ショートメッセージ【伝道の書】

伝道の書1章2-3節、14節
伝道の書2章22-25節
伝道の書3章1-13節
伝道の書12章13-14節

(日の下の虚しさと、天が下の希望 ― 神さまの時に生きる)

0、はじめに
1、ソロモンの問い ― 人生の意味とは?
2、「日の下」― 神さまを抜いた人生は虚しい(伝道の書1章・2章)
3、「天が下」― 神さまの摂理に生きる(伝道の書2章3節 → 3章)
4、人生の答えは神さまとの関係にある(伝道の書12章13–14節)
5、祈りの流れの中で語られるイエス様の招き(マタイ11章)

 本日は、最初に御言葉をお読みしたいと思います。
 伝道の書1章2-3節、14節

1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

1:14 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。

 伝道の書2章22-25節

2:22 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。
2:23 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。
2:24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
2:25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。

 伝道の書3章1-13節

3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
3:2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3:3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
3:4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
3:6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
3:7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
3:8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
3:9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
3:10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
3:12 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
3:13 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

 伝道の書12章13-14節

12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

0、はじめに
 新しい年 2026年を迎えました。私たちは今年、何を目的として生きるのでしょうか。
 2026年最初のメッセージは、伝道の書を通して学びたいと思います。

 伝道の書は、ソロモンによって書かれたとされる「知恵文学」の一つであり、人の知恵と経験の限界、そして神さまを抜いた人生の虚しさを徹底的に見つめた書です。
 全体を眺めますと大きく四つの流れで語られています。
 まず第1部(1~2章)は「人生の探求」。人は何を得ても満たされないという「日の下の虚しさ」です。
 次に第2部(3章)では、「神さまの時と摂理」が語られます。
 第3部(4~11章)は、「その虚しさのさまざまな姿」。
 そして第4部(12章)で、「人生の結論」が語られます。
 神さまを恐れ、その命令を守る。これが人の本分です。

 伝道の書の流れを一文でまとめると、こう言えます。
 「神さまを離れて生きるなら、すべては空しい。神さまの主権のもとで生きるなら、すべてはその時にかなって美しい。」
 ソロモンが若い日から老年に至るまでの経験を通して語ったこの書は、私たちに「どの視点で人生を見ているか」を問いかけています。それでは、伝道の書の中心メッセージを見ていきましょう。

1、ソロモンの問い ― 人生の意味とは?
 伝道の書の著者ソロモンは人生の最後にこう言いました。伝道の書1章2節です。

1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

 実は、イスラエル3代目の王ソロモンは、富も栄光も名声も権力も、すべてを手に入れました。しかしソロモンは、「神さまを抜いた」人生を追求した結果、虚しさに気づきます。

2、「日の下」― 神さまを抜いた人生は虚しい(伝道の書1章・2章)
 伝道の書1章3節を読みます。

1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 ここで使われる《日の下》という言葉。原文ヘブル語では タハト・ハシェメシュ と言います。
 《日の下》 → タハト・ハシェメシュ(太陽の下)= 神さまを抜いた“地上だけ”の視点です。
 ソロモンは「太陽の下」で、次の4つを追い求めました。
 ・知恵
 ・快楽
 ・財産
 ・成功・名誉
 を極限まで追求しました。
 しかし結論はこうです。その答えが伝道の書1章14節にあります。

1:14 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。

 2章でも同じことを告白します。2章22節です。

2:22 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。

 そしてショックなことに、こう言い切ります。2章23節です。

2:23 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。

 ソロモンは 「神さま抜いた成功」には意味がない と気づきました。

3、「天が下」― 神さまの摂理に生きる(伝道の書2章3節 → 3章)
 ここで転換が起こります。
 3章冒頭に、《天が下》という言葉が出てきます。
 原文ヘブル語では タハト・ハシャマイム と言います。

 《天が下》 → タハト・ハシャマイム(天の下)= 神さまの御手のもと、摂理・計画の中で生きる人生。と、ソロモンは悟りました。
 つまり、“神さま抜きで生きれば、すべては空しい。 神さまのご主権の中で生きるなら、すべてに意味がある。”と
 そして 3章 に入ると、突然調べるのをやめ、神さまの御手を認め始めます。3章1節です。

3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

 泣く時があり、笑う時があり、捨てる時があり、愛する時があり、戦う時がある。と行動の時が綴られています。
 私たちの人生にも、まさにこの“時”の繰り返しがあります。しかし、そのどの時も神さまの御手の中にある。これが希望です。

 その中心となるのが3章11節です。

3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 こうして見ると、
 《日の下》では虚しさ。
 《天が下》では希望。
 です。そして、人間はすべてを理解できなくても、神さまのご計画は最善で、時は完全です。

 視点が変わると、人生の意味が変わります。
 2025年に神さまの御業があった。そして2026年にも御業がある。
 皆さんの人生にも、昨年にも今年にも、神さまの時があります。

・思い通りにならない時
・祈りがすぐに答えられない時
・進むべきか留まるべきか迷う時

 でもそれらはすべて《皆その時にかなって美しい。》のです。それは、後になって必ず分かります。神さまの時であったこと。わたしや他者にとって必要な事と時であったことが―。

4、人生の答えは神さまとの関係にある(伝道の書12章13–14節)
 伝道の書の終わり、ソロモンはこう結論づけます。
 伝道の書12章13節です。

12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

 それは、伝道の書12章14節にあります。

12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

 人生の目的は、
 何を成し遂げたかではなく、
 誰と歩んだか、
 そう、ソロモンは、神さまと共に歩むことを強く勧めているのです。

5、祈りの流れの中で語られるイエス様の招き(マタイ11章)
 もし今日ここに、虚しさを感じている人、目的を探している人がいるなら、イエス様は呼びかけられています。
 最後に、イエス様の言葉を読みます。マタイによる福音書11章25-30節です。

11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
11:26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
11:27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 この箇所は、イエス様が父なる神さまに祈り、父なる神さまの主権と権威を宣言し、その権威に基づいて、聞いている人に語られた言葉です。

 民衆は神さまを信じていました。しかし イエス様がメシアであることは信じられなかったのです。

 イエス様は祈りながら語られました。《すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。》と。

 祈りの流れの中で、父なる神さまとの交わりを保ちながら、聞いている者へ、はっきりと語りかけた招きです。

 この描写からすると、イエス様を見ていた人には独り言のように見えたかもしれません。
 でも実際は、“御子(イエス様)が御父(父なる神さま)へ感謝の祈りをし、そして、その御子から私たちへの招き”です。その御子なるイエス様は語ります。
 《わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。》と。律法学者や当時の宗教指導者の重いくびきではなく、イエス様の恵みのくびきへと。

 この一年、私たちが《日の下》ではなく《天が下》に生きる者として、神さまの時を信じて歩んでいくことができますように。
 2026年も神さまの導きの中で歩ませてください。

2026年1月4日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、準備をしております。 

【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
 ニックネームでの参加もOKです。