ショートメッセージ【イエス・キリスト_後編①】

マタイによる福音書16章21節
イザヤ書53章 他

(苦しまれたイエス様)

1、苦しまれたイエス様
2、イザヤの預言
3、苦しみの意味 

 本日からイエス様の後編としてイエス様が苦しまれたこと、また、十字架に架かり死なれたこと、そして三日目に復活されたことを見ていきます。
 イエス様の前編を担当してくださった盛治さんは、イエス様の公生涯までの出来事、山上の説教、譬え話、奇跡について、福音書を書いた著者それぞれの視点から、文脈を読み取ってお話をされていました。

 イエス様の後編は、歴史的事実を中心にお伝えしていこうと思います。
 イエス様の十字架と復活はあまりにも大きな出来事であり、それは歴史的事実であり、また旧約聖書の預言の成就(詩篇22篇、イザヤ53章など)が、明らかであるからです。

 そのような意味で、この大きな出来事を通して、マタイの視点でイエス様が預言のメシヤである(聖書のお言葉の成就)と言うことも、マルコのこれこそがイエス様が来られた目的、イエス様の役割だと伝えることも、ルカが正に預言の成就、これこそ証拠。と挙げることも、さらに、ヨハネが、イエス様は神さまから遣わされた神であるお方だと明言することもできるからです。

 もちろん、盛治さんのメッセージの通り、それぞれの著者の視点を通して著者が書いた目的から当時の出来事を理解し、福音書を見比べることによって歴史的事実の真実性を確かめることは重要ですし大切です。
 後編は、歴史的事実に的を絞ってメッセージを展開させていただきたいと思います。

1、苦しまれたイエス様
 よくイエス様は「十字架で苦しまれて死なれ」と表現されます。もちろん、これは確かなことですが、苦しみと十字架の死が一つにされて、それが私たちの罪のあがない(つぐない、ゆるし)のためであったとして理解されていることが多いように私は思います。
 十字架については、この次に見ますが、ここで、ペテロ第一の手紙2章24節を読みます。

2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

 イエス様の十字架は、明らかに私たちの罪の赦しのためでした。

 では、苦しみはどうでしょう。確かに十字架上でイエス様は苦しんでから死なれました。
その意味で、苦しんでくださったイエス様を思うことは間違いではありません。
 マタイによる福音書16章21節を読みます。

16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

 マルコによる福音書では8章31節では次のように記されています。

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

 また、ルカによる福音書9章22節も同じように記されています。

9:22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。

 ここで、ルカによる福音書9章22節の接続詞を見てみますと、《また》《殺され》の前に、《そして》《三日目によみがえる》に使われています。
 つまり、「苦しみ」と「十字架での死」と「復活」にはそれぞれに意味合いがある。と、とらえるのが自然でしょう。

 悟らない弟子たちを悟らせるために、イエス様は同じことをマタイ、マルコ、ルカのなかで、この後を数えただけでも11か所登場します。
 そして、そのほかに《苦しみ》にのみ言及している箇所もあります。
 マルコによる福音書9章12節を読みます。

9:12 イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。

 ルカによる福音書22章15節を読みます。

22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。

 ルカによる福音書24章26節を読みます。

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

 イエス様の言われた《苦しみ》とは、どのようなモノなのか。本日は、その「イエス様の苦しみ」について着目していきたいと思います。

2、イザヤの預言
 イザヤは、イエス・キリストが苦しまれる必要があることを預言しています。
 イザヤ書55章3-5節を読みます。

53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 では実際に、イエス様が十字架にかかる前に受けられた《苦しみ》を見ましょう。
 ヨハネによる福音書19章1節です。

19:1 そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。

 ピラトは、イエス様を無罪だとして、ユダヤ人たちに返そうとしました。
 しかし、ユダヤ人たちの思いが非常に頑なで、「イエスを十字架につけろ。」「もし赦そうとするならば、あのバラバの方にしろ。」と、わめき叫んでいるのを聞いて、ピラトは、今のままではこの場の収まりがつかないと判断します。
 そこでピラトは、イエス様に鞭打ちの刑を言い渡し、そのことによって、ユダヤ人たちを納得させよう。そして、この場を収めて、その上で、イエス様を釈放しようと考えます。

 この時代、ローマ帝国が使っていた「むち」は、短い木の棒の先にベルトのような革紐が数本つけられたもので、その革紐の先に、動物の骨とか金属片が付けられています。
 つまり、このむちで打たれると、それが肉に食い込み、激痛を与えるばかりか、肉をズタズタに引き裂き、骨を砕くほどの威力のある鞭で、それだけで外傷性ショックで死に至ることもあるほどでした。
 ムチ打つ回数は39回が普通であったとされています。しかし、担当する兵士の気分次第で数が増えるのはよくあることだったようです。
 ヨハネによる福音書19章2-3節を読みます。

19:2 兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、
19:3 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。

 このような状況の中で、ローマの兵士たちはイエス様をあざけり、馬鹿にし、精神的苦痛と、肉体的苦痛とを与えます。イエス様に何の恨みも、憎しみもないはずの兵士たちが、イエス様に対して、なぜ、ここまでしたのでしょうか。また、できたのでしょうか。

 これは、日ごろのうっぷんを晴らそうとしたり、弱い人間をいじめることで気分を発散させたり、人をあざけり、馬鹿にすることによって楽しもうとする残忍な人間の性格が、集団心理で引き出されたということです。聖書はこのような人間の醜い様子をはっきりと描いています。

 もちろん神さまは、イエス様をこのような《苦しみ》に合わせずに守ることができました。しかし、このような人の残忍さをイエス様に向けられることを許されたのは、神さまご自身でした。
 それは、父なる神さまの御子キリスト・イエスが、罪人の身代わりに死ぬという十字架刑だけではなくて、罪人が受けるべき《苦しみ》をも代わって受けるように、イエス様に求めておられたからです。

3、苦しみの意味
 この《苦しみ》は、本来罪を犯した人が受けるべきものでした。罪を犯した人間は、神さまから懲らしめを受け、激しい苦痛を罰として受けなければなりませんでした。
 イエス様は、身代わりに死んでくださることで罪を処理してくださり、私たちを神さまの前に罪赦された者としてくださいました。しかし、それだけでは、罪が残した結果の傷痕(あと)までは、修復できないのです。ですから、罪の懲らしめもイエス様が代わりに受けてくださったのです。
 イザヤ書53章5節を読みます。

53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 このイザヤ書53章5節を読みますと、イエス様は、人々の代わりに懲らしめを受けて、神さまと私たちの間に平安を与え。と言われているのです。

 兵士たちによって、彼らの愚かな人間性、残忍な性質を用いて、神さまがイエス様に精神的、肉体的苦しみを与えられたのは、このためでした。

 主の晩餐で裂かれるパンは、イエス様が受けた《苦しみ》によって、神さまが私たちに与えてくださる平安や、罪によって傷ついた人間性の回復を象徴しています。

 私たちは、罪の傷口がまだ完全に癒されていないように見えても、すでに治ることが保証され、全く傷のない者のように生きることができるのです。また、それによって、私たちは神さまとの平和な関係を確信し平安に過ごすことができます。

 罪による結果が残されていたとしても、自分でその罪の傷を見て、罪が赦されていないような不安になり、神さまとの平和な関係がないように思えたとしても、神さまの側では、私たちに罪を認めず、私たちに罪の《苦しみ》を与えることもなさいません。
 なんという福音、良い知らせでしょうか。

 それは、イエス様が十字架上で死なれることだけではなく、私たちに代わって罰を受け、激しい《苦しみ》を受け続けてくださったからです。

2024年10月27日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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