素直に読む黙示録【ヨハネの黙示録_30】

創世記
ヨハネの黙示録
ローマ人への手紙

「ヨハネの黙示録を終えて ― 創世記からながめる黙示録」

〈はじめに〉
 今回は、聖書の最後の書簡である「ヨハネの黙示録」と聖書の最初の書簡である「創世記」とのつながりから、もう一度「ヨハネの黙示録」をながめてみましょう。
 創世記とヨハネの黙示録を交互に読んでいきます。

 創世記1章1節
1:1 はじめに神は天と地とを創造された。

 → 創世記は、創造主である神さまが天と地を創造したと教えています。

 ヨハネの黙示録21章1節
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

 → ヨハネの黙示録では、新しい天と地について記されています。海がないのは、罪をきれいにするための海の必要がなくなったためとお話ししました。

 創世記1章16節
1:16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。

 → 創世記で神さまは、太陽、月、星の光る天体が造られます。

 ヨハネの黙示録21章23節
21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。

 → 黙示録では、神さまご自身の栄光の輝きが光となることを記しています。

 創世記3章23節
3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 → 創世記では、失われた楽園(エデンの園)について述べています。

 ヨハネの黙示録22章2節
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

 → ヨハネの黙示録は、回復された楽園を描いています。

 創世記3章1節a
3:1a さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。…

→ 創世記は、サタンの狡猾を伝え、人への影響力の強さ(その力の強大さ)を強く示しています。

 ヨハネの黙示録20章10節
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

 → ヨハネの黙示録では、サタンは火と硫黄との池に投げ込まれ滅びます。

 創世記3章8節
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 → 創世記では、人は神さまの御顔を避けて身を隠します。

 ヨハネの黙示録21章3節
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、

 → ヨハネの黙示録では、神さまと贖われた人との潤しく親しい交わりが描かれています。

 創世記3章19節
3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 → 創世記では、罪によって死が訪れます。

 ヨハネの黙示録21章4節
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

 黙示録に登場する「大いなるバビロン」や「大淫婦」と呼ばれるこの世の権力については、すでに創世記4章でその源が示されています。弟アベルを殺した兄カインの子孫から、町づくりや芸術、産業といった人間の文化が始まったと記されています。さらに、黙示録に登場する「獣」が象徴する反キリスト的な政治的・宗教的指導者の原型も、創世記6章に登場するネピリム(神さまを敬わない人々の間で名を上げた勇士、有名人)としてすでに現れています。

 このように見ると、人類の歴史は、創世記でまかれた「種」が黙示録で「花」として咲くまでの過程とも言えるでしょう。神さまが創造された命の種は、罪によって成長が妨げられましたが、神さまのあわれみと導きによって、最終的に回復し、花開くのです。

 黙示録で描かれるのは、まさにその「回復」された人々の姿です。神さまは、人の罪によってかたくなになった心をなおも追い求め、救いと回復によって花を咲かせようとしておられるのです。

 もし私たちが、エデンの園で神さまのことばに従い続けていたなら、罪によるつまずきではなく、そこで神さまの愛のもとに花開いていたのかもしれません。

〈本文〉
 創世記1章31節の前半部を読みます。

1:31a 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。

 神さまが初めに造られた世界は、完全で、すべてが調和していました。その環境は《はなはだ良かった》、つまり、非常にすばらしいものでした。
 このことを思うと、いまの世界にどれほど罪の影響が深く、重く及んでいるかが分かります。
 人は、神さまの創造の中で特別な存在として造られました。
 神さまは人をご自身のかたちにかたどり、霊的な存在として、神さまの摂理、その法則やご計画、そして思いを理解し、表すことができるようにされました。
 人は、神さまの光を受けてその光を映し返す鏡のように、神さまのご栄光をあらわす存在として造られたのです。

 また、神さまは人を、自分の意志をもって神を愛し、従うことのできる存在として造られました。神さまとの関係を、愛と信頼の中で自ら選び取ることを望まれたのです。
 人は、その与えられた自由を神さまに従うためではなく、自分の思いを優先させるために使ってしまいました。その結果、神さまのことばに背き、罪を選ぶ道を歩んでしまったのです。

 神さまが《はなはだ良かった》と言われた創造の世界は、人の罪によって歪められ、光を失ってしまいました。しかし神さまは、そんな人間を見捨てることなく、もう一度関係を回復しようと、救いのご計画を始められたのです。
 創世記3章5節を読みます。

3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 蛇はエバにこう語りかけました。「その実を食べれば、神のように賢くなれる。神さまの支配から離れて、神と対等になれる」と。それは、神さまとの上下関係を否定し、「自分も神のようになれる」とする誘惑の言葉でした。エバは、その言葉に心を動かされてしまったのです。

 つまり、エバの心の中にはすでに、神さまに従うことへのわずかな不満、そして「神のようになりたい」という欲求が芽生えていたということです。
それは、造られた初めからではなく、神さまから与えられた自由意志を、自分の判断に使ったときに生まれたものでした。人が「自分で決めたい」と願うその瞬間に、欲と誤りが入り込んでしまったのです。

 もし人に自由意志がなければ、罪は生まれなかったでしょう。しかし神さまは、人を単なる従順な存在としてではなく、自らの意志で神を愛し、神に従うことを喜ぶ者として造られました。神さまは、人との間に愛と信頼に基づく交わりを望まれたのです。

 そして、この失われた関係の回復こそが、黙示録に描かれている神さまの救いの完成です。そこには、こう記されています。ヨハネの黙示録21章3-4節です。

21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

 初めに失われた関係が、終わりにおいて完全に回復する。それが、創世記から黙示録へと流れる神さまの愛の御旨であり、ご計画なのです。
 創世記50章20節を読みます。

50:20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。

 この創世記50章20節は、ヨセフに対して負い目を感じていた兄たちが、赦しを願ってヨセフのもとに来たときに語られたものです。
 兄たちは悪い計画をもってヨセフをエジプトに売りました。しかしヨセフは、その出来事の背後に神さまの摂理(法則・ご計画・ご支配)を見ていました。
彼は、すべてに神の時があることを信じ、兄たちを憎むのではなく、その悪の中にさえも働いておられる神さまの深いご配慮を見ていたのです。

 神さまの摂理を正しく理解するためには、聖書全体を通して神の働きを見ていく必要があります。
 今回の学びでは、その中から「創世記」と「黙示録」を通して、神さまのご計画の大きな流れを見ました。

 黙示録では、神さまが人を初めの創造の関係、創造主と被造物の関係へと回復させておられる姿が描かれています。
 人は自由意志を与えられていますから、神さまに心から従い、神さまのご計画を喜んで受け入れ、神さまのご栄光をたたえ、神さまの光を映し出す存在として生きるのです。

 一方、創世記から見ていくと、罪の影響がいかに深く、重いものであるかが分かります。
 なぜ神さまがこれほどまでに罪を憎まれるのか。それは、罪が神さまと人との交わりを断ち切るからです。
 創世記の初めから、罪をめぐって神とサタンの戦いが続いています。しかし、聖書の終わりでは、サタンが滅ぼされ、神の民が罪から完全に解放されるという勝利が示されています。

 この文脈の中で、人が神の目的に反する生き方をすることが、いかに愚かでむなしいかを私たちは学びました。

 しかし同時に、罪の大きさゆえに、神さまはイエス様をこの世にお送りくださいました。そして、そのイエス様は、やがて再び来てくださいます。そのとき、創世記から始まった神さまのご計画は完全に成就し、神さまと人との関係は永遠に回復されるのです。

〈まとめ〉
 前回、ヨハネの黙示録22章を学びましたが、20節の《「しかり、わたしはすぐに来る」。》というイエス様の言葉に目をとめました。

 この《すぐに来る》という語りかけは、イエス様が再び来てくださるという約束だけではありません。
 これまで聖書を通して見てきた、神さまのすべてのご計画が成就する時が近いという宣言でもあります。

 そのとき、私たちは心から「主よ、すぐに来てください。マラナ・タ(きたりませ)」と言えるでしょうか。
 この問いは、
 「今、あなたの信仰は神さまと真正面から向き合って歩んでいますか」
 「神さまに従うことがあなたの喜びになっていますか」
 そのように、私たちの信仰の姿勢を問う呼びかけでもあります。

 神さまは、初めに造られた人との関係を心から回復したいと願っておられます。
 そして、今この世で、また私たちのまわりで起こるすべての出来事は、その神さまの願いである“神さまと人との交わりの回復”に向かって進められているのです。
 それこそが、神さまの変わることのないご計画なのです。

 神さまのご計画は、私たちの思いをはるかに超えています。
 ですから、すぐには理解できないことの方が多いでしょう。 思いもよらない出来事が突然降りかかることもあります。「なぜですか」「どうしてですか」「いつまで続くのですか」 ―― そう神さまに問いかけたくなる時、あるいは実際に問い続けてきた時もあったことでしょう。

 また、「それが神さまのご計画です。最善です」と言われても、すぐには受け入れられないこともあります。しかし、創世記から黙示録まで聖書全体を見ていくと、神さまの摂理(法則・ご計画)は一つの方向に流れていることが分かります。

 それは、創造のはじめに戻ること。つまり、神さまと人との本来の関係に戻ることです。
 私たちは、神さまに与えられた自由な意志をもって、自分の思いではなく神さまの思いに従いながら、神さまと親しく交わり、そして神さまにご栄光を賛美する者として歩むように招かれています。

 そこにこそ、神さまの喜びがあり、また、勝利者としての私たちの喜びがあります。
 すべては、その方向“創造の回復と神との交わりの完成”に向かっているのです。

 そして、その大きなご計画の中で、神さまは私たち一人ひとりを見ておられ、それぞれに最善で、喜びに満ちたご計画をもって導いてくださっています。

 目の前で起こる出来事の中には、どうしても飲み込めないことがあります。
 「なぜですか」「どうしてですか」と、神さまに問い続ける時もあるでしょう。

 たとえ、その問いに対して直接的な答えが与えられなかったとしても、どうか、イエス様の十字架を思い起こしてください。
 その十字架の上での苦しみ、流された血を心に留めてください。イエス様は、私たちの生まれながらの罪の性質を一身に負い、それを赦し、なおも愛してくださいました。
そのことを心に留め続けるとき、そこに、幸いな者の姿が、内から湧いてくるのではないでしょうか。

 そして、それだけではありません。私たちには、ご聖霊がともにおられます。
 パウロは、ローマ人への手紙8章26節でこう語っています。

8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

 神さまは、私たちを決して孤立させません。どんな問いの中にも、どんな沈黙の中にも、神の愛と御霊の助けがともにあるのです。
 ヨハネの黙示録21章6節を読みます。

21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

 《わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。》
 この御方、すなわちイエス様は、「事はすでに成った」と宣言されました。創世記から黙示録にいたるまで、聖書に記されている神のわざは、すべて神のご計画の中で成就しています。

 私たち人間は、初めから終わりまでを見通すことはできません。しかし、聖書にはその初めから終わりまでのすべてが記されています。ですから、まだ成就していないこと。すなわち、これから起こることも、必ず起こるのです。
 なぜなら、イエス様ご自身がヨハネにそのことを示され、この「ヨハネの黙示録」を書かせたからです。ヨハネは、イエス様に最も近い弟子のひとりでした。イエス様は、その愛する弟子にご自身のご計画を・・・啓示(けいじ)されたのです。

2025年11月21日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_28】
タイトル:「ヨハネの黙示録を終えて ― 創世記からながめる黙示録」
牧師:香川尚徳