ショートメッセージ【パウロ_1】

使徒行伝8章1-4節
使徒行伝9章1-9節

(人間の思考を超えた神さまの不思議なお働き)

1、エルサレム教会に対する迫害と散らされた人たち
2、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねたパウロ

 前回まで5回に亘って、使徒行伝からパウロが登場する前の出来事を見てきました。
 イエス様が復活してから40日間滞在されことや使徒の欠員補充、ご聖霊の降臨、議会(サンヘドリン)で使徒たちの福音宣教の働きに対する律法学者ガマリエルの提言、ステパノの働きと殉教などを見てきました。
 今回から12回にわたり“パウロ”を見ていきます。
 パウロが登場して、しばらくは“サウロ”という名ですが、やがて“パウロ”に名前が変わります。その場面なども見ていきます。

1、エルサレムの教会に対する迫害と散らされた人たち
 使徒行伝8章1-3節を読みます。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。
8:2 信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。
8:3 ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。

 前回、ステパノが議会=最高法院=サンヘンドリンで、弁証し、そのメッセージのために、石打ちにされ殺されてしまった事を学びました。そして8章では、この殉教をきっかけとして、エルサレムにあった教会に大迫害が起こったことから始まっています。

 8章1節を見ますと、使徒たち以外のキリストを信じる者たちは、周りの地域に散らされました。
 使徒たちがエルサレムに残ることができたのは、イエス様から授かった“不思議な業”と“しるしの業”によって、議会のサドカイ派を中心とする者たちは、彼らに手を加えるのを諦めてしまったからです。しかし、他の人々は激しい迫害に遭っています。

 2節で《信仰深い人たちはステパノを葬り、》とても悲しみました。そして教会の多くの人が、次々と牢獄に入れられました。しかし、イエス様は、この試練をはじめから知っておられました。8章1節に、《使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。》とあります。ここで、使徒行伝1章8節を見ましょう。

1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

 使徒行伝8章1節の場面は、イエス様の御言葉が実現しているのです。彼らは、ご聖霊の力を受けて、ユダヤとサマリヤの全土へと、イエス様の証人となっていくのです。

 神さまは、私たちの考えや思いをはるかに超えて、私たちの願いをかなえて下さる御方です。一見、私たちには、とても不利に思えるような状況でも、神さまの目からは、時適っていることが多いのです。エルサレムの教会は、とても愛に満ちあふれた交わりがありました。
 彼らは、自分たちの財産を教会に分け与えて、共に暮らしていました。日々、パンを裂き、ともに神さまを賛美していました。エルサレムの教会には、すばらしい交わりがあったのですが、イエス様は、それ以上の祝福を用意されていました。

 この福音を、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリヤにも広げていきたいと思われていたのです。ですから、今、この迫害が起こるのをおゆるしになられて、イエス様を信じる人たちがユダヤとサマリヤに散らされました。
 私たちも、彼らと同じように安定を求めます。その安定がいつまでも続くことを願います。しかし、私たちは、そうした快適な状態から出されて、神さまに託された使命を果たすように遣わされることがあるのです。

 そして、この迫害の先頭に立っているのはサウロ=パウロです。
 前もお伝えした通り、サウロの行動は常軌を逸しています。
 この箇所では迫害していますが、次の章では、このサウロはイエス様に出会い、回心して、《地のはてまで、わたしの証人となるであろう》(使徒行伝1章8節)。というイエス様の御言葉が実現していきます。
 このあたりは、迫害者からすると皮肉な結果となっています。サウロは、この迫害によって、人々をユダヤとサマリヤの地域へ散らすことの手助けをし、また、自ら人生をかけて福音宣教をすることによって、地の果てまで宣べ伝えることになって行きます。このような事がらから、神さまは、すべてを支配されていることがわかります。
 使徒行伝8章4節を読みます。

8:4 さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。

 ここで注目したいところは、《御言を宣べ伝えながら》です。ひどい迫害を受けたので、希望を失い、意気消沈し、逃げ回ることもできました。しかし、彼らは、理不尽な試練の中にいても、イエス様に命じられたことを守り、行なってきたのです。

 聖書を読むと、神さまは、ご自分の計画を実行されるときに、人を選び、その人を用いて実行されます。自然を治め、自然を使い、また、国を建て、国を使い、人を立て、人を使うことを教えられます。
 それでは、使徒行伝9章1-2節を読みます。

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、
9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

 《さてサウロは、》と、著者が語っています。一つの出来事が終わり、次の人物が出てきます。この個所は、8章1-3節の続きになっています。
 ステパノの説教を聞いて、怒りと憎しみに燃えたユダヤ人たちがステパノを石打ちにしました。次にサウロが登場します。サウロはステパノを殺すことに賛成していました。
 サウロによってエルサレムの教会で大迫害がありました。

 サウロの次のターゲットが、エルサレムを離れて、ダマスコにいるクリスチャンたちです。 サウロは、ダマスコのクリスチャンたちを滅ぼそうとしているのです。
 このことは、ダマスコにいる人々にも広く伝わっていました。ちなみに、9章2節の《この道の者》とありますが、イエス様に従う人々の呼び名です。2節の意味からすると「それは(ダマスコのキリストの)、道(キリスト教)の者」と言った感じです。当時のクリスチャンはこのように呼ばれていたようです。

2、「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねたパウロ
 9章3-6節を読みます。

9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

 9章1節で《殺害の息をはずませ》ているサウロに現われたのは、正真正銘のイエス様ご自身です。
 サウロは、コリント人への第一の手紙15章8節で、復活されたイエス様がお会いになった人々を挙げ《そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。》(コリント人への第一の手紙15章8節)。と証ししています。神さまは、迫害者サウロに現われ、彼を、福音宣教者として選ばれたのです。

 パウロのこと、使徒行伝を学ぶと福音宣教の大きな分岐点が分かります。
 この福音の広がりが、イスラエル人を越えて、異邦人に行き渡るのです。このことは、だれも夢にも思わなかったことです。ユダヤ人も異邦人も、また、神さまの預言者でさえも理解できていなかった出来事です。

 聖書に書かれている神さまとは、イスラエルの神さまのことであり、契約とは神さまがイスラエルと結ぶものであったからです。ですから、福音もユダヤ人のものであり、異邦人は関係のないこととされていました。

 以前、盛治さんからヨナ書を学びましたが、神さまは、ヨナを通して異邦人の町、ニネベの人々を救いました。ニネべは、アッシリヤの大きな町で、やがて、そのアッシリヤよって北イスラエルは滅ぼされます。神さまは、そのような異邦人の町の人々を救ったのです。
 神さまは、ユダヤ人だけではなく、異邦人の神さまでもあります。
 言い換えれば、イスラエルの神さまは、天地創造の神さまですから、地上のすべての人の神さまです。これは否定しようが肯定しようが、創造主である神さまからすれば、当然の事です。

 神さまは、異邦人にもご自身の憐れみを与えるために、福音を異邦人にも与えようとされています。そこで人間が必要なのです。この福音をたずさえて町々へ歩む人物が必要だったのです。

 人間的な考えでは、いえ、教会の立場で言えば、サウロは最も適さない、選んではいけない人物です。教会にとって彼ほど危険な人物はいません。教会を迫害する敵なのですから。
 仮に、回心しても非難の対象です。ダマスコにいたユダヤ人は、イエス様を宣べ伝えるサウロを見て、殺す計画を立てました。また、エルサレムにいるクリスチャンは、サウロを受け入れませんでした。

 教会にとって、サウロは、神さまに立てられてほしくない人物でした。しかし、神さまはあえて選ばれたのです。なぜでしょうか。この事は、考えさせられる出来事です。また、読み進めると心理的に障壁となるような出来事です。

 それは、神さまの恵みの啓示(さとし示すこと)を人々に与えるためです。
 聖書の語る「恵み」とは、受けるに価しないものを受けることを意味します。本来なら、さばかれて、罰せられなければいけない人が、その罰を免れるだけではなく、大きな祝福を受けることを「恵み」と言います。
 教会を激しく迫害している者の罪が赦されて、心が変えられて、福音宣教者になるのであれば、どんなに罪深い人でも神さまによって、心を変えられることが分かるでしょう。
 神さまがサウロを選んだというのは、このような最大限の豊かな恵みを私たちに啓示(さとし示すこと)するためだったのです。このような衝撃的な回心が証しとなるのです。

 そして、神さまがサウロを選んだ他の理由は、彼が、生粋のユダヤ人であり、厳格な律法の教育を受け、強い意志をもって律法を守った人だったからです。
 サウロは、ピリピ人への手紙3章5-6節で、自分のことを、

3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

 とまで言い切っています。しかし、イエス様の教えは、律法とは人の心の態度までが含まれることを語られました。
 神さまが律法を与えられた、その律法の精神性を言っているのです。しかし、パリサイ人は外面の行動では律法を守っていましたが、心の中のことまでは守っていませんでした。ですから、このパウロは、人は決して律法のすべて守ることができないことを一番良く知っている人物と言えます。

 パウロは、人は誰も、行ないによって絶対に、神さまとの和解をすることはできないことを知っていた人物なのです。これは、異邦人に福音を伝える際、とても重要な事なのです。
 異邦人は、ユダヤ人のように律法を行なわなくても、ただ、信仰によってのみ救われることを伝えなければいけなかったからです。
 律法は、異邦人に律法が与えられたのではなく、エジプトの奴隷から解放され、道行く途中で神さまがモーセを通してイスラエル人に与えたモノです。

 そもそも聖書が教えている根幹は、信仰による神さまと人との関係です。聖書に書かれている神さまのお言葉を守り、それを行なうことはもちろん大切ですが、どのように守るのかが問題になります。これを、一つの規則のようにして守るのか。あるいは、神さまとの人格的な、個人的な交わりの中で語られたお言葉として守るのかは大違いです。

 心なく儀礼的に言われたことを行なうのは、神さまの御心ではありません。全人格的な関わり合いがあって、そこから出てくる従順こそが大事なのであり、それが信仰なのです。
 ですから、この原理原則を本当の意味で理解できる人が必要だったのです。律法の行ないでは誰一人、神さまから義と認められることはできないことを、全人格(知識や心)で知らなければならず、それを知っていたのはサウロでした。

 さらに、神さまがサウロを選ばれたのは、彼がギリシヤ文化にふれていたからです。彼が生まれたのはタルソという町でした。そして、ローマ帝国の市民権も得ていました。ですから、福音の根幹を変えることなく、ギリシヤ人に合わせて語ることができたのは、このパウロだったのです。以上のような理由から、神はさまパウロを選ばれました。
 使徒行伝9章7-9節を読みます。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
9:8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。

 サウロは目が見えず、飲み食いもできず、3日間を過ごしました。このことは、サウロには必要でした。彼の膨大な旧約聖書の知識が、今、イエス様によって照らされて、まったく違った意味を持つようになりました。今までの聖書理解が、誤りであることを知りました。
 そして、イエス様こそが、この聖書が証言しているキリストであることを知りました。サウロには多くの聖書の知識があるからこそ深く感じ取ったのです。ですから、外の世界から遮断された形で3日間を過ごすのは、有益だったと言えます。
 パウロのように、短期間でほぼ完全に変えられることができる人物と、また、10章に出てくるペテロのように、失敗をしながら段階を経て変えられる人物がいます。パウロは聖書知識が豊富で熱心さで言えば教会を迫害するような人物ですから180度変わってしまったと言えるでしょう。

 9章8節だけを読みますと分からないのですが、ダマスコにはクリスチャンの集会が誕生していました。

2025年3月9日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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