素直に読む【ヨハネの黙示録_7】
ヨハネの黙示録2章18-28節
「テアテラにある教会の御使に」
〈はじめに〉
今回は、ヨハネの黙示録2章18-28節で、テアテラの教会の御使いに送られた手紙の内容を見ていきましょう。
≪テアテラ≫
当時の都市としては、1章11節に書かれている7つの教会の中でもっとも目立たない、重要性の少ない都市に見えるのがテアテラでした。
宗教的に見ても皇帝礼拝やギリシャ神礼拝の中心地ではなく、また、地方民の崇拝する神も当時の貨幣にその姿が刻まれているに過ぎない程度でした。しいて言えば、占い所がある程度で、このテアテラにある教会に宗教的な迫害はなかったようでした。
では、ここでの問題はどういうことだったのでしょうか。
テアテラの町は、多くの人々が行き交う交通の要所にあったために商業都市として栄えていました。
羊毛業者、織物業者、染物業者、皮細工業者、皮なめし業者、陶器製造業者などが集まっていました。なかでも羊毛業、織物業、染物業の中心地であったようです。
ちなみに紫布商人のルデヤ(使徒行伝16章14節)は、このテアテラ市の出身でした。そして、このテアテラ市には、業者ごとに同じ業種の中で、組合(ギルド)が組織されていました。それは、お互いの利益と援助のためでしたが、この組合には、それぞれ守護神があり、組合への加入と守護神への礼拝が結びついていました。
組合に所属しないと商売上の利益放棄とみなされ、商売を続けていくことができませんでした。そして、その組合では、組合員の会食が催され、それぞれの守護神に犠牲がささげられ、その偶像に捧げられた肉が会食で振舞われ、その神々からの恵みとして受けなければなりませんでした。
また、会食にはお酒が伴い、酔狂と性的な不品行の場ともなっていたということです。その場にいない、また、その場から途中で抜けることは許されず、組合の掟破りとして、全組合員からの迫害の対象となりました。
テアテラの教会の兄弟姉妹は、キリスト者として、守護神を礼拝し、不品行の伴う会食に参加しなければならない組合に加わることはできませんでした。
しかし、組合に加わらなければ、社会的立場や地位、仕事を失うことになりました。
貧困や飢えに加え、社会からの阻害や迫害を受けることになります。しかし、かといって組合に加入すれば、また、退会しなければ、偶像に備えたものを食べ、不品行に身をまかせて、イエス様を拒むこととなります。
テアテラの教会の兄弟姉妹は直接、暮らしにかかわるこのような困難がありました。
では、本文を見てまいりましょう。
〈本文〉
ヨハネの黙示録2章18節を読みます。
2:18 テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。
《『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、》とありますが、いつものようにイエス様のお姿の描写があります。このテアテラに向けてのイエス様のお姿は、すべてを見通すイエス様の目と反キリストや罪を踏みつける栄光に満ちた、また権威に満ちた力強いイエス様の足が強調されています。
2章19節を読みます。
2:19 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
テアテラの教会の兄弟姉妹には先ほど紹介したような直接暮らしにかかわる困難がありました。しかし彼らは、貧困や飢え、社会からの阻害や迫害に甘んじて、妥協することなく、イエス様を否む行為には至りませんでした。堅く信仰を守り通したことが、わかります。
燃える炎のような目を持ったイエス様からみても、信仰に歩み、信仰に励む信仰者として映っていたということが分かります。
2章20節を読みます。
2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
テアテラでの皇帝礼拝、異教の神々への礼拝は、ほかの都市ほど、盛んではありませんでした。ということは、ここでの偶像礼拝や不品行は、組合行事に関するものであると考えてよいでしょう。
教会の兄弟姉妹の中で、クリスチャンはなぜ、職人組合に加入したらダメなのか、生活のために、そこまで犠牲を払う必要はないのではないか。クリスチャンは、ご聖霊とイエス・キリストに守られているのだから、職人組合の儀式や宴会に参加したところで、何の被害も受けないと主張する人たちがいたのでしょう。
その兄弟姉妹たちは、預言者と自称するイゼベルという女性に指導を受けていたようです。
「仕事や商売上の利益確保をして、生活を守るためには、この世との妥協も赦されている。」と言うような主張だったと想像されます。
しかし、その主張に対しては、それに反論するパウロの声が聞こえてくるようです。
ローマ人への手紙6章14-16節と12章2節を読みます。
6:14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
イゼベルという女性についての詳細は不明です。ここで思い出していただきたいのが、列王紀に登場する、あの預言者エリヤが、450人のバアルの預言者たちと戦った時の北イスラエルの王アハズの妻が“イゼベル”でした。この“イゼベル”こそが、イスラエルの民を偶像礼拝と不品行に導いた張本人でした。
そのイゼベルと同じ名前の女性が、ここでもキリストにある者を偶像礼拝と不品行に導いています。
それでも主のあわれみは、イゼベル自身に悔い改めの機会を与えておられます(2章21節)。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2章23節を読みます。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
《こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。》
この言葉が、まさに2章18節のイエス様のお姿を語っています。
《『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。》
人々の中で、イゼベルに従って行こうとする者たちの心の中をもイエス様は見抜いておられるということでしょう。
それは、組合に所属するのは、自分の生活を守るためだ、仕事の一環なのだ、自分の仕事を自分で守ることの何が悪いのかと言った心の声だったでしょう。
しかし、いのちはどこから来ているのでしょうか。
ルカによる福音書12章20節とマタイによる福音書6章31-33節を見てみましょう。
ルカによる福音書12章20節
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
マタイによる福音書6章31-33節
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
ヨハネの黙示録2章24節を読みます。
2:24 また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
これは何を言い表そうとしているのでしょうか。
前半部分で、イゼベルという女性は、おそらく、「まことの信仰者になるには、サタンの誘惑を受け、罪にまみれ、その世界を知る必要がある。」と言うようなことを勧めていたのだと思われます。しかし、多くの悪や罪にまみれたクリスチャンが、社会に対して何かク信仰者としての模範を示せるでしょうか。
“世の光”、“地の塩”となれるでしょうか。
ここで、コリント人への第二の手紙6章15-16節を見てみましょう。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。
と言われている通りです。
※ベリアル:死海文書において、ベリアルは闇の子達の指導者と言われる。ルシファーに次いで創造された天使であり、天上にあってはミカエルよりも尊き位階にあったらしい。
ヨハネの黙示録2章24節の部分については、使徒行伝15章28-29を見てみましょう。
15:28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。
15:29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。
これは、エルサレム会議で異邦人のクリスチャンへの対応を協議した結果でした。
この黙示録の箇所でも、イエス様は、それ以外の重荷は負わせられないと言われています。だから、世とのかかわりにおいて、不品行を起こさないように、また、偶像への供え物を食べないように注意しなさいとあらためて言われているのです。
ヨハネの黙示録2章26-27節を読みます。
2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
ここで、権威が登場するのは、イエス様が、テアテラの兄弟姉妹の置かれている状況や思いをよくご存じだからでしょう。
今は、職業組合というこの世の権威に押されて、追いやられている。悔しい思い、やるせない思いが募っているかもしれない。しかし、やがて形勢は逆転するのだ。ついには、主に忠実であった教会員が世を支配し、おさめる時が来るのだ。その時まで、信仰を堅く保ちなさいとそのように励まされています。
ヨハネの黙示録2章28節を読みます。
2:28 わたしはまた、彼に明けの明星を与える。
さまざまな解釈はありますが、(第一の復活、悪魔が征服される事、正しい者、他の人を義の道に導く者に与えられる栄光:ダニエル書12章3節)、しかし、ヨハネの黙示録22章16節に、
22:16 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
とありますので、ここは、明けの明星=イエス・キリストご自身という理解で良いかと考えます。明けの明星であるイエス・キリストとともに信仰者である彼らが、世を支配し、おさめる時が来るということをもう一度繰り返しています。
〈今回の学び〉
わたしたちクリスチャンが、今の日本であからさまに偶像礼拝をしたり、偶像にささげられた肉を食べたり不品行に走るという機会、またそれを強要されることは、まず、ないでしょう。しかし、文化として忍び込んでくる罪には注意が必要です。
学校での七夕飾りとか、町内会でのお祭りの寄付とか。お葬式での焼香とか。私たちの周りの人たちは、みんなと一緒が正しい。それがいいと思っています。
また、私たちも、できれば皆一緒で、目立ちたくない、変わってると思われたくないという思いがあります。また、地域によっては村八分のような扱いを受けることもあるかもしれません。
だからといって、まあこれくらい、みんなやっているからとあいまいにする、妥協していくのは、イエス様が喜ばれないことだと本日学んだ箇所から教えられています。
イエス様が、私たちの心の中をも見通す《燃える炎のような目》で私たちを見ておられます。
私たちはどのようにしていけばよいでしょうか。学校の問題であれば、私たちの信仰を明確にした上で、先生に相談する、町内会であれば、できるだけ協力したい旨を伝えた上で、私たちにできること、できないことを明確にしていく。
葬儀の焼香であれば、可能であれば、喪主の方にクリスチャンのため、焼香ができないことと、代わりにお祈りをさせていただくことの許可をいただく。お花を一輪もってそれを代わりとするなど。
いずれにしても、自分たちの信仰の立場を明確にして、あとは、理解いただけるようにできる限り丁寧に説明していくということでしょうか。
私たちは、日本では宗教人口1%未満のクリスチャンですから、人と変わっていないことを望んでもそれは難しいですね。今は、マイノリティー(少数派)だから、今、何もしていない時点で、残念ながら変り者なのです。であれば、こう言った機会を証しの場と捉え、後のことはイエス様にお任せして、勇気をもって証しをしていくということ、信仰を明確にしていくということでしょう。
そのように進もうとするとき、1つ1つ、イエス様が、知恵と助けとまた出口を必ず備えてくださいます。
2023年12月22日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_7】
タイトル:「テアテラにある教会の御使に」
牧師:香川尚徳