ショートメッセージ【エステル⑥】

エステル記9-10章
(プリムの祭り)

1、ユダヤ人の台頭
2、正当か不当か
3、国が崩壊していく中で

 エステル・シリーズは、本日6回目で終わります。現代でもイスラエルの人たちにとって大切なお祭り一つである “プリムの祭り”。その起源が、エステル記9章に書かれてあります。では早速、見ていきましょう。

1、ユダヤ人の台頭
 9章1-2節を読みます。

9:1 十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、
9:2 ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

 ユダヤ人たちは、滅ぼされる危機にありました。そのような中、ユダヤ人たちの祈りと知恵によって乗り越える物語が、このエステル記の主旨です。逆に、ユダヤ人を排除しようとする人たちが排除される側にされるのです。ユダヤ人に敵対していた人たちは、どれほど恐れたことでしょうか。
 その詳細を少し見ていきましょう。9章5-10節を見ましょう。

9:5 そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。
9:6 ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。
9:7 またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、
9:8 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、
9:9 パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、
9:10 すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

 ユダヤ人たちは、自分たちの権利を行使しました。財産を奪うことも権利として認められていましたが、それは行いませんでした。ユダヤ人としての良心や誇りなのか、ユダヤ人が十分に裕福であったことなどが考えられますが、なぜ、《ぶんどり物には手をかけなかった。》のかは、推測の域を出ません。しかし、このことが、後の国の政策に関わる大きな展開へと向かうことになります。

2、正当か不当か
 ユダヤ人はこれで治まりませんでした。9章11-16節です。

9:11 その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、
9:12 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。
9:13 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。
9:14 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。
9:15 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。
9:16 王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

 一日では終わらず、二日にわたって敵対する者を虐殺することとなりました。
 この時代では、決して珍しいことではありません。王も勧めているように見える様子からもわかります。
 
 現代のユダヤ人たちが行っているプリムの祭りは、このような背景を伝えるために行われています。9章24-28節を見ましょう。

9:24 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、
9:25 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。
9:26 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、
9:27 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、
9:28 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

 プルの複数形がプリムです。二日間行われましたから。
 このことをどう捉えるかは、読者に任されていると考えます。ヨナ書の最後などもそうですが、読んでいる読者が、どのように教訓とするべきかを教えているように見えるからです。これらのことが正当だとも不当だとも言う人がいるでしょう。

 大切なことは、今の自分の時代や文化、現況から神さまの喜ぶ選択は何なのだろう。と思案することです。
 信仰(神さまの導きを信頼する)とは、毎日の生活の中に必要なものです。エステルはユダヤ人ですが、異邦人の王と結ばれます。律法的には、神さまは喜ぶとは言えない結婚です。

 一見すると不信仰に見えることも実情をよく観察すると、信仰的な行動であることも。
 逆にすばらしい信仰者に見える人でも、神さまの目から見れば、心と行動の伴わない評価を受ける人物も存在するのです。表面的に評価するのではなく、私は、どうすれば神さまに喜ばれるのか。と、ひと時、それぞれ思いを巡らしながら読む箇所なのでしょう。

3、国が崩壊していく中で
 10章1-3節を読みます。

10:1 アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。
10:2 彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。
10:3 ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

 10章は、含蓄のある個所です。
 王は、全国民にみつぎ(苦役)を課したと書かれています。これは多くの要素が考えられますが、エステル記に書かれている話しの流れからすれば、8万人近くもの人を殺したのですから、その8万人分の労働力の失われたということとなり、このことが国を傾けることになったようです。

 歴史的にはアハシュエロス王は暗殺説があります。また、彼は戦争にことごとく負け、この時代、王としての資質が備わっていない。という評価があります。

 また、3節を読むと、一見モルデカイは素晴らしい政治家に見えますが、そうとは限らないようです。
 政治家としての評価ではなく、ユダヤ人として良い証しとなり、神さまの御業と栄光を多くの人に知らせたという点を考えれば、合点が行くのではないでしょうか。

 いずれにしても、この国は弱って無くなり、新しい国が台頭していきます。しかし、モルデカイやエステル、ユダヤ人たちの信仰の証しは、国や時代を超えてプリムの祭りとともに引き継がれていくことになります。やがて、イスラエルに帰還する子孫たちに、信仰という見えない大きな財産を携えさせて。

2024年2月11日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川盛治

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
 以前、日曜日に教会へ通っておられたのに離れてしまった方々へ。理由は、いろいろあると思いますが、それより、「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ~」「礼拝へ出たいなぁ~」「賛美したい♪」「人と話すの苦手だけど礼拝に出席したい」と思われている方、ネットで礼拝に出席されませんか。
 ネットの気楽さと感染症予防の観点から、礼拝と聖書の学びが出来るよう準備しました。
 ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。折り返し、ご案内させていただきます。 

【教会や聖書にご興味のある方へ】
 教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
 教会や聖書の書かれていることに、ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。折り返し、ご案内させていただきます。