素直に読む【ヨハネの黙示録_18】

ヨハネの黙示録11章1-19節
「天での勝利の礼拝」

〈はじめに〉
 ヨハネの黙示録11章は、大きく3つの内容が示されています。
 はじめは聖所、祭壇、礼拝者の数を測るようにとの命令。次に、ふたりの証人が立てられます。彼らは、千二百六十日の間、預言が許されます。その後殉教し、生き返って天にのぼるという記事です。最後は、第七の御使いがラッパを吹き鳴らし、地上での災いの始まりが告げ知らされ、天上では讃美の声が響きます。 

〈本文〉
 では、順を追ってみましょう。ヨハネの黙示録11章1-2節を読みます。

11:1 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。
11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

 ヨハネは、《測りざお》《聖所と祭壇》を測り、礼拝している人の数を数えることを命じられます。しかし、実際にヨハネが測った記事はありませんから、その神さまの意図を受けとめるようにということでしょう。
 エゼキエル書の40章5節から42章20節までに聖所を測る記事が出ています。聖所を測ることで、この世から聖所を聖別しているのです。

 本日の箇所で示されているのも聖別です。神さまの聖所と祭壇、つまり聖所と至聖所は、神さまの聖なる場所として守られて安全であるが、その外側の異邦人に与えられた庭は、この世のものとして捨てられるということです。
 神さまの聖所で礼拝している人々は、終わりの時代に患難を通して、キリストを信じた地上の信仰者です。そして“神の聖所”とは、ユダヤ人も異邦人も含めたキリストを信じた人々の集まりとの理解でよいと思います。

 もちろん、患難期が始まる前に、それまであった教会(信じた人々)は、イエス様とともに、この時、天にあります。ここはあくまで、その後にイエス様を信じた人々です。そして、ここでの異邦人とは、キリストを信じることをしない、この世の勢力です。
 誤解のないように補足しますと、エルサレムの神殿の異邦人の庭は、神さまを信じる異邦人の信仰者が神さまに礼拝と祈りを捧げる大切な場でした。イエス様は、その大切な聖なる場所で商売が行われていたので“宮きよめ”をなされたのです。この時には、異邦人に与えられた庭は強盗の巣どころか、サタンの巣となってしまっているということでしょう。
 彼らは四十二か月の間、神さまの聖所、つまり、教会以外を支配すると言っています。言い換えれば、患難期を通してイエス様を信じた者たち、その集まりは聖別され守られるということです。
 ヨハネの黙示録11章3-13節を読みます。ここで二人の証人が登場します。

11:3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
11:4 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
11:5 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
11:6 預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
11:7 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。
11:9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。
11:10 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
11:11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
11:12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
11:13 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

 11章4節には、この二人の証人のシンボルとして、二本のオリブの木と二つの燭台が登場しています。
 ゼカリヤ書4章にも、オリブの木と燭台(ゼカリヤ書4章3節)が記されています。そこでは、二人の油注がれた者で、全地の主のかたわらに立つ者と説明されています。ゼカリヤ書では、大祭司ヨシュア(ゼカリヤ書3章1節、3章8節、6章11節)と指導者ゼルバベル(ゼカリヤ書4章6-10節)の名前があげられていますので、このヨハネの黙示録11章3節に記されている証人もヨシュアとゼルバベルだとする説があります。また、モーセとエリヤ、死なずに天に引き上げられたエノクとエリヤ、律法と預言者、ペテロとパウロだと言う説もあります。
 しかし、ここは“誰であるか”より、“何のために立てられたのか”が重要です。キリストと言うのは油注がれた者という意味でした。この二人の証人は、王であり、祭司であり、預言者であるイエス様と同じように油注がれ、神さまの使命に立たされた証人です。そして、預言者なのです。
 彼らは、今この終末の行方は、イエス様がすべて握られている、もう終わりの日が近い、今、悔い改めなければ滅びる、イエス・キリストを信じる者だけが天の御国に入れられるということを証しし、伝える証人に違いありません。
 そういう意味で、11章5節の《彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。》という表現は、象徴的に書かれていると理解できます。彼らの証しや預言、彼らのさばきの言葉に対し、誰も言い負かすことができない状況があるのでしょう。そのような意味で10節では、《このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。》と書かれています。

 それとは違って、11章6節にある、《彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。》というのは、実際にそのような権威が与えられているという理解で良いと思います。
 そんな彼らも殉教します。しかし、三日半の後によみがえり、天にあげられます。
加えて大地震が起こり都の十分の一が崩れ、七千人が亡くなるのです。この殉教以降は、何を示しているでしょうか。
 このあとの箇所では、イエス様が実際にすでに証されていることを、もう一度、二人の証人をつかって再現されるのです。今でも復活が信じられない、この目で見たら信じますよ。という人は少なくありません。

 《信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。》とヘブル人への手紙11章1節にあります。また、イエス様は、弟子に《見ないで信ずる者は、さいわいである》(神さま・イエス様の成された御業、聖書に書かれていること)と教えておられます。それでも、見て信じる者が起こされることを願って、神さまは、そこまで待っておられます。さらに地震によって、神さまの怒りをも分かりやすく示されているのです。
 ここまでして、疑り深い、頑なな、目で見なければ信じない者たちをも何とかして救いに導きたいとの神さまの本当に深い、深い愛と憐れみがここに表されています。
 ヨハネの黙示録11章14-19節を読みます。いよいよ第7 の御使いがラッパを吹き鳴らします。

11:14 第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。
11:15 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
11:16 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、
11:17 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。
11:18 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる/預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
11:19 そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。

 15節の《第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。》これで、終わるのでは、と思ってしまいますが、実は、まだ続きがあります。さらに、細分化された最後の七つの鉢が傾けられる合図に過ぎませんでした。これらについては15章5節以降に記されていて、それまでは、挿入された話が続きます。ここでは、その要点のみが記されています。

 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした時、天上において大きな声々が湧き上がりました。この世の国は、世々限りなく神さまとキリストの支配下に置かれたと言います。おそらく天上にいる御使いたちの声なのでしょう。その声に反応して、二十四人の長老たちが神さまにひれ伏し、神さまを賛美します。神さまはご自身の御心にふさわしくない者を完全に滅ぼし尽くされるという、神さまによる聖なる裁きの時がきたことを伝えているのです。

 第七のラッパが鳴ることにより、天上にいる御使いたちも、二十四人の長老たちも、神さまがこの世の勝利者としてすべてをご支配されるその様をすでに確信して主をほめたたえていることが分かります。
私たちの信仰の歩みは、すでにヨハネの黙示録4~5章で見てきたとおり、この天上の礼拝につながっており、この天上の御使いや二十四人の長老につながっているのです。
 ここで出エジプト記25章21-22節を読みます。

25:21 あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。
25:22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。

 《贖罪所》というのは、契約の箱に乗せる金の蓋のことです。
 今、天にある神さまの聖所が大きく開かれています。覆われている物は何もありません。
 長い間、人々の目から隠されていた契約の箱が、そこに見えているのです。この契約の箱は、神さまと神の民とされた私たちの真実な愛の交わりの象徴です。それは、イエス様による贖罪の御業によって私たちに与えられた一方的な恵みです。また、出エジプト記25章21節のとおり、私たちが、この契約の箱を完全に目にするときに、神さまが、私たちにすべてを語り、その契約を現実のものとしてくださいます。
 しかし一方で、神さまに従わない者たちにとっては、この契約の箱は、神さまの御怒りの象徴であり、そのことが、ヨハネの黙示録11章19節の最後で、《いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。》と記されているのです。

〈まとめ〉
 今回は、ヨハネの黙示録11章で3つの内容を見てきました。
 1つ目は、聖所、祭壇、礼拝者の数を測るようにとの命令です。ここで、神の聖所で礼拝している人々は、終わりの時代において、患難を通してキリストを信じた地上にいる信仰者です。彼らは四十二か月の間、神さまによって、信じない者たちから守られます。今の世は、ここまでひどい状況ではないので、私たちに対する神さまの守りは、これほど明確ではないかもしれません。
 しかし、この最後の時にきても、神さまが、これほどまでも守ってくださるということならば、今、信じている私たちの守りは尚更ということでしょう。
 神さまが、先頭に立ち、降りかかる災いを払いのけ、しんがりとなって、私たちの信仰の歩みを引っ張ろうとする悪しき働きを断ち切っていてくださるのです。何と感謝ではないでしょうか。

 2つ目は、ふたりの証人が千二百六十日の間、預言が許され、その後殉教し、生き返って天に昇るという記事です。千二百六十日と四十二か月をわざわざ日数で記したのは、日々、証しが成されていたことの強調でしょう。
 証人の復活は、イエス様の復活の再現ともいえる出来事です。これほどまでに神さまが、信じない頑なな人に寄り添って、目で見て信じることができるようにしてくださっているのです。
 本当に、「どうして、そこまで?」と思わされる、驚くばかりのイエス様のへりくだりです。そのお心を私たちは心に刻みたいと思います。
 私たちは、イエス様の十字架と復活を直接見てはいません。
 当時のエルサレムにおいては、見ても信じない者が多く居たのです。その中で、見ないで信じることがゆるされている幸いに私たちは、常に感謝する者でありたいと教えられます。

 最後の3つ目は、第七の御使いがラッパを吹き鳴らし、地上での災いの始まりが知らされ、天上では讃美の声が響きます。天上にいる御使いたちも、二十四人の長老たちも、神さまが世の勝利者としてすべてをご支配されるその様子をすでに確信して、神さまを心から賛美しているのです。

 私たちの信仰の歩みは、この天上の礼拝につなげられていて、天上の勝利宣言に結びついているのです。クリスチャンは、天上におけるこの勝利を確信し、味わう者です。この世においても喜びと平安を味わい歩むことができるように、この天での勝利の礼拝を味わうようにと言われています。

2024年11月15日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_18】
タイトル:「天での勝利の礼拝」
牧師:香川尚徳