ショートメッセージ【ホセア②】

ホセア書4-9章
(北イスラエルの不誠実)

1、北イスラエルの神を知ることのない歩み(ホセア4章)
2、北イスラエルの二心(ホセア6章、マタイ9章)
3、北イスラエルの滅亡と預言(ホセア9章)

1、北イスラエルの神を知ることのない歩み(ホセア4章)
 ホセア書4章1節を読みます。
 
4:1 イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。

 ここでは、《イスラエルの人々よ》と具体的に呼びかけ、《主の言葉を聞け》と命令形です。それから、北イスラエルの問題が記されています。それは、《真実がないこと》です。
 続いて、《愛情》と訳されていますが、原典を見ますとここは “誠実” や “慈しみ” と訳すと分かりやすいでしょう。(新改訳聖書では「誠実」。新共同訳では「慈しみ」と訳されています。)つまり、誠実=真心をもってウソが無く、まじめに向き合う態度が見られないということ、そして神さまについての知識はない(認めない)。と言っています。

 この4章1節の《神さまを知る》《知る》の原語は“דַּ֥עַת”(ダァット)で、意味は、ただ知識として持っているということではなく、体験として身をもって知っているという意味での“知る”ということです。
 つまり神さまを知り、神さまのお言葉に従って歩む歩みを積み重ねて経験していくということです。

 神の民として求められる「真実」「誠実」「神さまを知る」という、とても大事なことがらすべてが抜け落ちているとの指摘です。

 この問題は、北イスラエル王国の始まりと同時でした。初代の王であるヤラベアム(1世)が、勝手に金の子牛2つを造り、これを礼拝すべき神さまだとして、国内の北にあるダンと南のベテルに置いて勝手に礼拝場所とし、レビ族以外の祭司を勝手に選び、祭りの日を勝手に定めたのです。

 すべて神さまを無視して、勝手に行ったのです。そして、預言者たちに批判されても、勝手に全イスラエルの民を従わせて礼拝場所を決め、勝手に祭司を選び、勝手に祭りの日も決めて神さまに背き、その上ですべての国民をその勝手に従わせて、神さまに背かせ、カナンの土着の宗教と混ぜ合わされた礼拝となっていました。

 その結果が4章2節に書かれています。

4:2 ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。

 そして、祭司の責任が大きく問われています。4章7-9節を読みます。

4:7 彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。
4:8 彼らはわが民の罪を食いものにし、その罪を犯すことをせつに願っている。
4:9 それゆえ祭司も民と同じようになる。わたしはそのわざのために彼らを罰し、そのおこないのために彼らに報いる。

 7節の《大きくなるにしたがって、》と言うのは、預言者ホセアが遣わされたヤラベアム2世の時代に国力が増し、神さまに背く礼拝が盛んになったことを意味しています。
 そこで、民の罪が増し加わり、罪を償う犠牲が増すことで、自分たちの実入りが良くなることを望む祭司たちの罪が指摘されているのです。

 祭司の堕落によって、人々は神さまを知ることができず、神さまに背いて神さまの怒りを買うことを平気で行っていました。

 神さまは、何よりも人々が神さまを知ることを望まれています。現在に当てはめれば、その働きの役割を与えられている牧師や伝道師の責任の重さを覚えます。さらに、イエス様を信じたクリスチャンは、各自が霊のいけにえとして礼拝を献げる祭司でもあります。教会の礼拝を通して、また普段の働きの場で、神さまを知らない人々が、神さまを知る働きを委ねられているということが言えます。
 4章17節を読みます。

4:17 エフライムは偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ。

 彼らは、父なる神さまから叱られることなく、放置されます。そうならないように神さまを知り、御言葉に従い歩み、神さまを証しする信仰者でありたいと思わされます。

2、北イスラエルの二心(ホセア6章、マタイ9章)
 ホセア書6章6節を読みます。

6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。

 これはマタイによる福音書(9章)の中で、イエス様が引用されていることばです。
 イエス様が、取税人や罪人たちとともに食事をしているのを見たパリサイ人は、それをとんでもないと批判します。
 そこでイエス様は、マタイによる福音書9章12-13節で、ホセア書6章6節を引用し、答えて《イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。》(マタイ9章12-13節)と言われました。

 イエス様にとって「いつくしみ=誠実」は、人に対する愛とあわれみ(罪人が救われること)でしたが、パリサイ人は、神さまへの誠実さは、罪人を裁くことだと言いました。

 ここから教えられるのは、当時の北イスラエルの民も確かに犠牲は捧げていましたが、その対象はイスラエルの真の神さまではなく、金の子牛や多民族の偶像の神でした。心は神さまに向かず、神さまへの愛もなく、ただ形式だけの犠牲を行っていたということです。
 6章10-11節を読みます。

6:10 わたしはイスラエルの家に恐るべき事を見た。かしこでエフライムは淫行をなし、イスラエルは汚された。
6:11 ユダよ、あなたのためにも刈入れが定められている。わたしがわが民の繁栄を回復するとき、

 ここで、神さまに背を向け続ける北イスラエルへの裁きまた、ユダに対する裁きが語られています。この後、北イスラエルはアッスリヤに滅ぼされ、また、その後、南ユダもバビロンに滅ぼされ捕囚の民となります。

 神さまは、北イスラエルの人々が、心を神さまに向けないでバアルの神や、偶像に心を向けて二心で献げる犠牲(燔祭=全焼のささげもの)を喜ぶことはできませんでした。
 そして、南ユダの人々が、北イスラエルを見下げて、我々は神さまの神殿で神さまの言われた通りに犠牲をささげていると自負していながら、その心は同じく神さまに向いていない礼拝に自ら気付いて悔い改めることを願っておられました。

 私たちも神さま、イエスさまからいただいた愛と恵みをよく理解して、神さまに聞き従って、その神さまの愛と恵みに応答することの大切さ、そしてそれが神さまを知ることになり神さまが求められていることだと教えられます。

3、北イスラエルの滅亡と預言(ホセア9章)
 9章3節を読みます。

9:3 彼らは主の地に住むことなく、エフライムはエジプトに帰り、アッスリヤで汚れた物を食べる。

 北イスラエル(ここでは北イスラエルの中心的なエフライム族の名前で呼ばれていますが北イスラエルのことです)は、アッスリヤとエジプトの2つの大国を両てんびんにかけて生き残りを図ろうとします。
 しかし、彼らは神さまの約束の地を失い、エジプトで奴隷となっていた先祖と同じ境遇に落とされると言われています。しかも自分たちが忌み嫌った食べ物を捕囚の地であるアッスリヤで食べることになると言われているのです。
 9章4-7節を読みます。

9:4 彼らは主に向かって酒を注がず、また犠牲をもって主を喜ばせず、彼らのパンは喪におる者のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚される。彼らのパンはただ自分の飢えを満たすためで、主の家に、はいることはできない。
9:5 あなたがたは祝の日と、主の祭の日に、何をしようとするのか。
9:6 見よ、彼らはアッスリヤへ行く。エジプトは彼らを集め、メンピスは彼らを葬る。あざみは彼らの銀の宝物を所有し、いばらは彼らの天幕にはびこる。
9:7 刑罰の日は来た。報いの日は来た。イスラエルはこれを知る。預言者は愚かな者、霊に感じた人は狂った者だ。これはあなたがたの不義が多く、恨みが大きいためである。

 4-5節は、彼らが捕囚の地にあって、神さまを礼拝することができなくなると言っています。6節では、彼らがアッスリヤによる難をのがれてもエジプトの王の墓のある中心地メンピスで殺され葬られるといいます。そこで彼らの富もすべて失われるのです。
 7節で神さまのさばきが宣言されています。それはイスラエルの不義=神さまの前に正しくない歩みを重ねてきたからだと言われています。
 そして、9章9節です。

9:9 彼らはギベアの日のように、深くおのれを腐らせた。主はその不義を覚え、その罪を罰せられる。

 ギベアの日とは士師記19-21章に書かれている悲劇です。レビ人のそばめが、ベニヤミン族ギベアのよこしまな者たちにもてあそばれてむごい殺され方をしたことで、イスラエルの諸部族がよこしまなものたちの引き渡しを要求します。しかし、ベニヤミン族はそ要求に戦いで応じて、ベニヤミン族がほぼ壊滅してしまったのです。
 それと同じように、まさにこれから、北イスラエルの民が神さまのさばきによって壊滅状態になることが警告されています。

 ホセアは身をもって、神さまへの誠実をつくし、“主を知る”ことはどういうことかを示しました。神さまの言われる通りに従い、淫行する不貞のゴメルを妻とし、また、不貞を重ねて自ら、身を持ち崩した、彼女を愛し迎え入れます。そして神の民が神さまの前に本来あるべき姿である「真実」「誠実」「神さまを知る」ことを民に示し続けました。

 私たちも誠実をもって神さまを一番とし、二心ではなく神さまに心をまっすぐに向けて、また、神さまの言葉に従って、神さまを知る体験を重ねる歩みを神さまが望まれ、それを望む者を神さまが助け導いてくださることを教えられています。

2023年7月9日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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