ショートメッセージ【マルコの福音書9章_2】
マルコによる福音書9章30-50節
(何も悟らない弟子たち)
1、まだ悟らない弟子たち
2、偉くなりたい弟子たち
3、高慢になる弟子たち
1、まだ悟らない弟子たち
マルコによる福音書9章30-32節を読みます。
9:30 それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
9:32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
マルコによる福音書9章30-32節では、イエス様が弟子たちに大切なことを教えておられる場面が記されています。イエス様は「人に気づかれたくない」と思われながら、弟子たちと静かにガリラヤを通っておられました。その理由は、この時イエス様が、ご自身の十字架の死と復活について、弟子たちにだけ深く語っておられたからです。
いま、お読みした、《「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」》(9章31節)ですが、イエス様は、ご自分に起こる出来事を包み隠さず、はっきり語られました。
しかし弟子たちは、その言葉を理解できませんでした。さらに、わからないのに確認しようとせず、「尋ねることを恐れて」沈黙してしまいました。
なぜ弟子たちは悟れなかったのでしょうか。
その理由の一つは、イエス様のご計画がいよいよ進み、優先すべきことが明確になっていた一方で、弟子たちの成長は追いついていなかった、からです。
これまでの場面を振り返ると、弟子たちはしばしば、
・自分の感情
・自分の価値観
・自分の期待
に基づいて行動し、イエス様の意図を取り違え続けていました。
イエス様が語られた“救いの本質”よりも、“自分たちが思うメシア像”を手放さなかったのです。だから、イエス様が「殺され、よみがえる」と告げられても、その意味を受け取れず、恐れのほうが勝ってしまいました。
しかし、ここに描かれている弟子たちの姿は、単なる批判のための記事ではありません。
むしろ、「これは私たち自身の姿ではないか?」と気づかせるための記事です。
私たちも、
・わかったつもりで実は何も悟っていない
・神さま御言葉より、自分の価値観を優先してしまう
・わからないのに“尋ねること”を恐れてしまう
そんな姿勢になることがあります。
そういう意味では、弟子たちは“反面教師”です。
彼らの弱さを見ることで、私たちは自分の姿を重ね、神さまの前にへりくだり、学ぶべきことを素直に受け取りやすくなります。
2、偉くなりたい弟子たち
マルコによる福音書9章33-37節を読みます。
9:33 それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
9:34 彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
9:35 そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
9:36 そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
9:37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
カペナウムに着いたとき、イエス様は弟子たちに「道々、何を話していたのか」と尋ねられました。弟子たちは答えられず黙り込んでしまいました。というのも、道中で「誰が一番偉いのか」という、非常に人間的な議論をしていたからです。
弟子たちは、自分たちの中に序列を作ろうとしていました。注解書などでは「ペテロが年長だから一番上だった」という推測が語られることもありますが、この場面を見ると、実際にはもっと素朴で生々しい“優劣争い”が背景にあったことがわかります。年齢や立場というより、「自分こそ上だ」と思いたい心が彼らにあったのです。
このような姿勢には、ユダヤ人の文化的背景も影響していたと思われます。ユダヤ人は「自分たちは神さまに選ばれた民である」という強い選民意識を持っていました。現代のイスラエル情勢からも分かるように、“自分たちこそ正統”という思想は非常に固く、妥協を許しません。そのような考えが、弟子たちの中にも自然に染み込んでいたのでしょう。
そこでイエス様は、弟子たちに「偉さとは何か」を教えるため、幼い子どもを抱き上げて真ん中に立たせ、次のように語られました。先ほど読みました、マルコによる福音書9章37節です。
9:37 「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
これは、イエス様の教える“偉さ”が、弟子たちの考えるそれとは全く逆であることを示しています。イエス様は、立場・年齢・能力の差にこだわらず、誰であっても愛をもって受け入れ、互いに仕える心を持つ者こそ、神さまの御心にかなうと教えられたのです。
つまり、イエス様の名によって一人ひとりを大切に受け入れ、平和で開かれたコミュニティを築く人こそ、本当に“神さまに仕える人”なのだということです。
しかし、このイエス様の教えに対し、弟子たちはまだ十分に理解していませんでした。むしろ、このあと彼らは「受け入れる」ことと逆の“排除”の姿勢を見せてしまいます。
3、高慢になる弟子たち
マルコによる福音書9章38-40節を読みます。
9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
この9章38-40節では、弟子ヨハネの姿が描かれています。ヨハネはイエス様に向かってこう報告しました。38節《「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。》
つまりヨハネは、「自分たちのグループに属していない者がイエス様の名を用いるのはおかしい」考え、その人の働きを排除しようとしたのです。これは、使徒である自分たちだけが正統であり、権威を持っているというある種の“奢り”があったと言えるでしょう。
ヨハネは「雷の子(ボアネルゲ)」と呼ばれるほど気性が強い人物でしたが、この問題はヨハネだけではなかったはずです。弟子全体にどこか “内輪意識” があり、自分たちの枠の外にいる人を受け入れにくい傾向がありました。これこそが 高慢と排他性 の姿であり、イエス様の求める愛とは正反対のものです。
それに対してイエス様は、ヨハネの行動を正されます。9章39節です。
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
イエス様は、“自分たちの仲間であるかどうか”という枠で判断するのではなく、「その人が、イエス様の名を敬い、神さまの御業に参与しているのか」という視点で見なさいと教えておられます。
つまり、神さまの働きは、“私たちの枠の中だけで進むものではない”ということです。
この時の弟子たちの姿は、現代の私たちにもよく見られる高慢さや排他性の姿と重なります。
続けて、マルコによる福音書9章41-50節を読みます。
9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
9:43 もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
9:44 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
9:45 もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。
9:46 〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
9:47 もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
9:49 人はすべて火で塩づけられねばならない。
9:50 塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
いま読んだ9章41-50節は、イエス様が弟子たちに向けて語られた非常に厳しい警告です。
まずイエス様は、41節で《だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。》と教えられます。これは、神さまの味方をする人を勝手な基準で判断してはならない、という意味を含んでいます。
一方で、イエス様を信じようとする「小さな者」をつまずかせる行為については、42節《大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。》と、極めて強い言葉で警告されました。それほどまでに、人を傷つけたり排除したりして、神さまから離れさせてしまうことは“重い罪”なのです。
さらにイエス様は、43-49節で、手・足・目のたとえを用いて、罪を放置する危険を語られました。これは文字通り体を切り捨てることを命じているのではなく、“罪につながる態度や考えを真剣に断ち切らないと、取り返しがつかない結果を招く”という警告です。弟子たちが抱えていた高慢や排他性は、まさにその深刻な問題を象徴していました。
そして50節でイエス様は結論として、《あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。》と語られます。塩は、腐敗を防ぎ、味を整える役割を持ちます。イエス様は弟子たちが愛と謙遜を保ち、互いの関係を平和に保つ“塩気”を持って歩むべきだと教えられたのです。
最後の《塩の味がぬけたら》というたとえは、弟子たちの姿そのものでした。イエス様がこれから十字架に向かわれる大切な時期に、弟子たちはなおも序列争いや排他意識にとらわれ、イエス様の愛の本質をまったく理解していませんでした。
私たちの歩みにも、次のような危険があります。
・役割や立場を、自分の価値そのものと勘違いする
・立場の違う人を見下したり、排除したりする
・神さまの御名を掲げながら、愛のない態度で人をつまずかせてしまう
イエス様は「クリスチャンの人生には、神さま以外の序列があってはならない」と教えておられます。もちろん社会には役割や責任による区別がありますが、それは人間としての価値の上下ではありません。むしろ、どの立場にあっても礼節をもって隣人を大切にすることが、神さまの求める愛の姿です。
この教えを教会や職場、家庭に適用し実践するなら、立場を越えて互いを尊重し合う、愛のあるコミュニティが築かれていくでしょう。
私たちはどこかで高慢になり、《塩の味がぬけ》てしまってはいないでしょうか。神さまの働きをするどころか、妨げてはいないでしょうか。
今回学んだイエス様の弟子たちへのイエス様の厳しい警告は、同時に私たちを正しい方向へ導く深い“愛のことば”でもあります。
2026年6月28日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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