ショートメッセージ【パウロ登場前の出来事①】

使徒行伝1章1-14節
詩篇27篇
(復活後のイエス様と弟子たち)

1、イエス様40日間滞在の意味
2、天に戻られたイエス様
3、心を合わせて、ひたすら祈をしていた弟子たち

 本日からパウロを学ぶ予定でしたが、パウロを学ぶ前に、どうしてもパウロが登場する前の出来事を知らなければ、パウロと繋がらない事がありますので、今回から5回に分けてパウロ登場前の出来事と関連を取り上げて学びたいと思います。

 パウロの前の名前はサウロでした。そのサウロの名が最初に登場するのが、使徒行伝7章58節です。
 それまでの間の出来事を簡単に概観していきたいと思います。

 “ルカによる福音書”の著者ルカは、“使徒行伝”も執筆しています。
 そのルカによる福音書の最後には、イエス様の昇天が、ルカによる福音書24章51節に記されています。イエス様がよみがえられて天に戻られるまでの40日の間が「使徒行伝」の中に記されています。
 そこから分かるのは、イエス様がよみがえられてから昇天されるまで、なぜ40日間を必要とされたのか。また、父なる神さまの約束である「聖霊のバプテスマ」を受けることが「イスラエルの復興(回復)」の話と何の関係があるのか、「聖霊のバプテスマ」を受けることが神さまのご計画の中でどのような意味と位置づけをもってるのか。といった新たな事柄が記されています。

1、イエス様40日間滞在の意味
 使徒行伝1章1-2節を読みます。

1:1 テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、
1:2 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。

 この通り、ルカがテオピロ宛てに書いていることが分かります。そして、この使徒行伝がテオピロに宛てる2つ目の調査資料だということが分かります。
 次に1章3-5節を読みます。

1:3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
1:4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
1:5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。

 この3-5節は、イエス様が復活されてから昇天されて、元いたところに帰られる前、なぜ四十日を必要としたかが記されています。
 理由は、イエス様が父なる神さまのところへ行かれたのち、使徒たちがこれから新しい働き(福音宣教と教会建設)をしていくための十分な準備のためでした。
 現代風に言うと「キリストの40日間特別セミナー」と言えるでしょうか。おそらく、使徒たちはこの特別セミナーによって、イエス様からさらに「神の国について」多くのことを教えられたはずです。すでに使徒たちは、三年あまりイエス様とともに生活した中で教えられたことと訓練のベースがあります。それに加えて、復活された後のイエス様の40日間の教えには特別な意味があります。

 その一つは、イエス様が生きておられるということを弟子たちに確証させるためです。
 イエス様は死からよみがえられた後、いろいろな場所で弟子たちに現われています。

 ① よみがえられたその日の朝に、墓を訪れた女たちへ(マタイ28章9節)
 ② マグダラのマリヤへ(マルコ16章9節、ヨハネ20章14~17節)
 ③ エマオの途上にあった二人の弟子たち(ルカ24章13~31節)
 ④ ペテロへ(ルカ24章34節)
 ⑤ 復活された日の夕方、エルサレムにいた弟子たちへ(ルカ24章36節、ヨハネ20章19節)
 ⑥ それから8日後、トマスも含めた弟子たちへ(ヨハネ20章26節)
 ⑦ ガリラヤのある山で11人の弟子たちへ(マタイ28章16~17節)
 ⑧ テベリヤ湖畔で7人の弟子たちへ(ヨハネ21章1~4節)
 ⑨ 五百人以上の兄弟たちへ、しかも同時に(第一コリント15章6節)

 使徒行伝10章41節を読みます。

10:41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。

 証拠のひとつに、イエス様が弟子たち《共に飲食しました。》があります。

 もう一つは、弟子たちがエルサレムから離れずに、父なる神さまの約束を待たせるためです。
 《四十日》は、どこかで聞きました。盛治さんのメッセージにありましたが、イエス様が宣教を開始される前、荒野で40日間断食し、悪魔の誘惑を受けられ勝利されました。

 弟子たちも宣教を開始する前、40日がありました。それは、イエス様の証人となる前に、聖霊のバプテスマを受けるため待ち、イエス様から教えられた目的を悟る必要がありました。

2、天に戻られたイエス様
 使徒行伝1章9-11節を読みます。

1:9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
1:10 イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて
1:11 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

 イエス様の昇天を記しているルカによる福音書24章51節では、手を上げて、

24:51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕

 とありますが、使徒行伝の1章9節では、

1:9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。

 とあります。9節にある《雲》はギリシャ語原典では、νεφελη (ネフェレー)と言います。原典の辞典には「空に現れて近づいてくる形の雲、また、いっぱいに広がって人や物を包んでしまうような雲」と、あります。ですから、神さまの現れと言えます。

 旧約時代では、モーセがシナイの山頂において雲の中で律法を与えられています。荒野における幕屋でのご臨在は、雲によって現われました。
 ソロモンが神殿を奉献したときにも、やはり雲が現われ、祭司たちは、神さまのご臨在に圧倒されて、立っていることができませんでした。聖書にある雲は、神さまのご臨在のしるしようです。

3、心を合わせて、ひたすら祈をしていた弟子たち
 使徒行伝1章14節を読みます。

1:14 彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。

 ① 心を合わせて
 《心を合わせて》と訳される原典のギリシャ語はὁμοθυμαδόν (ホモスマドン)です。
 この言葉は「一つ」を意味するὁμο(ホモ)と「感情」を意味するθυμυς(スムス)からなる合成語で副詞です。使徒行伝では10回出てきます。他の書簡ではローマ人への手紙15章6節です。
 《心を合わせ》ることは初代教会の特徴であり、それは霊的(神さまとの関係)な祝福と神さまの力の現われの源泉でした。主にある者たちが感情を込めて《心を合わせ》るときに、すばらしいことが起こって行ったのです。

 ② ひたすら
 《ひたすら》と訳された原典のギリシャ語はπροσκαρτερέω(プロスカルテレオー)です。辞典では、「続けてする、持続する、着実に実行する、ひたすらつき従う」といった意味です。新改訳3版では「専念」新共同訳「熱心」と訳されています。

 ③ 何を祈っていたのか
 原文では《祈》りは未完了時制を使っています。つまり、「祈り続けていた」となります。
 祈りに冠詞が付いていますので、詩編やユダヤ人の伝統的な祈りを考えられますが、イエス様が天に上げられてからの祈りですから、私たちに親しい「主の祈り」と考えることもできます。
 祈りを教えてほしいと願った弟子たちに対して主イエス様が教えられた祈りですから、その祈りを祈っては、その祈りの内容について思いめぐらし続けていることに専念していたと考えることもできます。
 ここで、詩編27編を読んでみましょう。

ダビデの歌
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
27:2 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
27:3 たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
27:9 み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。
27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。
27:11 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
27:12 わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。
27:13 わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

 ルカによる福音書23章38節を読みますと、

23:38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

 イスラエルの王ダビデの血筋の主イエス様、詩篇27篇は、そのダビデが主である神さまに祈り、主を賛美する歌です。ユダヤ人の王である主イエス様を待ち望むダビデ王、そして弟子たち、さらに私たちキリスト・イエスを信じ待ち望む者たち。状況は違いますが、神さまを待ち望む心は変わりません。

 何か事が起きる時や、起こる前、胸騒ぎしたり、心が落ち着かなかったりします。でも、当時の弟子たちのように、心を静めて、心を合わせて祈り、待つことを教えられます。

2025年2月2日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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