ショートメッセージ【マルコの福音書9章_1】
マルコによる福音書9章1-29節、他
(悟らない弟子たち)
1、悟れないペテロ
2、悟れない弟子たち
3、悟りを主に求めよ
1、悟れないペテロ
はじめに、マルコによる福音書9章1節を読みます。
9:1 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
前回の箇所では、イエス様の奇跡だけに注目して神さまへの畏れを失っていた群衆や、自分の価値観と感情でイエス様の言葉を受け止めてしまっていた弟子たちに対する警告が語られていました。今回の箇所は《また、》という言葉で始まりますので、「今話している内容とつながっている」という意味になります。
イエス様はマルコによる福音書8章31節で、《…人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、》という出来事を弟子たちに語られました。しかし弟子たちは、その深い意味を理解できず、むしろ感情的になってイエス様をいさめてしまったのです。
その流れを受けて、イエス様は《「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。》と語られました。今の時代に生きる私たちは、聖書全体を見渡すことができるので、この言葉が何を指しているか理解できますが、弟子たちにとっては、まだ何を意味しているのかつかめなかったに違いありません。
続けて、マルコによる福音書9章2-8節を読みましょう。
9:2 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
9:3 その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
9:4 すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
9:6 そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
9:7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
9:8 彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
6日後、イエス様はペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人だけを連れて高い山に登られました。すると、弟子たちの目の前でイエス様のお姿が変わり、衣はまばゆいほど真っ白に輝きました。それは、人の手では決して生み出せない、イエス様の栄光があふれ出た白さでした。その中に、旧約聖書で神さまに用いられ大きな働きをした二人、モーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていました。
ここで何が話されたのか、聖書は記していません。しかし、弟子たちがモーセとエリヤを認識できたことは興味深い点です。ユダヤ人としての伝承によるものなのか、イエス様が告げられたのかは分かりませんが、そこに広がっていたのは、天の栄光に満ちた、畏れを覚える光景であったことは確かでしょう。
その中で、ペテロは思わずこう言います。《「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。》ペテロがこのように言ったのは、心の内に畏れが湧き上がり、圧倒的な光景の前でどう振る舞うべきか分からず、ただ“このままずっとここにいたい”という思いが強く出たからででしょう。
しかし、ここで思い出したいのは、直前の場面でペテロがイエス様から《「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。》(マルコ8章33節)と厳しく戒められたことです。
残念ながら、ここでもペテロは“自分の思い”を優先してしまい、神さまの御心を理解しないまま発言してしまっています。
マルコによる福音書9章7節を見ると、雲が彼らをおおい、雲の中から父なる神さまの声が響きました。
9:7 すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
これは、「あなたがたは、まずイエスに聞き従いなさい」という明確なメッセージです。ペテロのように、自分の感覚や感動を優先してしまうと、神さまの御心を見失ってしまいます。恐れを感じること自体は信仰者として正しい反応ですが、分からないならば、まずイエス様に尋ね、その“みこころ”に耳を傾けるべきだったのです。
2、悟れない弟子たち
マルコによる福音書9章9-13節を読みます。
9:9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
9:11 そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
9:12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。
9:13 しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
イエス様と3人の弟子が山を下りてくると、イエス様は《「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」》と命じられました。9-10節を見ますと、弟子たちはその言葉を心に留めましたが、「死人の中からよみがえる」とはどういう意味なのか理解できず、互いに話し合い始めました。
11節で、さらに弟子たちは、「律法学者たちは『まずエリヤが来る』と言っていますが、それはどういうことですか」とイエス様に尋ねました。
12-13節で、イエス様は、エリヤがやって来て物事を整えることについて認めつつも、「それならば、なぜ人の子が苦しみを受けると書かれているのか」と逆に問い返し、すでに“エリヤ”が来ていたことを示されました。
本来なら、山の上で神さまが語られた《「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。》という言葉を受けて、弟子たちはまずイエス様に耳を傾けるべきでした。しかし彼らは、理解できない言葉に直面したとき、イエス様へ直接尋ねる前に、互いに論じ合ってしまった のです。
論じるためには、正しい方向性や確かな基準が必要です。ところが弟子たちは、イエス様の言葉よりも 自分たちの考えや感情を基準にして答えを出そうとしてしまいました。
そのため、議論は深まりません。むしろ迷いが増えるばかりです。
弟子たちの姿は、私たちが陥りやすい姿そのものです。
・自分の価値観を優先してしまう
・わからないのに、神さまに尋ねようとしない
・結論を自分の中だけで出そうとする
こうした姿勢が、どれほど私たちを「悟り」から遠ざけてしまうかを教えている箇所です。
3、悟りを主に求めよ
マルコによる福音書9章14-19節を読みます。
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
9:15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
9:16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
9:17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
9:18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
9:19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
イエス様と3人の弟子が山から戻ってくると、残っていた弟子たちのところには大勢の群衆が集まり、律法学者たちが弟子たちと議論をしている場面に出くわしました(14節)。
イエス様が姿を見せると、人々は驚き、駆け寄ってきて挨拶をします(15節)。
イエス様が「何を議論しているのか」と尋ねると、一人の父親が前に出て事情を話しました。彼の息子は“口をきけなくする霊”に取りつかれ、倒れ、泡を吹き、体が硬直してしまうので、弟子たちに助けを求めたが追い出すことができなかった、というのです(16-18節)。
それを聞いたイエス様は、《「ああ、なんという不信仰な時代であろう。》と嘆かれ、《その子をわたしの所に連れてきなさい」。》と命じられました(19節)。
ここに表れている弟子たちの姿は、前の場面と同じ問題を抱えています。
表面的にはイエス様に従っていますが、理解できないことは全部「自分の判断」で対処しようとするのです。その結果、霊を追い出すこともできず、律法学者たちと言い争うだけになってしまいました。
マルコによる福音書は「福音とは何か」を非常にシンプルに示す書です。その特徴として、弟子たちの弱さや身勝手さを隠さず、そのまま記録しています。なぜなら、弟子たちの姿こそ“悟らない人間”の典型であり、私たち自身の姿でもあるからです。
本来、イエス様が伝えようとしている福音を広めるために働くはずの弟子たちが、逆にそれを妨げる結果になってしまっているのです。イエス様が深く嘆かれたのも当然でしょう。
続けて、9章20-27節を読みます。
9:20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
9:21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
9:22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
9:25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
9:26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
人々がその子をイエス様のもとに連れてくると、霊はイエス様を見た瞬間に激しく反応し、子どもは地面に倒れ、泡を吹いて転げ回りました(20節)。
イエス様が《「いつごろから、こんなになったのか」》と父親に尋ねると、《「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。》と訴えました(21–22節)。
ここで父親が口にした《しかしできますれば、》という言葉には、弟子たちが霊を追い出せなかったことによる失望感が滲んでいます。
父親からすれば、弟子たちの行動は頼りにならず、むしろ議論ばかりしていて息子を助けられない。その姿に不信感を持つのは当然でしょう。
イエス様はその言葉を聞き、《「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。》と答えられます(23節)。
父親はその言葉を聞くと、すぐに叫びました。9章24節です。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
この父親の姿は、弟子たちが本来学ぶべき信仰の姿です。
“自分には信じきれない弱さがある”と正直に認め、イエス様の前に心を開いて助けを求めた。ここに、信仰の本質が示されています。
その後イエス様は、群衆が集まってくる前に霊を叱り、《「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。》と命じられました(25節)。
霊は激しく叫んで出て行き、子どもは力尽きて死んだように見えましたが、イエス様が手を取って起こすと立ち上がりました(26–27節)。
この場面で注目すべき点は、父親の言葉と態度です。
・弟子たちでは助けられなかった
・自分に信じきれない弱さがあると認めた
・イエス様に直接、自分の心を正直に告白して求めた
この「正直に助けを求める姿勢」こそ、弟子たちが学ぶべき信仰の原点でした。
弟子たちは、霊を追い出せなかった原因も理解できず、議論に疲れ、現実の問題に向き合えないままになっていました。しかし父親はただ一つ、“自分の限界を認めてイエス様にすがる”という、信仰者として最も大切な姿勢を示したのです。
続いてマルコによる福音書9章28-29節を読みます。
9:28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
イエス様が家に入られたあと、弟子たちはこっそり質問しました。《わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。》(28節)。
イエス様はこう答えられます。《「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。》(29節)。
ここで言われている《祈によらなければ、》とは、単に“祈りの言葉を唱えればよい”という意味ではありません。
「自分の力や知識ではなく、神さまに直接頼り、神さまに聞き、助けを求める姿勢が必要だ」 ということです。
弟子たちが失敗したのは、霊を追い出す“技術”を身につけていなかったからではありません。
神さまを仰がずに、自分の経験や力で何とかしようとしてしまったことが問題だったのです。
イエス様は、弟子であるとか、立場があるとか、知識があるとか、そうした外側の決まりごとではなく、“心が神さまに向いているかどうか”を重んじられます。
自分の考えや価値観を中心に置くのではなく、神さまに心を向け、神さまと直接交わる姿勢、それが真のクリスチャンの姿であり、弟子の姿だと教えられます。
つまり、「祈り」とは“神さまとつながる姿勢”を指すのです。
実は、このポイントはキリスト教の歴史の中で、いつの時代も問題となってきた点です。
・神さまの御言葉より、人の意見が優先される
・組織や伝統が重くなりすぎて、神さまのお働きが見えなくなる
・「こうすべきだ」という人の考えが先走り、イエス様の御心が後回しになる
こうした姿勢は、結果としてイエス様のお働きを妨げる存在にすらなりうる、イエス様が一番悲しむ姿です。
だからこそ私たちも、《祈によらなければ、》というイエス様の言葉を心に刻む必要があります。
教会も信者も、自分たちの考えではなく“神さまに聞き続ける姿勢”を第一にしなければ、本末転倒になってしまうのです。歴史を通して繰り返されてきた教会の弱さは、今も繰り返されています。
主なる神さまに、信仰の姿勢、とりなし、運営のことなど、すべて祈りを通してお伺いを立て、導かれなければ、主の教会とは言えないのです。
2026年6月21日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、準備をしております。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。

