後、長い年月を神殿で神さまに仕える生活を送っていました。当時の女性の人生としても長く、また決して順風満帆とは言えない歩みだったことがうかがえます。
36節の《また、》の接続詞と38節の冒頭に《この老女も》とあるのは、前のシメオンの記述とつながっており、「アンナもまた、シメオンと同じように」と理解できます。つまり、アンナも幼子イエス様について証しをし、エルサレムで救いを待ち望む人々にその希望を語ったということです。
シメオンとアンナ、この2人に共通するのは、高齢であり、信仰深く、救い主を待ち望みながら人々に認められ尊敬される生き方をしていたことです。彼らは立場や肩書きによってではなく、ただ純粋に神さまを信頼して生きていたことによって、周囲からも神さまからも評価された人物でした。
この箇所から、神さまがご覧になるのは社会的な地位や成果ではなく、日々どのように神さまを信頼し、従って生きているかという「信仰の中身」だということがわかります。
3、希望はいつの時代も神さまにある
著者ルカは、シメオンとアンナという人物が、どれほど神さまと深く関わりながら生きていたかを丁寧に描いています。そんな信仰深い人々から語られ、祝福されたキリストとその両親は、どれほど大きな励ましを受けたことでしょう。
ルカによる福音書2章39-40節にはこう記されています。
2:39 両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。
2:40 幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。
シメオンとアンナが信仰をもってイエス様を認め、祝福したことは、この先イエス様を育てていく両親にとって、大きな励ましとなり、信仰の支えとなったことでしょう。
これは、私たちが神さまを信じて生きることにも通じています。私たちもまた、神さまが備えられた歩みの中に生かされており、どこまでこの世を歩むかはわかりませんが、シメオンやアンナのように、自分に与えられた役割を果たすことができます。そして、その生き方は、次の世代に希望を受け渡すものとなるのです。
それは、自分の力や立場によるものではなく、神さまを信じて歩んだ人生の中で、自然と与えられる実りなのだと思います。そしてその希望は、今、2025年を生きる私たちにも確かに受け継がれています。
最後に、シメオンが神さまへの深い信頼の中で語った“ことば”(ルカ2章29-32節)を、もう一度味わいたいと思います。
2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、
2:30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。
2025年8月17日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治
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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。