ショートメッセージ【イサク③】
~イサクの子供たち~
創世記25-26章
先週は、イサクのお嫁さん探しの箇所より、結婚における神さまのご介入と導き、その導きに対して、神さまに信頼して歩むことの大切さをみた上で、結婚したらお互いを愛する必要があることを教えられました。イエスさまを信じ、神さまの愛を知る者は、その同じ愛で、意志をもってお互いを愛することができるようになります。
今日は創世記25-26章から、その後のイサクとリベカについてみていきましょう。
いつものように3つ見ていきます。
1、リベカ/不妊の女
神さまの導きによって結ばれたイサクとリベカでしたが、なぜか20年間子どもが与えられませんでした。
創世記
25:20 イサクは四十歳の時、パダンアラムのアラムびとベトエルの娘で、アラムびとラバンの妹リベカを妻にめとった。
25:26 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。
その間に父アブラハムは再婚した妻との間に6人の子供が生まれます。
リベカはそれを見て辛い思いをしていたかもしれません。そのようなリベカをイサクは慰め、そして祈っていました。
考えてみればイサクは、母サラが90歳の時に生まれた子供でした。この時代、サラとアブラハムの年齢はとても高齢でしたが、創世記18章11節を見ると《さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。》という状況で、神さまのお働きによってアブラハムとサラの間にイサクは産まれたのでした。
イサクは、超高齢の父母を見、また、両親からは、それが神さまの導きであったことを聞かされていたことでしょう。
ですからイサクは、希望をもって、神さまに祈り続け、リベカを励まし続けていたと思います。
創世記
25:21 イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った。主はその願いを聞かれ、妻リベカはみごもった。
ここでは、祈りによって子供が与えられたことが強調されています。
それは、単に子供が与えられたということではなくて、アブラハムから受け継いだ信仰、その約束と祝福を受け継いでいくという大切さを意識させるためであっと考えられます。
私たちは自分で計画をして、生まれてきたわけではありません。その命、また命の不思議を思う時、自ずと神さまを意識するのではないかと思います。
聖書は、イエス・キリストがその命の根源であり、私たちの罪を消し去る光であり、この方を信じる者が永遠の命を得ると明確に告げています。
2、イサク/神さまの祝福
創世記
26:1 アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。
26:2 その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。
26:3 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。
26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
ふたたび、飢きんがあったようです。天候不順で作物が取れず、食べ物がなくなる状況で、食料がある場所を求めてイサクが行ったのはゲラルという場所でした。この場所は、神さまが約束された場所カナンの一部でしたが、よりエジプトに近い場所でした。そこで、神さまは、エジプトに行くのではなく、この地にとどまるようにと言い、アブラハムに約束された祝福がイサクにも与えられていることを告げます。以前にイサクへの信仰と祝福の継承について、アブラハムの家族会員枠での契約自動更新とご紹介しましたが、まさにここで神さまが言われています。
創世記
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
このように、人の知恵でエジプトに頼るのではなく、この地において、今祝福を約束された神さまに頼って歩むようにとイサクを諭しているのです。
創世記
26:6 こうしてイサクはゲラルに住んだ。
26:7 その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。
これは、どこかで見た光景です。
創世記
20:1 アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、
20:2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。
父アブラハムは、この時、またこの以前の飢きんでも、エジプトにくだった時、妻サラのことを妹と言って、サラを2度も危険な目に遭わせています。
リベカに子供が与えられるようにと、信仰によって、素晴らしい「とりなしの祈り」をしたイサクでしたが、ここでは、父アブラハムと同じ失敗をしています。
しかも、神さまから父アブラハムと同じ祝福を与えると告げられたばかりでした。いかに私たちは人を恐れ、神さまに頼らず、自分の知恵に頼りやすい者であるかを教えられています。
しかし、神さまは、神さまに頼らないこのイサクの失敗を、祝福に代えられました。
創世記
26:11 それでアビメレクはすべての民に命じて言った、「この人、またはその妻にさわる者は必ず死ななければならない」。
26:12 イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、
26:13 彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、
26:14 羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。
その土地の王によって彼らは命の保障のお墨付きをいただき、また、飢きんの中で、百倍の収穫を得たのです。先ほどの約束、26章3-4節の祝福を、イサクに体験させています。
この後、祝福されたイサクを、地元のペリシテ人たちが妬んで嫌がらせをします。
それは、この水に乏しい地域では欠かせない、すぐに命に直結する井戸をふさいでしまうというものでした。
しかし、イサクは、神さまを信頼して、この嫌がらせに対して争うことをしませんでした。一見、損な道にも思えますが、神さまは、その信仰を成長させて、むやみに争わずに神さまにより頼むそんなイサクを喜び、大いに祝福されたのです。
そしてこの地の王アビメレクはイサクのもとを訪れて平和の契約を結びたいと申し出ます。それは、イサクの力ではなくて、イサクが頼る神さまの力です。
創世記
26:28 彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ましたので、いまわれわれの間、すなわちわれわれとあなたとの間に一つの誓いを立てて、あなたと契約を結ぼうと思います。
イサクの祝福は自動更新と言いましたが、神さまは、その祝福のもととなる信仰を確認し、成長する機会を与えておられます。
こうしてみると、夫婦に20年子供が与えられなかったことも、この信仰の経験も、すべて、アブラハムの信仰と祝福の継承につながっていることが見て取れます。
子どもたちに信仰を継承していく最善を神さまは導いておられます。
モーセは、イスラエルの民に神の民としてこの信仰の継承者として、神さまの導きを選び取って祝福を得るようにと教えているのでしょう。
私たち1人1人も神さまのご計画の中に置かれています。私たちの目には、損に思えることや、なぜ今なのかと思うようなことも、神さまの導きを慎重に見極めて、選び取るならば、大いなる祝福の中に必ずや招かれます。
3、エサウとヤコブ/霊的関心の相違
25章にもどりますが、
創世記
25:23 主は彼女に言われた、/「二つの国民があなたの胎内にあり、/二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、/兄は弟に仕えるであろう」。
25:24 彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。
リベカは、双子を生みます。その2人は、国民の祖、先人となり、そして弟に兄が仕えるようになると神さまから言われます。
兄は、《赤くて全身毛ごろものようであった》ことから、赤い、毛深いを意味するエサウと名づけられ、巧みな狩猟者となり、野の人となりました。
一方、弟は、兄のかかとを掴んで生まれてきたので、かかとを掴む者を意味するヤコブと名付けられ、穏やかで天幕に住む者となりました。穏やかというのは、神さまに対して、つまり霊的に純粋という意味です。
また、天幕に住むというのは、遊牧生活していた父イサクと同じ仕事をしていたということです。
父イサクは、エサウが狩りで持って帰る鹿の肉を好んで、エサウを愛し、母リベカは、ヤコブを愛します。両親の子供への偏愛という問題が記されています。
そして、ある事件が起こります。創世記25章29節以降に書かれていることですが、飢えて野から帰ってきたエサウが、ヤコブが用意したレンズ豆の煮ものと引き替えに長子の権利をヤコブに譲り渡すのです。
長子の権利とは、本来長男に与えられる、二倍の相続権、家を継いでいく家督権また、霊的リーダーとしての権威のことです。
そして、ここでは、アブラハムの信仰とその約束にある祝福を継承するという重大な意味をも持っているのです。
エサウはそれを、軽んじたのです。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
これだけではなく、26章では、
26:34 エサウは四十歳の時、ヘテびとベエリの娘ユデテとヘテびとエロンの娘バスマテとを妻にめとった。
26:35 彼女たちはイサクとリベカにとって心の痛みとなった。
わざわざ、神さまは、イサクに地元のカナンの地ではなく、親族の中から妻を得るように導かれました。しかし、今、その信仰を引き継ぐべき長男のエサウは、そんなことにお構いなく、異教の民を妻としていました。
両親の偏愛と長男エサウの霊的無関心。信仰の継承は果たしてどうなる?というところで、次回の展開は波乱含みが予想されます。
創世記を書いたモーセは、エサウの失敗事例を教訓として、あなたがたも、アブラハムの信仰の故にいただいたアブラハム家族会員の子孫特約という特権に甘んじていないか、その信仰をアブラハムに照らして正すべきところを正しなさいと言っているようです。
私たちも、イエスさまを信じたから、救われているからではなくて、霊的に神さまに向き合っているかどうか、その信仰を顧みるようにと教えられています。
2022年4月10日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳師
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人生に行き詰った方へ
教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
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