ショートメッセージ【私たちの身代わり①】

マルコによる福音書15章21-47節
(十字架)

1、十字架

1、十字架
 マルコによる福音書15章20-21節を読みます。

15:20 こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。

 宗教指導者であった祭司長や律法学者たちは、イエス様を捕まえ、ローマ帝国の総督ピラトのもとへ連れて行きました。そして、イエス様に罪があるように見せかけて訴え、十字架につけるよう強く求めました。彼らは群衆を煽り立て、イエス様には罪がなかったにもかかわらず、十字架刑にされてしまったのです。
 15章20-21節の記事は、兵士らによる十字架刑の前の暴行で衰弱したイエス様は、十字架を最後まで背負う力はなかったと考えられます。そこで、兵士は、シモンというクレネ人に、その十字架を無理やり背負わせました。
 マルコによる福音書15章22-23節を読みます。

15:22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。
15:23 そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。

 22節、処刑場となった丘は、《ゴルゴタ》《されこうべ》はアラム語で呼ばれたようです。
 23節、《没薬をまぜたぶどう酒》は、感覚をマヒさせるようなモノだったそうです。しかし、イエス様はそれを拒否されました。イエス様は私たち罪びとの身代わりに、罪の結果としての苦しみと痛みを受けられました。
 マルコによる福音書15章24-25節を読みます。

15:24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。
15:25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。

 15章24節《それから、イエスを十字架につけた。》このナレーションはひと言で終わっています。
 つまり、当時の読み手の人たちは、この極刑を知っていたのです。
 私たちは実際に十字架刑を見たことがないので、その様子を想像するのは難しいかもしれません。十字架は、人を縛りつけても倒れないように、地面にしっかりと立てられます。そして、その十字架に囚人が磔られるのです。そして、両手と両足に釘を打たれます。体重が両手両足にかかるので、関節が外れ、気を失うような激しい痛みがあったと考えられます。
 詩編22篇14節を読みます。

22:14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。

 同じ詩編22篇の18節を読みます。

22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。

 これらの様子が詩編22篇やイザヤ書53章に記されています。
 律法では、死刑の方法は石打ちでした。ところがイエス様は十字架刑でした。よく考えると詩編22篇、イザヤ53章など、著者が前もって知っていないと描写することはできません。十字架刑でなければ、説明がつきません。つまり、主イエス・キリストがローマ帝国の定めた十字架の刑を受けられることは、神さまが前もって定めておられたことなのです。
 マルコによる福音書15章26-28節を読みます。

15:26 イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。
15:27 また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。
15:28 〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕

 この場面は、預言者イザヤによって告げられています。イザヤ書53章12節に書かれています。

53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

 マルコによる福音書15章29-30節を読みます。

15:29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、
15:30 十字架からおりてきて自分を救え」。

 罪深さと軽率さが示される《通りかかった者たち》の“ののしり”。
 ヨハネによる福音書2章18-21節を読みます。

2:18 そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。
2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。

 この場面の話は“宮きよめ”という場面の後の問答です。
 “宮きよめ”とういうのは、簡潔に言いますと、イエス様が、神殿で商売をする者たちを追い払われたことです。その後の問答です。
 この記事の通り、神殿とは、ご自分のからだのことを指していましたが、彼らは本当の意味を分からず、実際の神殿のことと考えて話しています。
 マルコによる福音書15章31-32節を読みます。

15:31 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。
15:32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 祭司階級の人々がサドカイ派で、律法学者たちがパリサイ派です。実は、彼らは互いに対立していたのですが、イエス様に敵対し愚弄することでは一致しています。
 彼らは、イエス様が多くの人を、いやし、奇蹟を行い、救ってきたのを知っているのです。しかし、《他人を救ったが、自分自身を救うことができない。》と、愚弄しています。

 不思議な描写です。《一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》
 ルカによる福音書23章39-43節を読みますと、彼らの愚弄も《「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。》(ルカによる福音書23章37節)というものでした。自分の犯罪を棚に上げて他人の棚卸しをしています。人の浅はかさが垣間見える描写です。ルカによる福音書では、もう少し詳しく書いています。そのルカによる福音書によると、犯罪者の一人は思いを変えて、もうひとりの犯罪者をたしなめ、《イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。》と、お願いしました。
 イエス様の十字架の出来事に軽率な人々の描写ばかりの中で、このルカによる福音書の犯罪者の記事を読むと、イエス様が与えてくださる“救い”とは、人間の考えでは到底理解しきれない、深く大きなものだということがわかります。

 ここで、この記事だけを取り上げて読むと大きな疑問が湧いてきます。イエス様は、本当にご自身を救えなかったのでしょうか。
 イエス様は肉体面で、そこから降りることは可能でした。もちろん、その前に逃げることも簡単でした。イエス様は、神の御子キリストですから全能者です。多くの奇跡行っています。よみがえられてから肉体を持ったままの出来事を見ても、不思議な出来事ばかりです。ですから、イエス様にとって、十字架からご自身を救うことは容易にできました。これは、あくまでも肉体面の話しです。

 もう一つの観点が重要です。このもう一つの観点の理由によりイエス様は、十字架刑に架けられたのです。イエス様が死なないと、人間は霊的に救われないからです。神さまとの私たち罪人の人間との関係において救われないのです。つまり、私たちは100%死にます。ヘブル人への手紙9章27節によりますと、

9:27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように

 とあります。
 イエス様は、私たち人が死んだあと、父なる神さまとの仲保者としてこの世に来て下さったのです。
 罪のいけにえは傷ひとつゆるされません。ですから、罪のいけにえになる人には、何の罪もゆるされないのです。もし罪があったら、その人は自分自身の罪のために罰せられて死ぬことはあっても、他の人々の身代わりになることはできません。
 神の御子であるキリスト・イエスのみが、罪を犯したことがなく、このお方だけが、罪のいけにえとなる資格を持っておられたのです。ヘブル人への手紙9章28節を読みます。

9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

 十字架の意味は、このような意味があります。
 私たちは、神さまに対して、罪を処理できないのです。天地万物を創造し、私たちをお造りになり、人が罪に堕落しても、私たちを愛してやまない神さまが、私たちを憐れんでイエス様を私たちの身代わりとして犠牲としておささげになられたということです。
 救いには、神さまの大きな犠牲がともなっています。

2025年4月6日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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