ショートメッセージ【私たちの身代わり②】

マルコによる福音書15章33-47節
(死と埋葬)

1、死
2、埋葬

1、死
 前回、イエス様の十字架の場面を見ていきましたが、これから、死なれる場面を見ます。
 マルコによる福音書15章33節を読みます。

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。

 昼の十二時に、全地が暗くなりました。旧約聖書には、それが預言されています。
 アモス書8章9-10節です。

8:9 主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
8:10 あなたがたの祭を嘆きに変らせ、あなたがたの歌をことごとく悲しみの歌に変らせ、すべての人に荒布を腰にまとわせ、すべての人に髪をそり落させ、その日を、ひとり子を失った喪中のようにし、その終りを、苦い日のようにする」。

 アモス書8章9-10節の前の記事からの文脈から《その日》は、イスラエルがエジプトから救い出されたことを祝う、過越の祭りでした。そして、《その日を、ひとり子を失った喪中のようにし、》すると書かれています。父なる神さまのひとり子が失われ悲しむことを自然界が表現しています。
 マルコによる福音書15章34節を読みます。

15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 マルコによる福音書15章34節は、詩編22篇1-2節の引用です。読んでみましょう。

22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。

 続けて、詩編22篇3節を読みます。

22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。

 ここには、私たちの考えが及ばない深い意味があります。
 先週からのテーマ“身代わり”とは何でしょう。そうです。他人の“身”の“代わり”になることです。イエス様は罪人の“身代わり”となられ十字架という“さばき”をわたしたちに代わって父なる神さまの“さばき”に遭われたのです。

 神さまが沈黙し、イエス様が見捨てられた理由は、神さまが《聖なるおかた》だからです。
 イエス様は、この瞬間に全人類の罪を負われました。
 イスラエルの人たちは、罪のため、聖い神さまとの交わりに断絶が起こりました。マラキ書が書かれてから、イエス様がご降臨されるまで約400年です。
 イエス様が地上に来られたこと、十字架にかかられたこと、これは全て、“身代わり”の“わざ”なのです。
 イスラエルの民が、また私たちが、神さまから永遠に引き離されることがないように、イエス様は罪人ととなり、ここで、父なる神さまから引き離されているのです。
 マルコによる福音書15章35-36節を読みます。

15:35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。
15:36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。

 エリヤを呼んでいると勘違いし、好奇心だけで眺めている人々がいました。
 エリヤのことを知っているということは、イスラエルの民です。そして、聖書を読んでいるということです。その者たちが、十字架につけられているイエス様に近づいているのです。今でいう、やじ馬です。
 マルコによる福音書15章37節を読みます。

15:37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。

 ルカによる福音書23章46節では、《「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。》と言われ、ヨハネによる福音書19章30節では《「すべてが終った」》と言われ、息をひきとられました。そして、十字架の最期は、《息をひきとられた。》とあります。“死んだ”ではありません。
 マルコによる福音書15章38節を読みます。

15:38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

 この幕は、神殿の中の聖所と至聖所を仕切る幕のことです。聖なる神のご臨在される至聖所には、年に一回大祭司だけが入ることがゆるされました。しかし、それが真二つに裂けました。しかも、上から下に裂けました。神さまご自身が、ご自分と人との隔たりを取り除いてくださったということです。
 ヘブル人への手紙4章16節を読みます。

4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

 とあります。私たち主イエス・キリストを信じる者は、大胆に近づくことができるのです。
 テモテへの第一の手紙2章5節にパウロが書いています。

2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

 父なる神さまの御子イエス・キリストによって私たちは神さまへ礼拝できるのです。
 マルコによる福音書15章39節を読みます。

15:39 イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。

 十字架刑はローマ帝国の極刑です。その管理をする兵士ですから、この百卒長(百人隊長)はローマ兵です。イエス様の前に立っていた百卒長は、イエス様の十字架刑を執行する兵士たちを指揮していた人物です。
 百卒長は、その全容を見ていました。イエス様がこのように息を引き取られたのを見て、《「まことに、この人は神の子であった」。》と告白しています。
 新約聖書で《神の子》という呼び名は、このマルコによる福音書の最初の言葉になっています。《神の子イエス・キリストの福音のはじめ。》とあります。このことを、一番はじめに悟り告白したのは、イスラエルの民でもなく、イエス様の弟子でもなく、イスラエル民族からすると異邦人の百卒長です。責任ある立場の証言だったのです。
 マルコによる福音書15章40-41節を読みます。

15:40 また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。
15:41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

 著者によると、イエス様のところに残っていたのは、イエス様の弟子たちではなく、女性たちでした。十字架の近くにはいませんでしたが、遠くから見ていました。このように、イエス様の十字架の一部始終を見てイエス様を受けいれたのは、異邦人と女性たちです。

2、埋葬
 最後に、イエス様の埋葬の出来事です。マルコによる福音書15章42-43節を読みます。

15:42 さて、すでに夕がたになったが、その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。

 ユダヤ教の1日の始まりは、日の入りに始まり、日の入りに終わります。そして、安息日になってしまうと、何の仕事もできなくなるので、その夕方のころ、つまり安息日にさしかかろうとしているころに、ヨセフは急いでピラトに、《イエスのからだの引取りかたを願》いました。彼は、地位の高い議員と書いてありますから、おそらく、ユダヤ人の最高機関であるサンヘドリンの一員であったと考えられます。そして、そのような地位にある人物が、いつの間にか、イエス様の弟子となっていました。
 マルコによる福音書15章44-45節を読みます。

15:44 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。
15:45 そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。

 イエス様の死を疑っている総督ピラト。
 調べますと、十字架で死ぬときは、途中で昏睡状態になり、死にいたるまで、時間がかかるそうです。百卒長が確認すると、イエス様はすでに息をひきとられていました。
 マルコによる福音書15章46節を読みます。

15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスをとりおろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。

 イエス様が、ヨセフによって墓へ葬られています。墓は当時、金持ちの人しか入りませんでした。そして、イザヤ書53章9節の言葉が成就しています。
 イザヤ書53章9節を読みます。

53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

 新改訳2017のイザヤ書53章9節を読みます。

53:9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。

 ニュアンスが違います。注目していただきたいのは、新改訳2017では《富むものとともに、その死の時に設けられた。》と書かれている点です。口語訳にはない表現です。
 マルコによる福音書15章47節を読みます。

15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。

 埋葬は、当時も死を決定づけるものです。コリント人への第一の手紙15章3-4節を読みます。

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

 この出来事は、歴史的最重要項目です。確認された死は、仮死状態ではない、完全な死でした。埋葬を願い出た者がいて、死が正式に確認され、埋葬が許可され、実行され、それを見届ける者がいた。明らかに著者は、それに続く復活の出来事を意識して、埋葬の事実を意図して書いてることがわかります。復活は、この完全な死を決定的に打ち破る大逆転であるのです。

 先週、今週と、罪の性質として、祭司長たち、群衆、総督ピラト、兵士たちの中に、私たちと同じ罪の性質であることを見ました。自分が正しいとする自分の正義です。大きい小さいではありません。
 責任ある立場が高い人は、それだけ多くの人々に影響力があるだけの事です。かえって、立場がなく言葉に責任を持たずに発する言葉も罪と言えます。野次ることです。
 このように、自分の罪の性質を見るのは、とても辛いことです。しかし、主イエス・キリストが、その血で私たちの罪を完全に贖ってくださった事も見ることができました。
 そこには、人を愛する神さまの深い愛があります。そして、罪からの自由があります。私たちは、もう、罪に支配されていないのです。
 最後にコリント人への第2の手紙5章21節を読みます。

5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

 “救い”というのは、父なる神さまが定められた“さばき”からの救いです。人は誰しもこの“さばき”から逃れられません。キリスト・イエス信じるということは、父なる神さまの“さばき”から罪赦された者とされるのです。

2025年4月13日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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