ショートメッセージ【イエス・キリスト_後編③】
ヨハネによる福音書19~21章
詩篇16章10節
コリント人への第1の手紙15章 他
(復活されたイエス様)
1、復活の事実を知らされた人々
2、復活のイエス様に会った人々
3、復活の意味
本日は、イエス・キリスト_後編3回目として、イエス様の復活について見ていきます。
1、復活の事実を知らされた人々
はじめに、ヨハネによる福音書19章32-34節を読みます。
19:32 そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。
19:33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。
19:34 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。
ヨハネは、ここで、イエス様が完全に死なれたことを記しています。
このあと3日目、十字架につけられ、死なれた金曜日を含め数えて3日目、つまり日曜日の朝にイエス様はよみがえられるのです。
聖書が私たちに伝えているのは、イエス様が仮死状態で蘇生されたというのではなく、完全に死なれた後、よみがえられた。復活された。ということです。
イエス様の弟子たちが当局を恐れ隠れていた中で、十字架で死なれたイエス様の死体は、ひそかにイエス様の弟子となっていたアリマタヤのヨセフ(ヨハネによる福音書19章38節)という人と、以前イエス様に会いに来たユダヤ人指導者の1人、ニコデモによって取りおろされて、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻かれて、お墓に納められました。
この時のお墓は、岩壁に横穴を掘って丸い石で入り口に蓋をするものでした。
ヨハネによる福音書20章1-2節を読みます。
20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
《一週の初めの日》とは日曜日です。
日曜日の朝、夜が明けるのを待ちかねて、マグダラのマリヤが、イエス様の葬られたお墓にやってきます。マグダラのマリヤは、イエス様や弟子たちと行動を共にしていた婦人の1人です。
他の福音書では、数人の婦人が、お墓に行ったことになっています。
それは、著者の描写の視点が異なっているだけで、何か意図しているわけではありません。
4人の著者が日曜日の朝、マグダラのマリヤや婦人たちが、イエス様のお墓へ行った日の出来事に焦点を当てていることが分かります。
その婦人たち(マグダラのマリヤを含めて)は、御使いから「イエス様がよみがえられた。」と聞いて喜んで帰り、弟子たちに伝えます(マルコによれば御使いを恐れてすぐには伝えなかったようですが黙っておられず、程無く伝えたのでしょう)。しかし、弟子たちは、すぐに信じることができなかったようです。
マグダラのマリヤも、ここでは、誰かがイエス様の死体を取り去ったと思い込んでいます。
マグダラのマリヤから、ことの次第を聞いたペテロとヨハネは事実を確かめに、お墓に向かいます。そして、マグダラのマリヤもそのあとを追いかけてきました。
ヨハネによる福音書20章5節を読みます。
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
イエス様の死体が納められていたお墓が空になっていて、体に巻かれていた亜麻布がそこに置かれてある事実が明かされています。このことは、お体が盗まれたのではなく、別の事実、つまり復活があったことを示していました。
しかし、イエス様から3日目によみがえると聞いていたにも関わらず、ペテロもヨハネも、また、マグダラのマリヤも空のお墓や、置かれた亜麻布を見てイエス様がよみがえられたと理解することは出来ませんでした。
2、復活のイエス様に会った人々
ヨハネによる福音書20章19-20節を読みます。
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
マグダラのマリヤは、目の前によみがえられたイエス様を見て、足元にしがみつきました。
その間違えようのない出来事を弟子たちに伝えました。マルコによる福音書(16章)によれば、マリヤは、そのほかのイエス様と一緒に居た人たちのところでこのことを話したのですが、誰も信じなかったのです。
ルカによる福音書では、数人の女たちが天使の言葉を聞いて、イエス様がよみがえられたことを弟子たちに伝えますが、《それが愚かな話のように思われて、》(ルカ24章10節)彼らは信じることができませんでした(ルカによる福音書24章10-11節)。
しかし、そんな弟子たちの所に、ユダヤ人をおそれて、戸を開けることもなく、イエス様が入ってこられました。
「《「安かれ」》=あなたがたに主の平安があるように」と、死んだはずのイエス様の声を聞いて、弟子たちはようやくイエス様の復活を確信しました。彼らは驚き、とても喜んだことでしょう。
また、イエス様から、よみがえられると何度も聞かされていた上に、マリヤやエマオからも来た弟子たちからも復活の話を聞いていたのに、イエス様のお言葉を信じないで、部屋に閉じこもって隠れていた自分たちが恥ずかしい。という思いもあったのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書20章21節を読みます。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
これは、イエス様から弟子たちへ「わたし(=イエス)は、弟子のあなたがたを遣わします。私が完成させた救いのわざ、その福音を伝えなさい」というご命令です。
ヨハネによる福音書20章24-25節を読みます。
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
直接イエス様を見たことによって、弟子たちは、ようやくイエス様がよみがえられた現実を受け止めることができました。復活のイエス様にお会いした彼らは、誰一人疑いを持つことなく、復活の証人としての信仰に立たせていただいたのでした。
ただそこに、なぜかトマスだけがいなかったのです。
トマスは、他の弟子たちから聞かされたイエス様のよみがえりの話を頑なに否定したのです。
聖書の他の箇所も含めて見ると、トマスは、どこまでも従おうとする信仰はあったのですが、世の常識、経験、頭の中で理解できる範囲を超えた事実を神さまの御心として受け入れることができないでいたようです。
しかし、トマスのことを良く知るイエス様が、その8日後にワンクッション置いて、トマスの前にも現れてくださいました。
イエス様は、婦人たちや弟子たちに、見ずにイエス様のよみがえりを信じられるように、その状況に応じて事実を示し、また、復活のイエス様に会った話を聞かせられます。そして最後に、現れて確信をお与えになられました。それは、十字架による死からの復活が事実であることを示し、また弟子たちを励まして、十字架のみわざによって備えられた人々への良い知らせ(福音)を弟子たちが伝えることができるようにするためでした。
ヨハネによる福音書20章29節を読みます。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
私たちも聖書が伝える真実を見ないでも信じられる者は何よりも幸いなのです。
でもトマスは、自分の頭の中で理解できないことがあったとしてもそれらを完全に否定し、捨て去ることはしませんでした。
そんなトマスをイエス様はよくご存知であったのでしょう。
他の弟子たちとは別に、弟子たちから復活の事実を聞かされたのち、日を置いて8日後に、イエス様がトマスに現れてくださいました。イエス様の1人1人の弟子たちへの愛、そして配慮と、どこまでも追い求められる姿がここでもみられます。
3、復活の意味
詩篇16篇10節を読みます。
16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
イエス様の復活も聖書の預言の成就という、とても大きな出来事であり歴史の事実です。
コリント人への第1の手紙15章3-6節を読みます。
15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
イエス様は、多くの人の前に復活のお姿を示されました。
ちなみに、いま読みました、コリント人への第1の手紙15章5節の《ケパ》は、ペテロのことです。
その復活の意味について、コリント人への第1の手紙15章20-22節を読みます。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
《初穂》とは、収穫を刈り入れるときの最初の束です。
初穂があるということは、その後に続く大量の収穫があるということです。
初穂が、良ければ収穫も良いのです。初穂は、のちに同じことが大量に起こる前例です。
私たちイエス様を信じる者は、このキリストの良い初穂(=前例)によって、この前例にならい、死んでも生きる者とされるのです。
永遠のいのちで生かされ、たとえ肉体が滅んでも霊において永遠に生き、天国にあって霊に相応しい体が与えられて、イエス様とともに永遠に生きることができます。
イエス様の復活は、私たちイエス様を信じる者の消えることのない永遠の希望であり、また死を恐れる恐怖から解き放たれてこの世の勝利者として歩める絶対的な根拠なのです。
ヨハネによる福音書21章9-14節を読みます。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
弟子たちがガリラヤ湖の岸に着いてみると、すでに炭火が用意されていて、魚が焼かれていてまたパンも用意されていました。
イエス様は弟子たちに対して、これまで2度現れて、復活が確実に信じられるようにされていました。もうそれで十分かとも思わされますがさらに必要な励ましを与えようと考えてこのようにされたのでしょう。
私たちも信仰の歩みの中で疲れたり、戦いを覚えたり、不安になったりするときが訪れます。その時に、イエス様が生活のあらゆる中で共にいてくださり、働きかけて必要を満たしてくださるお方であることを、このみ言葉は私たちに教え確信させてくださいます。
イエス様は、たとえ私たちからは見えなくても永遠に私たちの人生の中にかかわってくださり平安と喜びと希望を与え続けるために、あらゆる形で働いてくださるのです。
私たちが静かにイエス様を見上げたり、祈ったりしている時だけではなくて、生活のために労苦して、思い通りにいかない時にも、その存在をあらわして励ましてくださるのです。
そして、そのようなイエス様の助けと導きの中で、私たちが労苦して得たもの(ペテロがとった魚のように)をも神さまのご計画のために用いてくださるのです。
最後に、コリント人への第1の手紙15章17節を読みます。
15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
しかし、主キリスト・イエスのよみがえりは間違いのない事実です。それだけではなく、よみがえりは、信じる私たち一人一人の人生に深くかかわってくださり、永遠に私たちの、私の主となってくださる保証なのです。
私たちは確実にイエス様のよみがえりの信仰の中に生かされているのです。
2024年11月10日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
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