ショートメッセージ【マルコの福音書7章_1】

マルコによる福音書7章1-23節
(本来の教えを見誤るな)

1、聖書なのか言い伝えなのか
2、神の教えなのか人間の教えなのか
3、耳があるのかないのか

 マルコによる福音書6章では、イエス様に対する人々の“心の姿勢”が次々と描かれていました。
 故郷ナザレでは、人々は長年の経験や思い込みからイエス様を受け入れられず、不信仰ゆえに御業を見ることができませんでした。一方、イエス様に遣わされた弟子たちは、足りなさを抱えながらも神さまに依り頼むことを学びました。

 しかし、ヘロデ王は真理を知りながらも二心と世間体に縛られ、ヨハネを殺してしまいました。また、5000人の給食や水上歩行の場面では、弟子たちが主の御力の意味を悟れず、心が鈍くなっている姿もありました。その一方で、イエス様の“衣のふさ”に触れようとする群衆のように、主のもとへ大胆に近づく信仰を示す人々もいました。

 このように、6章全体を通して浮き彫りになるのは、「どのような心でイエス様の言葉を受け取るのか」 という問いです。
 不信仰にとどまるのか、世間体にとらわれるのか、あるいは鈍い心のままで歩むのか。それとも、主に触れようとする“へりくだった信仰”を選ぶのか─。

 そして7章では、その問いにさらに深く踏み込み、イエス様は 「人は何によって清く、また汚れるのか」 を明確に教えられます。
 表面的な行いなのか、人の言い伝えなのか。それとも、神さまご自身のことばなのか。
 信仰の本質が揺らぎやすい私たちに、イエス様は心の内側を照らすことばを語ってくださいます。

 それでは、7章1–23節を通して、“本来の教えを見誤らないためのイエス様の警告” に耳を傾けてまいりましょう。

1、聖書なのか言い伝えなのか
 マルコによる福音書7章1-4節を読みます。

7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。
7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

 まず、7章1-4節に出てくる「手を洗う」「器を洗う」という行為は、現代のように衛生のために行っていたわけではありません。
 聖書が教える生活をしていた民であるユダヤ人は、神さまが与えられた律法(トーラー)と、その律法を守るために後の時代につくられた多くの“人間の言い伝え”がありました。

 弟子たちが手を洗わずに食事をしたことをパリサイ人が問題にしたのは、トーラー(神の教え)ではなく、ミシュナーやタルムッドと呼ばれる“人の側が作った細かい決まり”に基づいてのことでした。つまり、彼らは“神の命令”ではなく“先祖の伝統”を基準に弟子たちを批判していたのです。

 では、なぜそんな決まりが作られたのでしょうか。背景には、出エジプト記30章に記されている祭司たちの儀式があります。
 祭司であるアロンとその子たちは、神さまの前に仕える務めに就く前に、“洗盤”で手足を洗うよう命じられていました。この儀式は、神さまの前に出る者が身を整えるための特別な行いでした。

 やがてユダヤ人は、この“祭司のための特別な儀式”を一般の日常生活にまで広げ、食事の前の手洗いや、器物を清める習慣へと発展させていきました。そして、その行いを「守らなければならない伝統」として重んじるようになったのです。

 しかしイエス様が問題にしておられるのは、彼らが“神のことば”よりも“人が作った伝統”を優先してしまっているという点でした。
 聖書の教えと、人間が後から積み重ねてきた慣習、その違いを見分けることが、ここでは重要になります。出エジプト記30章17-21節見ます。

30:17 主はモーセに言われた、
30:18 「あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、
30:19 アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。
30:20 彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。
30:21 すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。

 この出エジプト記30章17-21節に記されているのは、祭司だけに与えられた特別な務めのための“きよめの儀式”です。神さまの前に仕える祭司アロンとその子たちは、幕屋に入る前や祭壇で礼拝の務めをするとき、必ず“洗盤”で手と足を洗うよう命じられていました。

 その理由は明確です。
 《水で洗って、死なないようにしなければならない。》とあるように、神さまの聖さの前に近づく者が、ふさわしい態度と整えをもって臨むための儀式だったのです。これは、私たちの日常生活のマナーではなく、神さまご自身が定められた“聖所での礼拝儀式”の一部でした。

 つまり、この水で洗う行為は、神の民すべてに命じられた一般的な行為ではなく、あくまで祭司として奉仕する者だけが行う専用の儀式でした。

 ところが時代が下るにつれ、この祭司のための特別な儀式が、一般の人々の日常の食事にまで拡大され、やがて「必ず守るべき伝統」として扱われるようになりました。
 イエス様が問題にされたのは、神さまの命令とは別の“人の作った慣習”が、あたかも聖書と同じ重みを持つものとして扱われていたことなのです。

2、神の教えなのか人間の教えなのか
 マルコによる福音書7章5-8節を読みます。

7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

 パリサイ人たちは、弟子たちが手を洗わずに食事をしたことを問題視し、イエス様に問いただしました。しかし、彼らが守らせようとしていたのは、神さまの教えではなく、先祖から伝わる“人の決まり”でした。

 イエス様はイザヤ書を引用して、彼らの姿を明らかにされます。
 ・口では神さまを敬うと言いながら、心は神さまから離れている。
 ・神さまの教えではなく、人が作った規則を教えている。
 彼らは外側の行いや形式ばかりを重視し、本当に神さまが求めておられる心の姿を見失っていたのです。

 これは、私たちにとっても大きな“出来事としての警告”です。人は、本来の神さまの教えを脇に置き、自分に都合よく解釈し始めると、いつの間にか“人の伝統”が“神さまの御心”よりも優先されてしまうからです。

 その結果、努力して守っているはずの行いが、かえって神さまが喜ばれない方向へ向かうことがあります。
 それは、当時のパリサイ人や律法学者に起きていた出来事であり、今の私たちにも起こり得る現実です。続けて、マルコによる福音書7章9-13節を読みます。

7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。

 イエス様は次に、パリサイ人たちが「コルバン(献げ物)」という制度を用いて、神さまの本来の教えをねじ曲げてしまっていることを指摘されました。

 本来、神さまは「父と母を敬いなさい」と命じておられます。しかしパリサイ人たちは、「これは神さまへの献げ物(コルバン)です」と言いさえすれば、本来その人が親のために用いるべきものでも献げ物扱いにできる、という解釈を広めていました。

 その結果どうなるでしょうか。
 親を支える責任を放棄しても「宗教的に正しい」とされてしまうのです。
 イエス様は、このようなやり方によって、神さまのはっきりした命令が、人間の言い伝えによって打ち消されてしまっていると告げられました。

 これは、私たちにとっても大きな警告です。
 本来、神さまが重んじておられるはずの「父母を敬う」という教えに、人間が勝手な解釈を加えると、まったく逆の結果を生み出してしまうからです。
 しかも、本人は「良いことをしている」「真面目に守っている」と思い込んでいるため、気づかないうちに神さまの御心から遠ざかってしまいます。

 当時のパリサイ人や律法学者に起きていたことは、人の伝統が神の言葉より優先されてしまうと、どれほど深刻な結果を招くかを私たちに示す出来事なのです。

3、耳があるのかないのか
 マルコによる福音書7章14-16節を読みます。

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。

 イエス様は群衆をもう一度呼び寄せ、非常に重要な教えを語られました。
 「人を汚すのは、外から入るものではなく、その人の内側から出てくるものだ」と言われたのです。
 これは、食べ物や外側の行為そのものが人を汚すのではなく、心の中から出てくる思いや態度こそが、人生を汚す原因になるという意味です。

 律法や教えの本質は、神さまが望まれる生き方に心を向け、神さまの言葉に従って歩むことにあります。しかし、ここに示されている問題は、当時の人々だけでなく、私たち誰にも起こり得るということです。

 外側の表面的な行いばかりに気を取られ、心の向きが神さまから離れてしまうなら、どれほど熱心に教えを守っているつもりでも、本質を見失ってしまうのです。
 マルコによる福音書7章17-23節を読みます。

7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

 イエス様が家に入られると、弟子たちは先ほどの教えの意味を理解できず、改めて質問しました。イエス様は、「外から入ってくるものは人を汚さない」ということを、もう一度はっきりと示されます。
 食べ物は心に入るのではなく、体を通って外に出ていきます。ですから、外側から入ってくるものが人を汚すのではない、と言われたのです。

 では、何が人を汚すのでしょうか。
 イエス様は、「人の内側から出てくるものこそが、人を汚す」と教えられました。
 不品行、盗み、妬み、高慢、愚痴…これらはすべて、人の心の深いところから出てくる思いや態度です。

 ここで私たちが覚えるべきことがあります。
 なぜ聖書の教えが必要なのか。なぜ神さまの基準が必要なのか。
 それは、私たち自身の心が簡単に自分中心になり、本質を曲げてしまうからです。

 弟子たちがすぐに理解できなかったのは、当時当たり前とされていた慣習や教えの中で生きていたためでした。私たちもまた、自分の価値観を正しく判断することは、とても難しいのです。

 そのため、イエス様は「神の言葉に、人の教えを混ぜてはならない」と強く示されたのです。
 私たちに求められているのは、聖書そのものに耳を傾ける姿勢です。
 どれほど立派に見える意見であっても、神さまの言葉の代わりになることはありません。

 そして、もし私たちが聖書から目を離し、自分の思いや願いだけを基準に歩いてしまうなら、気づかないうちに神さまから離れてしまいます。
 ですから、聖書に基づいて歩むこと、また心を神さまの前に素直に開くことが大切なのです。

2026年5月24日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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