ショートメッセージ【ヨセフ②】

創世記39章
1、ユダについて
2、ヨセフについて
3、ユダとヨセフから

1、ユダについて
創世記39:1を読みます。

39:1 さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。

 「さて」と書かれていますが、これは38章の出来事を受けて、「さて」が置かれています。ですから、ヨセフのことは書かれていないのですが、38章の記事を受けて39章につながるということですので、38章の内容を少しだけ説明します。

 ヨセフにはたくさんのお兄さんがいることを前回見ましたが、38章はヨセフの話を割いてユダの事を挿入しています。

 内容としては、ユダは、兄弟たちから離れて独立したようです。名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張りました。そこで、カナン人で名をシュアという人の娘を見そめて妻にしました。子どもが3人与えられますが、悲しいことに、その子どもたちのうち長子エルは、《主の前に悪い者であったので、》と書かれていますので、意図的に神さまに逆らうようなことをして死ぬことになります。
 長子エルの妻タマルは、未亡人となったため、

38:8 そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。
38:9 しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。

 このことで次男のオナンは、死ぬことになりました。ですから、タマルは未亡人のままです。

 日が経ったある時、ユダの妻が亡くなり、その後、喪が明けたとき、ユダは友人のところへ行きました。そこで遊女と楽しもうとするわけですが、その遊女と思われた人は、子どもたちの妻となったタマルという女性でした。義理の父が義理の娘と寝たということです。

(オラース・ヴェルネ 「ユダとタマル」)

 この事はもちろん、この時代であっても非道徳的です。
 タマルは、ユダの息子たちから女性としての侮蔑を受けたり、やっかいもの扱いされたりしました。しかし、義理の父と寝てまでもユダの子孫を残すことをしました。
 
 ユダは《「彼女はわたしよりも正しい。…(38:26)》とタマルを評価しています。タマルは神さまの約束であるアブラハム、イサク、ヤコブと続く家系を信仰のみで、子どもを産んでつないだ人と言えます。
 ユダは、このことで自分の非を認め、神さまへ悔い改めました。
 他の兄弟たちに比べればユダは悔い改めるのに早い人と言えます。その意味では信仰者と言えるでしょう。

2、ヨセフについて
 では一方のヨセフはどうかと言いますと、エジプトのお金持ちの家の奴隷となりました。2節を読みますと、

39:2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。

と書かれており、主人の家と財産を管理するまでになりました。これは、ただ幸運ということではありません。

 ヨセフは、決して見ることが出来ない神さまに全幅の信頼を寄せていましたから、神さまが、彼自身の才能を用いることができる環境を用意してくださったと見るべきです。また、ヨセフ自体が働き者であったことも容易に想像できます。そのようなヨセフを見て、主人は全面的な信頼を置いたのでしょう。

 もしも、ヨセフが自身の過去に囚われ、エジプトへ売った兄たちを恨んでいるならば、このような結果にはなりません。私たちはどうしても、過去やしがらみを重視する傾向にありますが、神さまによって未来を生きることの大切さが教えられます。

 人への恨みを忘れるのは本当に難しいことですが、そこへ引っ張って行かれないためには、過去は過去として神さまに委ねて(祈り)、聖書の御言葉を頼りに今を生きるほうが賢明と言えるでしょう。負の連鎖とならないために、それを断ち切ってくれるものこそ、神さまへの信仰であることが教えられます。

 しかし、また、彼はピンチになります。なんと、その主人の奥さんがヨセフに色目を使って迫ってくるのです。ヨセフは、ご主人の妻を避けていたのですが、拒まれた女性のプライドが許せなかったようで、実際は自分から迫っていったのにもかかわらず、ヨセフにいたずらされそうになったと嘘をついて陥れました。(39:6 – 39:20)

(グイド・レーニ 「ヨセフとポティファルの妻」)

 ヨセフは冤罪で牢獄に入ることになってしまったのです。しかし、ここでもヨセフは恨みごとを言うのではなく、静かに過ごしました。牢獄の中においても、彼は、主に守られて生きることをやめませんでした。

 彼の人生は本当に苦難の連続です。しかし、それ以上に神さまにすがって生きる姿、また、それに主が応えてくださる美しい関係は、聖書の中でも指折り数えるほどのものです。場所や状況によらず、神さまを求めることのできる人は、幸いであることを記者モーセは伝えたいのです。

3、ユダとヨセフから
 ユダとヨセフは明らかに違いがあります。ユダはどちらかというと私たちに悔い改めて生きることの大切さを教えていると思います。

 ユダをはじめとしてヨセフの兄たちは、父ヤコブがヨセフを特別に可愛がっていると言う嫉妬心から恨んでエジプト行きの商人に売ることになります。今回の話は、そのこととは別の話になりますが、ユダという人の神への悔い改めは、これからエジプトにおいても行われます。

 今の私たちも同じです。失敗したり、自分本位に人を恨んだり、傷つけたりするのが人間です。その時、神さまに対して謝り、そして人に対して素直に謝り、自分の人生を改める者は幸いであることを教えられます。

 一方ヨセフは、何も悪いことはしていないのに、そのことを恨みに思うような記事はなく、むしろ、どのような環境下にあっても、神さまとともに歩いている姿が見えます。現実、私たちが同じような状況になれば、過去に後悔して、落ち込んで自分がいるのではないでしょうか。

 しかし、過去がどうであれ、神さまを信頼して、そのちょっと先を見て歩ける者は幸いであることを教えてくれます。主の御導きは、時に苦しみの中に置かれることもあります。
 
 ヨセフもそうなのですから。正しいことをすれば報われるとは限らないのは、昔も今も同じなのでしょう。そのような時だからこそ、腐らずに神さまを見上げて未来を見つめることができる力が信仰であることを教えられます。このような信仰は、決して無くなりません。

 言い換えれば他の現象的なものはすべて無くなることが聖書には書かれています。《このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。》(Ⅰコリント13章13節)とパウロという人が、後に記するように、私たちが求めるべきものは信仰であることを聖書は教えてくれます。ユダのように改めるのに早くなるように、そして信仰と希望によって歩める人は幸いであることを教えられます。

2022年6月5日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治師

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