ショートメッセージ【マルコの福音書8章_2】
マルコによる福音書8章22-38節、他
(あなたこそキリストです)
1、神は求めない者には現わされない
2、あなたこそキリストです
3、その告白は何に基づくものか
1、神は求めない者には現わされない
マルコによる福音書8章22-26節を読みます。
8:22 そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。
8:23 イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。
8:24 すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。
8:25 それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。
8:26 そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。

まず、マルコによる福音書8章22-26節では、イエス様がベツサイダで盲人をいやされた出来事が記されています。人々は盲人をイエス様のもとに連れて来て、「さわっていただきたい」と願いました。
イエス様はその人の手を取って村の外へ連れ出し、目につばきをつけて両手を当て、《「何か見えるか」》と尋ねられます。盲人は《「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。》と答え、まだはっきりとは見えていませんでした。しかし、イエス様がもう一度手を置かれると、視力は完全に回復し、すべてがはっきりと見えるようになりました。そして最後に、《「村にはいってはいけない」》と言って彼を家へ帰されました。
これまでにもイエス様は多くの病をいやし、数々の奇跡を行われました。それらは、
・イエス様こそ旧約が預言してきたキリストであることの証し
・神さまが人々をあわれまれる心の現れ
でした。
しかし興味深いことに、イエス様はしばしば「このことを誰にも言うな」と命じられます。今日の記事でも、盲人に《「村にはいってはいけない」》と指示されました。
なぜでしょうか。
その理由の一つは、人々の関心が“奇跡そのもの”に向かってしまう危険があったからです。人々は大きな力を見れば心を奪われますが、その背後におられる神さまを恐れ、礼拝する姿勢がなければ、奇跡はただの“見世物”になってしまいます。
実際、当時の群衆の多くは、イエス様の教えよりも“奇跡の方”に関心を寄せていました。これは弟子たちにすら当てはまることでした。イエス様と共に歩んでいた彼らでさえ、奇跡の本当の意味である、神さまの愛、あわれみ、そしてイエス様のご正体を十分に理解してはいませんでした。
2、あなたこそキリストです
続けて、マルコによる福音書8章27-30節を読みます。
8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。
8:28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
8:29 そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。
このマルコによる福音書8章27-30節では、イエス様が弟子たちにとても大切な問いを投げかけられます。
道を歩きながら、まずイエス様は、《「人々は、わたしをだれと言っているか」。》と尋ねられました。弟子たちは、《「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。》と答えます。
当時の人々は、イエス様を“偉大な預言者のひとり”として見ていました。確かに旧約の預言者たちは、神さまのことばを告げ、不思議なわざを行うこともありました。
しかし、イエス様は預言者とは根本的に違う存在です。預言者は「神さまから与えられた力」によって奇跡を行いますが、イエス様は“ご自身の権威によって”奇跡を行われる方 です。
例えば、五千人と四千人の給食の記事では、イエス様は父なる神さまに感謝しつつも、パンを実際に増やしたのはイエス様ご自身でした。預言者にはそのようなことはできません。
だからこそ、イエス様は次に弟子たち自身に問いかけます。
《「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」》
この問いに対してペテロは、はっきりとこう答えました。
《「あなたこそキリストです」。》
これは、神さまのご計画にかなう告白でした。弟子たちは、イエス様と共に生活し、奇跡を間近で見続けてきました。その経験の中で、“イエス様はただの預言者ではなく、約束された救い主(キリスト)である”と理解したのです。
しかし、ここで重要なのは、「正しい知識を持っていること」と「神さまを深く信頼し、従う心があること」は別だという点です。
このあと続く場面で、ペテロが「キリストとは何をする方なのか」を誤解していたことが明らかになります。
つまり、ペテロは“正しい言葉”を口にしていても、その意味をまだ悟っていなかった のです。
3、その告白は何に基づくものか
マルコによる福音書8章31-33節を読みます。
8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
8:32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
このマルコによる福音書8章31-33節では、ペテロの告白がどれほど“中身を伴っていなかったか”が明らかになります。
イエス様は弟子たちに対し、これからご自身に起こること
・宗教指導者たちに拒まれること
・殺されること
・三日後によみがえること
を、隠すことなくはっきりと語り始められました。
ところがペテロは、そのイエス様の言葉を聞いて、イエス様をわきへ引き寄せ、《いさめはじめた》のです。「そんなことがあってはなりません」と止めようとしたのでしょう。
しかしイエス様は、振り向いてペテロに厳しく言われました。
《「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。》
ここから分かるのは、ペテロが《「あなたこそキリストです」》と告白したことと、心から神さまを信頼していたこととは別であった、という点です。
ペテロは、イエス様を愛していました。だから、「苦しむなんてありえない」「死んでは困る」と思ったのでしょう。しかし、それはあくまでもペテロの視点であり、神さまのご計画を信頼した視点ではありません。でした。
もし本当にイエス様を“キリスト”として信じていたなら、「あなたがそう言われるなら、その“みこころ”を受け入れます」という姿勢になるはずです。けれどペテロは、自分の思いや感情のほうを優先してしまいました。
これは、前回のメッセージを思い起こさせます。
弟子たちは二度も大きな奇跡(五千人・四千人の給食)を見ても、そこに現れていた神さまの愛とあわれみに気づかなかったのです。
ペテロの姿は、現代の私たちにとっても“他人事”ではありません。
・神さまが語られることより、
・自分の気持ちや価値観のほうを優先する
そのような姿勢は、イエス様から「サタン」と呼ばれるほど危ういものだ。と教えられます。
イエス様を止めようとしたペテロの言葉は「優しさ」のように見えますが、神さまのご計画を妨げる働きだった。のです。
自分の思いや価値観を中心に置いたままでは、イエス様には従えません。しかし、福音のために“自分を手放す”者は、かえって命を得るのだと教えられます。
たとえ全世界を手に入れても、魂を失うなら何の意味があるでしょうか。神さまの前で生きる者にとって最も大切なのは、イエス様とそのことばを恥じず、信頼し、従うこと。なのです。
最後に、イエス様の警告を見て終わりたいと思います。
マルコによる福音書8章34-38節です。
8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
8:36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
8:37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
8:38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
2026年6月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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