ショートメッセージ【マルコの福音書2章_3】

マルコによる福音書2章23-28節
(安息日の真の意味とイエス様の主権)

1、安息日とパリサイ人の解釈
2、ダビデの例と神の憐れみ
3、安息日の真の目的とイエス様のご主権
4、むすび:福音の根幹と変革への招き

 パリサイ人たちにとって、前の回でお話しした《古い皮袋》とは安息日に関する彼らの厳格な解釈のことでした。マルコによる福音書2章の後半から3章前半にかけて、安息日を巡る出来事が、彼らがイエス様を殺そうと相談し始めるきっかけとなります。

1、安息日とパリサイ人の解釈
 マルコによる福音書2章23-24節

2:23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。

 安息日は、神さまが六日で天地を創造し、七日目に休んで聖なるものとされたことに基づき、イスラエルの民に七日目は休むよう命じられたものです。そこには「働いてはならない」という厳しい戒めがありました。
 パリサイ派の人々は、この「労働」とは何かを厳密に定義するために、口伝律法、すなわち「ミシュナ」や「タルムード」といった伝承を作り始めました。例えば、出エジプト記35章3節で《安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。》とあるように、律法には大まかな規定がありましたが、彼らはそれをさらに細かく解釈し、日常生活のあらゆる行為について「労働」と見なされるものをリストアップしました。

 当時のユダヤ教には、聖書(旧約)のテキストを解釈し解説する「ミドラシュ」、そして口伝律法を体系化した「ミシュナ」、さらにミシュナに対するラビたちの議論をまとめた「タルムード」 といった膨大な文献が存在しました。これらは安息日の規定を極めて細かく定め、例えば「刈り取り」や「脱穀」を労働とみなしていました。そのため、弟子たちが麦畑で穂を摘み、手ですり合わせて籾殻を取り払っていたとすれば、パリサイ人たちはこれを「刈り取りと脱穀」という労働に当たると見なして責めたのです。
 しかし、律法そのものには、弟子たちの行為を禁じるものではありませんでした。申命記23章25節には、

23:25 あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。

 とあり、空腹の者が隣人の畑で食べたいと願うものを食べるのは、その必要を満たすためのものであり、神さまの寛容さを示す教えでした。神さまは必要に迫られて行なうことには寛容ですが、その寛容を利用して欲を出すことは禁じておられます。したがって、弟子たちが穂を摘んでいたことは律法にかなった行為でした。
 パリサイ人が問題視したのは、律法ではなく、彼ら自身の作り上げた「安息日には穂を摘んではならない」という“言い伝え”に違反していることだったのです。

 私たちはしばしば、神さまの命令ではないものを自分自身に課し、それが守られないと自分を責めてしまうことがあります。しかし、それは「罪の責め」ではなく、人間が作り上げた「言い伝え」に縛られている状態であり、そこから自由にされて構わないのです。

2、ダビデの例と神の憐れみ
 イエス様は、パリサイ人たちの律法解釈が間違っていることを指摘するために、彼らが尊敬するダビデ王の例を挙げられました。マルコによる福音書2章25-26節です。

2:25 そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
2:26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

 これはサムエル記上21章1-6節に記されている出来事です。
 命を狙われて逃亡生活を送っていたダビデが祭司の町ノブに行き、空腹のためにパンを求めたとき、祭司アヒメレクは、本来祭司のみが食べることが許されていた臨在のパン(供えのパン)をダビデと彼の供の者たちに与えました。律法のレビ記24章5-9節には祭司のみが食べることが定められていましたが、目の前に飢えている者がいるという切迫した状況において、祭司は律法の字面よりも「人の空腹という切実な欲求に対する憐れみ」を優先したのです。

 イエス様はこの出来事を例に挙げ、律法を厳格に守ること自体が目的になってしまったパリサイ人たちに対して、神さまの律法は本来、人を縛るためではなく、人を生かす憐れみから与えられたものであることを示されたのです。

3、安息日の真の目的とイエス様のご主権
 そして、イエス様は律法主義に対する反論の結論として、こう言われました。
 マルコによる福音書2章27-28節です。

2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
2:28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

 神さまがご自身のかたちに似せて人を造り、ご自身が天地創造の後に休まれたように、七日目に休むよう命じられたのは、人の益のためでした。
 安息日は、私たちが絶えず働き続けなければと焦り、奴隷状態になることから解放され、神さまの中に生きることこそが真の益であることを教えています。
 霊的にも、「もっと何かをしなければ神さまに喜ばれない」という焦りを抑え、休むことによって、神さまがすべてのことを行ってくださったのだと気づくことができるのです。初めから終わりまで、神さまがキリストにあって救いをご計画しておられることを知るために、安息日は私たちのためにもうけられました。

 しかし、律法主義は、この主体を逆転させてしまいます。人のための安息日を、安息日を自己目的化し、あたかも人が安息日のために造られたかのようにしてしまうのが、一つの過ちでした。

 もう一つの過ちは、《それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである》という言葉に示されています。イエス様ご自身が《人の子》という、ご自身がキリストであることを暗示する呼び名を用いて、ご自身が安息日に対しても主権を持っていることを明確に宣言されました。
 パリサイ人たちは、主の命令だから安息日を守るべき“しもべ”であるはずなのに、まるで安息日について主権を持っているかのように振る舞っていました。これは、神さまを敬っているように見えますが、実際には自分のために神さまを利用していることになってしまうのです。

4、むすび:福音の根幹と変革への招き
 これまでのマルコによる福音書2章の学びを通して、私たちは福音がいかに私たちに優しさと慰めを与えるものであるかを知ることができます。
 福音の根本は罪の赦しです。イエス様は、人から仲間外れにされるような時にも共に食事をし、私たちのさまざまな必要に敏感に答えてくださる神さまのしもべです。多くの人を癒し、悪霊を追い出されたように、私たちを助けてくださいます。

 しかし肝要なのは、私たち自身が何かを成し遂げようとするような「パフォーマンス」は必要ないということです。また、「自分が良い子であったら神さまに近づけるかもしれない」という考えではなく、むしろ等身大のありのままで神さまに近づくことが求められています。
 イエス様は、私たちが罪を犯したとき、悔い改めてキリストに立ち返るなら、それを豊かに赦してくださいます。これこそが最も大きな「良い知らせ」なのです。

 私たちが、従来の自分のやり方や考え方にイエス様を付け加えるような接ぎ木では、新しい福音を受け入れることはできません。また、自分自身を変えるつもりがなく、ただイエス様の御名を唱えるだけでは不十分です。イエス様は、ご聖霊の力によって、私たちを根底から必ず変えてくださいます。弟子たちのように、失敗を恐れずにイエス様についていき、この恵みを受け入れる義務があるのです。

2026年2月15日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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