ショートメッセージ【ヨセフ④】

創世記42-46章
1、いつも変わらず懸命に働くヨセフ
2、売られた兄弟を赦すヨセフ
3、本質的な一致とは

1、いつも変わらず懸命に働くヨセフ
 創世記41:46を読みます。

41:46 ヨセフがエジプトの王パロの前に立った時は三十歳であった。ヨセフはパロの前を出て、エジプト全国をあまねく巡った。

 ヨセフは、17歳に兄たちに売られてエジプトで奴隷として生活することになりました。そして、そこで忠実に奴隷として主人に仕えました。その後に、冤罪で牢屋に入ることになります。そこでも今でいう模範囚と言えばよいのでしょうか。腐らずにその場でするべきことを忠実にして過ごしました。

 そして彼は、エジプトの王パロに見出され、国家運営のトップの座に位置することになりました。ヨセフの人生は、人や神さまを恨んで腐ろうと思えば、いつでも腐ることができる人生でした。理不尽なことばかり、彼に降りかかってきた人生なのですから。しかし、腐らず置かれた場所で懸命に生きることができました。私たちの人生も彼ほどではないにしても理不尽なことが降ってくることがあります。生きるということは、往々にして想定外の事が起こり自分の思い通りにならないことが起こるものです。
 では、ヨセフはなぜ腐らずに置かれた場所で生きることができたのでしょうか。

 1つは、それが神さまの導きであることを信じていたということでしょう。後にヨセフはこのように言います。創世記45章7-8節です。

45:7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。
45:8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。

 私たちは、今の自分の現状や現実を思い悩むことがあります。さまざまな結果として今のそれぞれの場所にいるわけですが、それらをひっくるめて神さまの導きであったことを信じたヨセフは幸せな人とも言えるのではないでしょうか。

 間違ったことは改め、またなぜこのような理不尽なことがあるのかと思うとき。神さまを見上げることができる人は、それだけでは終わりません。その間違いや理不尽を通り超えて成長し、意義あるものとなっていくのです。

 2つ目としては、出会った人たちからの理不尽よりも神さまの導きを優先したことでしょう。これは決して簡単なことではありません。その時に受けた理不尽な中で、神さまの導きがあるなどと考えることは普通出来ないことだからです。しかし、ヨセフは、現状や今の現象を神さまが導かれたと認めています。そして、それならば、また神さまによって解決があることを信じていたのでしょう。

 私たちの人生も思い通りに行かないことが普通です。ある人は、不幸が重なり、「おかしいな、今は何も起こっていないな。」と逆に不安になる人までいます。しかし、神さまを信頼して人生を歩んでいる者は、苦しみの中にこそ、人知では計り知れない助けや導きがあることも信じることができます。詩編の作者の中にはこのようなことを告白する人もいます。詩編119篇71節です。

119:71 苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。

 本当の平安や幸せは、その実、現状にではなく、神さまが私とともにいてくれることであると聖書の多くの記者が、そして多くの信仰者たちが告白します。本当に不思議なことです。

2、売られた兄弟を赦すヨセフ
 カナンの地では飢饉が起こりました。そこで、エジプトでは多くの食べ物が保管されていることを聞いてヨセフの兄たちは買いに行きます。そのエジプトのNo.2である総理大臣は自分たちが売った弟ヨセフであるとも知らずに。

 ヨセフは兄たちとすぐに気付きました、しかし、兄たちは総理大臣がヨセフであるとは気付いていません。そこでヨセフは、兄たちにいくつかの理不尽な目に遭わせています。兄たちは盗んでもいないのに、盗んだように細工されて捕まったり、約束を守っているのに守っていないかのように細工されたりと。

 文脈を無視してここを読みますと、まるでヨセフが意地悪をしているようにも見えます。しかし、そうではありません。兄たちは自分たちが理不尽にヨセフをエジプトに売ったことの改めがはっきりしていません。それでは、結局同じような過ちを繰り返すだけではなく、今ある現状がなぜこれほど苦しいことになったかを悟ることができません。ヨセフは兄たちにそれを知らせたかったのではないでしょうか。そして、ユダという兄をはじめ、すべての兄たちはヨセフにしたことの罪の大きさを悔い改めていくのです。

 ユダについては前々回に話しましたが、決して品行方正な人間とは言えません。その彼が、心を改め自分の罪を告白し、さらに自分を犠牲にしてでも人を生かそうとする者に変えられていくのです。創世記44:18-34までがユダの告白ですが、時間の関係で33,34節だけ読みます。

44:33 どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、
44:34 この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう。父が災に会うのを見るに忍びません」。

 人は神さまとともに歩もうとする時、大きく変えられることが教えられます。

3、本質的な一致とは
創世記45:1-3を読みます。

45:1 そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。
45:2 ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。
45:3 ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。

 こうして、兄たちとヨセフは和解することになっていきます。飢饉の中にいる家族をエジプトに呼び寄せて、また家族がともに生きていくことになります。この創世記はモーセという人が、神に召された民、イスラエル人としてどのように生きていくかを伝えるために書かれたものです。それも加味して考えると、人が一致して事業を成したり、家族を養ったりして平和な環境を作るためには何が大切なのかを教えてくれます。

 まずは、神さまのことばに従うことです。初めの人間アダムから一貫していることは神さまのことばに従わないことが人間関係の分裂や苦しみの源となるということです。

 ヨセフは、特に自分の置かれた状況がどうであっても神さまを信頼する人でした。それに報いてくださって大きなことを成す役割の器へと変えられていったのです。今の環境や苦しみの中にいることを喜べる人はいません。しかし、神はそのような苦しみを通して一族の危機を乗り越えさせてくださるのです。
 次に、人を許すということです。許しは聖書の中でも何度も描かれていることですが、その難しさは言うまでもないでしょう。

 ヨセフはどのような環境や裏切りの中でも決して人を責めるようなことがありません。それすらも神さまに置かれた環境の一つととらえているようです。これは簡単なことではありません。わかることは、彼の一貫している姿勢は神さまにお任せし続けるということです。お任せすることを何もしないで待つと解釈する人がいますが、そうではありません。ヨセフはどのような場所でも同じように懸命に働いています。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがありますが、まさにその姿勢です。
 神さまに信頼し歩み続けたヨセフは、仕事においても、家族を守り一致させたことにおいても、多くの人の模範になれた点においても偉大な生き方を教えてくれています。イスラエル人だけではなく、今の私たちが求めるべきものとはこういうことだと教えられます。

2022年6月19日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治師

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