ショートメッセージ【イエス・キリスト_後編②】

イザヤ書53章5-12節
ペテロの第1の手紙2章22-25節
ピリピ人への手紙2章6-8節、
コリント人への第1の手紙15章1-5節

(十字架で死なれたイエス様)

1、民の心変わり
2、イザヤの預言
3、十字架の意味

 本日は、イエス・キリスト_後編2回目として、イエス様が十字架で死なれたことを見ていきます。

1、民の心変わり
 はじめに、ヨハネによる福音書12章12-13節を読みます。

12:12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
12:13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に祝福あれ、/イスラエルの王に」。

 エルサレムの民たちは、イエス様を大歓迎しました。この出来事は“しゅろ”の日曜日、勝利の入場と言われています。しかしイエス様が、十字架に架けられるのは、同じ週の金曜日のことです。
 ヨハネによる福音書19章13-15節を読みます。

19:13 ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエスを外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語ではガバタ)という場所で裁判の席についた。
19:14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
19:15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。

 大歓迎のわずか5日後、民たちは、イエス様を《「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。》と叫ぶのです。
 ピラトのメッセージで見たように、この背後で時の宗教指導者たちが、イエス様を十字架に架けるように民を導きました。

 民たちは、イスラエルをローマの支配から解放して、独立国を建ててくださる王なるイエス様を求めていました。
 しかし、ユダヤの指導者たちに無抵抗で簡単につかまり、屠り場に引かれて行く羊のように、弱々しいイエス様を見て、人々は、自分たちが期待していたメシヤ、救い主は、このイエス様ではない、イエス様のことを、にせメシヤだと思い、自分たちの裏切られた気持ちが、宗教指導者たちに煽られて、集団心理も働きました。集団に起こる特殊な心理状態で、理性が低下して、衝動的な行動を取りやすくなったのです。

 しかし、このことも(指導者たちが自分たちの保身にはしったのも民たちが裏切られた気持ちでまた集団心理で指導者の思い通りに扇動されたことも)、すべて、神さまは、ご計画(ご存知)のことでした。
 ヨハネによる福音書19章17節を読みます。

19:17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。

 ヨハネは、まさにイエス様が、ご自身で十字架を背負って(十字架の横棒)、そして、ご自身で十字架刑の場所に向かわれたように書いています。

 イエス様も自ら、弟子たちに言われていました。
 マタイによる福音書16章21節を読みます。

16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

 “~ べきこと”、新改訳2017では、“~ なければならないこと”、新共同訳では、“~ すること”と、役割を果たさなければならない。という言い方をしています。

 また、ヨハネによる福音書10章17-18節では、

10:17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

 と書かれています。
 そして、旧約聖書に預言としてこのことが書かれています。次にそれを見ましょう。

2、イザヤの預言
 イザヤ書53章5-12節を読みます。

53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

 イザヤ書53章5節を新改訳2017で見ますと、もう少し分かりやすい表現ですので、参考に読みます。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 とあり、まさにイエス様の十字架の場面に合致しています。

 彼=イエス様は、私たち人の咎(とが=罪に至る行為)のために傷つけられて、私たち“人”の不義(神さまの前に正しくないこと)のために砕かれたとして、身代わりの死について書かれています。
 私たち“人”は、神さまを無視して各々自分勝手に、羊のように彷徨っていました。

 これが罪ある人の歩みです。けれども、そんな私たちの不義を神さまは、彼=イエス様の上に置かれた(イザヤ書53章6節)。そして、イエス様は、私たちの罪を神さまの前に“とりなし”をされたのです(53章12節)。(とりなし=間に入って、とりもつこと。うまくとりはからうこと。仲裁。)
 本当にイエス様は、私たちの罪が赦されるための御業をイザヤの預言の通りに、十字架で成してくださったということです。

 イザヤ書53章7節には、神さまの忠実な“しもべ”として自らの使命を果たすイエス様の姿が記されています。

 53章8節では、この十字架が人の罪のためであったとは、当時の人たちには考えられないことだとも言われています。この十字架が人々の救いのためであったことを伝えるために十二弟子が立てられて、彼らがその使命を果たしたのでした。

 53章9節では、イエス様は十字架に架けられるような悪いことは何もされておられず、無実の罪で、しかし、神さまの御心に従って(6節、10節)、自ら人々の多くの罪を負って十字架に向かわれて死なれたことが書かれているのです。
 マルコによる福音書15章25節を読みます。

15:25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。

 次に、マルコによる福音書15章34節を読みます。

15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 続けて、マルコによる福音書15章37節を読みます。

15:37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。

 このように、イエス様は預言どおりに、神さまの御心のとおり、神さまのご計画に従って十字架に架かり、そして死なれました。

3、十字架の意味
 ペテロの第1の手紙2章22-25を読みます。

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

 次に、ピリピ人への手紙2章6-8節を読みます。

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

 この箇所は、お言葉によってご理解をいただければと思います。
 イザヤ書53章11-12節では、「すべての人」と言わず《多くの人》と書かれています。
 コリント人への第1の手紙15章1-5節を読みます。

15:1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。
15:2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。

 つまり、イエス様が成された、人の罪からの救いの御業は、自動的に全人類を救うモノではないのです。
 十字架の事実を知り、おのおの自分勝手の道に向かって行った神さまの前の罪を認め、悔い改めて(自分の道から神さまの方に方向転換し、神さまに謝罪をして)、十字架の意味を知り、この事実をかたく信じて受け入れることによって、イエス様の成された救いの御業が自分に与えられるのです。
 いや、“信じるだけ”といった方が良いでしょうか。“信じる者は救われる”のです。

2024年11月3日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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