素直に読む【ヨハネの黙示録_1】

ヨハネの黙示録1章1-8節
「イエス・キリストは来られる」

〈はじめに〉

 ヨハネの黙示録は、紀元90年代にキリストの使徒ヨハネによって書かれたものと言われています。諸教会(アジヤ州の7つの教会=今のトルコを中心とした地域)にあてられた手紙です。内容は、ヨハネが、ローマ皇帝(おそらく、ドミティアヌス帝:ローマ帝国の第11代皇帝である。在位81年から96年)によって、パトモスという島に流刑(島流しの刑)にされた時に、示されたことで、新しい天と新しい地(新天新地)が出現するに先立って起こる戦いや苦しみのありさまが生き生きと描かれています。

 ドミティアヌス帝は、ローマ皇帝の中でも、もっとも激しくキリスト者を迫害した1人に数えられる専制・恐怖政治をおこなった皇帝です。自らを神と称し、皇帝礼拝を強要しました。キリスト者と疑われた者は、すぐに連行され、イエス・キリストへの信仰否定を求め、少しでもためらうとその場で処置されました(処置=殺された)。

 そのような状況ですから、当時、キリストに従う者たちはひどい苦しみの中にありました。その苦しみの中にあって、主にある戦いを続ける信仰者たちを慰め、励ますために書かれたのがこの手紙です。

 しかしこれは、私たちに無関係と言うことではありません。
 ヨハネの黙示録1章4節にある7つの教会は、直接的には、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの教会を指していますが、これは、教会の7つの側面、また、教会の歴史の連続的な段階をあらわしているとも受け取れるからです。それで、この7つの教会にあてられた手紙は、広く一般の教会、現代の私たちが所属する教会にも適用されるのです。そう、私たちの教会(わたしたちキリストを信じる者に)も語られています。

 ヨハネの黙示録1章3節
1:3この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。

 とあります。ここから考えられるのは、当時礼拝の中で、この手紙が1章から22章まで通読されていたであろうことです。つまり一通り読み上げたと言えます。
 もちろん当時は、まだ新約聖書は完成していませんから、聖書を読みながらではなく、みなこの朗読を聞くだけで、内容を理解していったのです。

 誰かが朗読者の横に立って、解説をしながら、何か月もかかって読み終えるということではなかったようなのです。

 ヨハネも(本当の著者は神さまですが、)それを、つまり礼拝で手紙が一気に読まれることを意識してか、4-5節にかけて《イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。》との祝福の言葉を記し、6節で《わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。》
 と言っています。

 もちろん私たちには、言葉や文化、歴史的な壁がありますので、黙示録を22章まで通読しておしまい。というわけにはいかないと思います。しかしながら、“木を見て森を見ず”ということのないように、黙示録全体を見ていきたいと思います。

 そして、“これは私たちキリスト者への励ましの手紙である。そのために神さまは、これから起こることについて、私たちに特別に見せてくださっているのだ。”ということを忘れずに、神さまが、ぼかしておられる細部にとらわれて謎解きになって終わらないように、祈りつつ進んでいきたいと願っています。

 ここで一つ、ヨハネの黙示録を学ぶ前に、お伝えしたいことがあります。黙示録を読まれた方は、同じ思いになられたことがあると思います。

 それは、ヨハネの黙示録のメッセージ原稿を書く前に「神さまは、なぜ、細部をぼかしておられるか。神さまは、私たちのことをよくご存じなのだから、私たちが納得して人生を歩めるよう、なぜ、出来事の明確な内容(誰が、いつ、どこで、何を、どのように)を教えて下さらないのか。」そのように思いめぐらしていました。

 ある時、次の聖書箇所が与えられました。

ヨハネによる福音書20章26-29節
20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 そこで感じたことは、細部にわたり、全てを見なくても、大枠を見失わずに確実に捕らえて、信じて進みなさい。この手紙から、おおいに慰めと励ましをいただきなさい。ということを理解しました。

 では、今日の箇所のテキストを見て参りましょう。

〈本文〉

1:1a イエス・キリストの黙示。

 とあります。黙示というのは、隠されていたものの覆いを外して真相を明らかにすることを意味します。啓示と同じ意味です。イエス・キリストの啓示と言い換えられます(個人的にはこちらが好み)。神さまが、神さましか知らない、わからないことを私たちにわかるように教え伝えてくださるということです。

 《イエス・キリストの》とありますから、イエス・キリストについての黙示とも、イエス・キリストに与えられた黙示とも理解できますが、1章1節の《イエス・キリストの黙示。》に続く《この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。》とありますから、イエス・キリストに与えられた黙示ということで良いでしょう。しかし、内容的には、イエス・キリストについて、大いに明らかにされていますので、どちらの意味で見ても間違いではなさそうです。

 《起るべきこと》※参考ダニエル書2章28-29節
2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。
2:29 王よ、あなたが床におられたとき、この後どんな事があろうかと、思いまわされたが、秘密をあらわされるかたが、将来どんな事が起るかを、あなたに知らされたのです。

 神さまのご計画の中ですでに決定されている「起こるはずのこと、これから確実に100%おこること」、これがイエス・キリストによって明らかにされ、それをヨハネが証したのです。

ヨハネの黙示録
1:2 ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。

 《あかしした。》(過去形:不定過去)。ヨハネは、明らかにされた啓示を、文字に書き留めました。「ここに“あかし(証し)”として書いておきますよ」ということではないのです。
 ヨハネは自らの命をかけてこのことを《あかしした》のです。そのことが、“あかしした”と、過去形のかたち(それが過去に終わっている)不定過去で強調されています。ヨハネは、「証しし終わった」のです。

 ここで、この手紙が朗読された当時の礼拝の様子を思い描いてみましょう。

 今礼拝をしている。神さまの前にひざをついて神さまを仰ぎ見ている。そこに、あのヨハネが、イエス様から御使いを通して与えられた、“見たもの”“聞いたもの”すべてを殉教の覚悟をもって証言しきった、その書が今読まれている。黙示録の言葉が神さまの言葉として今神さまが語ってくださっている。
 そして、この礼拝中も、いつローマの役人が来て、捕らえられ、そして尋問され、殺されるかもしれない。そんな緊迫した状況で、命がけで礼拝を守っている彼らには、これは、ヨハネが命がけで伝えようとした言葉だとすぐにわかったことでしょう。

 読む者も聞く者も、この手紙を軽々しく受けることはできなかった。まさに神さまから命の言葉が語られ、それを聞く1人1人がいのちのことばとして受け止めていたことでしょう。

 そんな彼らには、《1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。》の言葉は必要なかったでしょう。すでに幸いを噛みしめていたでしょうし、神さまのご計画が、その言葉にたがわず、これから必ず起こる。その時が確実に近づいている。この段階で、多くのものが慰めと励ましを受けていたことでしょう。

 次の1章4節で7つの教会が出てきます。
 黙示録には「7」という数字が多く登場します。聖書では“7”は完全数です(天地創造は6日で7日目は休まれた。その安息を含め“7”で完全)。完全さを示す数字です(数学の完全数とは違います)。三位一体の神をあらわす“3”やまた、“10”も完全数と考えられます(ちなみに“6”は人間を示す数字です。人間は、6日目に創造されました。“6”が3つ重なった六百六十六は、反キリストを示す数字です。)

 ちなみに1章3節の「さいわいである」という表現は黙示録の全体で7回登場します。
1章3節、14章13節、16章15節、19章9節、20章6節、22章7節、22章14節

1:4 ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、

 ヨハネの挨拶です。7つの教会は、直接的にはアジヤ州(今のトルコを中心とした地域)の7つの教会を指しつつも、すべての教会をも包括しています(先ほどお話しした通り)。

1:5 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。

 5節では、挨拶の後に、イエス・キリスト(三位一体の神に)よる《恵みと平安とが、あなたがたにあるように。》と祝福のことばを述べています。“恵み”と言うのは、慈愛に満ちた神さまの、人間に対する好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけです。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみです。“平安”は、神さまとの平和によって実現するものす。それは、父なる神さまがご計画され備えられ、ご聖霊が導き、私たちが受けるべき裁きをイエス様が身に受けて下さったことによって、神さまと私たちに平和を与えられた。ということになります。

 4節の《今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、》は、父なる神を言い表しています。モーセに啓示された《「わたしは有って有る者」。》(出エジプト3:14)を暗示させます。時間に全く制約されないご存在で、常に有って有るお方、そして、この方は、後に来られるお方、つまり、最後の審判(大きな白い御座のさばき、黙示録20章11-15節、終末における出来事の全体図の一番右側、新天新地と第二の死に分かれている箇所です)を行う方でもあられる。ということです。

 また4節の《その御座の前にある七つの霊から、》ですが、これはご聖霊をさします。聖霊が七つあるということではなく、ご聖霊には、さまざまな働きがあることを意味し(イザヤ11章2節にメシヤであるイエスさまが受けるご聖霊の働きが7つ記されています。主の上にとどまる霊、知恵の霊、悟りの霊、深慮の霊、才能の霊、知識の霊、主を恐れる霊)、また、“七”という数字が完全数であることから、この世と教会におけるご聖霊の働きと影響が完全であり、ご聖霊の全体を指していると考えられます。

 5節の《忠実な証人》《死人の中から最初に生れた者》《地上の諸王の支配者》と、イエス・キリストが三つの称号で語られています。これらは、キリストの生と死、死後、そして将来の順序をよく表わしています。

 イエス様は、父なる神さまを証しし、従順に従って、十字架で死なれました。御子イエス様のすべての思いと行ないは、ひたすら父なる神さまの御心をあかしするものでした。(《昔いまし》、イエスさま)、これが父なる神さまに対する《忠実な証人》です。
 次の《死人の中から最初に生れた者》とありますが、イエス様は、十字架で死んで葬られ、3日目によみがえられました。その後、弟子たちの前に現れ、天に戻られ今も生きて私たちを導いてくださっています。《今いまし》、イエス様です。
 最後の《地上の諸王の支配者》とは、キリストの地上再臨後の御国の実現、すなわち、千年王国におけるキリストの主権を言い表わしています。やがて、きたるべきイエス様のお姿です。
 イエス様も、父なる神さまと同じ、《今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた》です。

 本日の学びで3点押さえたいと思います。

〈まとめ〉
 1点目、イエス様は、三位一体の神さまであり、父なる神さま、ご聖霊、とともに、子なる神さまであるイエス様が、今も生きておられ、これからも働いて、導いてくださる。私たちは、そんな神さま、イエス様に守られているのだ、ということです。朗読を聞いていた信仰者たちもあらためて、慰めと励ましをいただいたことでしょう。

 2点目に押さえたいのは、イエスさまが、《死人の中から最初に生れた者》というところです。
 原文では、「死者たちの最初の息子(長子)」となっています。死は、容赦なく、人を取り込んでいきます。死は、人を閉じ込めてしまう。ところが、イエス様が世に来られて、この方だけは、閉じ込めておくはずの死から、開くはずのない扉を押し破って出て行こうとされる。
 死は、必至でそれを抑えようとするが、どうしても抑えることができない。とうとう、出て行ってしまわれた。死は、それを止めることができなかった。死は、死からの新しい命の誕生を防ぐことができなかった。しかも新しい命の生みの親とされてしまった。死が死であることの人への恐怖、威圧、毒気を完全に抜かれてしまったということ。
 しかも、その前例をつくられたイエス様は、信仰者の初穂となって、イエス様にあるものすべてが同じようになることを示されました。もはや、イエスさまを信じる者に対して死は、抵抗できない、閉じ込めておくことはできない、死は、イエスさまを信じる者に対しては、なんの意味をも持たない、イエスさまを信じる者は、死への完全な勝利者とされているのだということ。
 それが、《死人の中から最初に生れた者》ということ。いつ殺されるかもしれない中、命がけで礼拝を献げ、この朗読のこの箇所が、どれほど、聞いたクリスチャン達を励ましたことでしょうか。私たちも、死の勝利者の1人とされ、そんな恵みに生かされているのだということをあらためて覚えたいと思います。

 3点目は、やはりイエス様のことですが、イエス様が、《地上の諸王の支配者》というところです。イエス様が地上に再臨され、千年王国の王となられるという、イエス・キリストの主権が明らかにされています。いかにドミティアヌス帝が、支配者として勝ち誇ろうが、私たちが仕えているのは、この王様、イエス・キリストなのだということです。
 この世のものが、この世の中が、いかに支配的で、誇ろうとも、私たちがお仕えするイエス様こそが王様であるということ。

 1章3節の《時が近づいているからである。》ですが、死の壁を打ち破った、まことの王様であるイエス様が、来られる。今にも来ようとされている(時が近づいている)、命はこの方にあるのだから、ドミティアヌス帝のローマ帝国を恐れ、死の恐怖におびえる必要はない。このまことの王様、イエス様に委ね、ただついてゆけばよい。この恵みと平安、なんと幸いであることか。アァメン。
 そのような当時の礼拝者たちの声を、ヨハネの黙示録を通して聞かせていただける私たちは、なんと幸いで感謝なことではないでしょうか。


(現在のパトモス島)

2023年6月28日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_1】
タイトル:「イエス・キリストは来られる」
牧師:香川尚徳