ショートメッセージ【マルコの福音書7章_2】
マルコによる福音書7章24-37節
ルカによる福音書5章4-11節、ほか
(求めるものを見誤るな)
1、信仰の本質をもった異邦人の女の人
2、信仰の本質をもたないユダヤ人たち
1、信仰の本質をもった異邦人の女の人
マルコによる福音書7章24-30節を読みます。
7:24 さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。
7:25 そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。
7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
7:27 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
7:28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
7:29 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。
7:30 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
マルコ7章24節を見ると、イエス様は《だれにも知れないように》と言っておられます。つまり、このときイエス様は、少し静かな時間を過ごすために“お忍び”で移動しておられたことがわかります。この時点では、人々を教えたり、癒しの働きを進めるご計画は特にありませんでした。
しかし、そこへ悪霊につかれた娘を持つ一人の母親が駆け寄ってきて、「娘を助けてください」と必死に願ったのです。彼女はユダヤ人ではなく、ギリシヤ人でした。
そこでイエス様は7章27節で、このように言われます。
7:27 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
この言葉を理解するために少し説明が必要です。
イエス様の地上での最初の働きは、「ユダヤ人の王」としての働きでした。これは聖書の他の箇所からもわかります。
例えば、マタイによる福音書1章21節では、主の使いがヨセフにこう告げます。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
また、東の博士たちがヘロデ王のもとに来たとき、こう言っています。マタイによる福音書2章2節です。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
このように、旧約聖書に約束されていた救い主(メシア)は、まずユダヤ人に向けて来られるという順序があったのです。
その背景を踏まえると、イエス様の言葉は「まずユダヤ人に救いが告げられるべきである」という神さまの救いの歴史の順序を踏まえたものだったとわかります。
マルコの記述に戻ると、イエス様が27節で言われた「まず子どもたちに十分食べさせるべきです」という“子どもたち”とは、ユダヤ人のことを指しています。そして、このギリシヤ人の女性とその娘は、たとえとして「小犬」と表現されています。
現代の私たちは「子犬」と聞くと可愛らしいイメージを持ちますが、聖書の時代には、犬はしばしば“神の民から遠い存在”や“救いから外れている者”の象徴として語られることがありました。つまり、イエス様はこの言葉で、「救いはまずユダヤ人に、そのあと異邦人へ」という神さまの救いの順序を示されたのです。
現代の私たちが読むと、少しひどく聞こえるかもしれません。しかし、これは差別の言葉ではなく、神さまの働きにおける順序・秩序の説明でした。当時の世界観を知っていたこの女性も、その意味を理解していました。
ですから、彼女は28節でこう答えました。
7:28 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
この短い言葉の中に、彼女の信仰の素晴らしさが凝縮されています。
① 異邦人でありながら、イエス様を真の主として認めていること。
② 自分がユダヤ人ではないため、本来は恵みを受ける資格がないと理解していること。
③ それでも、主のあわれみにすがり、信頼して求めていること。
まさに、深いへりくだりと信頼の告白です。
これを聞いたイエス様は、《「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。》告げられました。
《「その言葉で、じゅうぶん》・・・この一言は、今日の私たちにとっても大切なメッセージです。
神さまへ信頼して求める心こそが、信仰の本質であり、救いの入り口であるということです。
この女性はユダヤ人ではありませんでしたが、神さまへの深い信頼によって娘が癒され、同時に自分自身も救いへと導かれました。
救いとは、外側の立場や形式ではなく、神さまに対するへりくだりと信頼の心から始まるということが、ここにははっきり示されています。
2、信仰の本質をもたないユダヤ人たち
マルコによる福音書7章31-37節を読みます。
7:31 それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。
7:32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
7:33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、
7:34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
7:35 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。
7:36 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。
7:37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
イエス様はツロからシドン、そしてデカポリス地方を通って、ガリラヤ湖の周辺へ戻られました。36節を見ると、ここでもイエス様は《この事をだれにも言ってはならぬ》と口止めをされていますので、この旅も“お忍びの移動”であったことがわかります。
このとき、人々は耳が聞こえず、言葉を話せない男性をイエス様のもとに連れてきました。
イエス様はその人を群衆から離れた場所に連れて行き、耳に触れ、舌に触れ、天を仰いで「エパタ(開けよ)」と言われました。すると、彼の耳は聞こえるようになり、舌も自由になって、はっきりと話せるようになりました。
イエス様の癒しの手順については、いろいろな説がありますが、どれも確かな根拠があるとは言えず、憶測の域を出ません。聖書が意図している中心点は、そこではありません。
注目すべきは、この癒しの後の人々の反応です。
彼らは大いに驚き、37節でこう言いました。
7:37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。
しかし、この賛辞の言葉には、どこか大事なものが欠けています。
それは、神さまへの深い信頼や畏れの心です。
彼らの反応は単なる驚きで終わっています。「すごい奇跡を見た」という表面的な受け止めに留まり、神さまへの信頼や従順へと向かっていません。
ここが、前半のスロ・フェニキアの女性の姿との大きな対照点です。
彼女は“信頼の心”でイエス様に近づき、ここに出てくる人々は“驚きと興奮”だけで終わってしまった。
この違いこそ、私たちが読み取るべきポイントなのです。
では、もしこの人々に“神さまへの信頼”や“畏敬の心”がしっかりとあったなら、どのような反応になっていたでしょうか。
その一つの例として、ルカ5章に登場するシモン・ペテロの姿を見ることができます。
ルカによる福音書5章4-11節を見てみましょう。
5:5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
5:6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
5:9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
5:11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
イエス様が「沖へ漕ぎ出し、網をおろしなさい」と言われたとき、ペテロは夜通し働いて何も取れなかったにもかかわらず、《お言葉ですから》と従いました。その結果、舟が沈みそうになるほどの大漁となりました。
この出来事を目の当たりにしたペテロは、イエス様の前にひれ伏し、《「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。》と告白しました。
ペテロは奇跡そのものに驚いただけでなく、神さまの力と聖さの前に、自分の罪深さを深く悟ったのです。そして、すべてを捨ててイエス様に従いました。
これこそ、神さまを畏れ敬い、信頼する人の姿です。
先ほど見たガリラヤの人々の単なる興奮や賛辞とは大きく異なります。ここには、救いが“外側の言葉や形だけ”で決まるものではないという重要な教えが示されています。
同じことは、現代を生きる私たちにも当てはまります。
近年、「信じて告白すれば救われる」という言葉だけが一人歩きし、信仰が表面的になってしまう危険があります。もちろん告白は大切ですが、それが形だけになってしまうと、神さまとの本当の関係から離れてしまいます。
今日の箇所は、私たちに問いかけています。
「私はなぜ神さまに従っているのか?」
「それは口先だけの信仰や、外側の形式だけになっていないだろうか?」
信仰とは、ただ“正しい言葉を言うこと”でも、“従っているように見えること”でもありません。
心の深いところで、神さまへ向き直り、へりくだって従うことなのだと、この箇所は改めて教えてくれます。
2026年5月31日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
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