ショートメッセージ【復活】

ヨハネによる福音書20章11-17節
(復活された主に会う)

1、マリヤの悲しみ
2、気づいたマリヤ
3、すがりつくマリヤ
4、「わたしの兄弟たち」

 聖書に書かれてある人物の中に、人として恥ずかしい事が、あからさまに書いてあります。
 そして、聖書は、人のもつ性質が、まざまざと表されています。十字架の一件で神さまは、私たちの人間のそうした弱さも含めて愛しておられることをお分かりになったと思います。
 聖書は、イエス様が、息をひきとられて終わりではありません。イエス様は、“よみがえられる”のです。そして、弟子たちと会います。今回は、復活された最初の部分をヨハネによる福音書から見ていきます。

1、マリヤの悲しみ
 ヨハネによる福音書20章11節を読みます。

20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、

 ヨハネによる福音書20章1節は、マグダラのマリヤがイエス様のご遺体を納めているお墓に行きましたが、そこには、イエス様のご遺体がなくなっていて、20章2節で、マグダラのマリヤが、ペテロとヨハネに、《…「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。》と伝えたところから始まります。
 そこで、ペテロとヨハネが墓に行き、中にまで入り確認しましたが、そこにイエス様を包んでいた亜麻布はありましたが、イエス様の体はありませんでした。“体がない”という状況を、“誰かがイエス様を取り去った”と考えたのです。彼らは、“体がない”ということを、“イエス様は、よみがえられた”とは、考えませんでした。イエス様は、十字架にはりつけられる前に何度も“よみがえる”と、はっきりと教えていたにも関わらず悟らなかったのです。
 マグダラのマリヤは、《「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。》と、ペテロとヨハネに、と言った後で、墓に戻り、ずっと泣いていました。そして、泣きながら墓の中をのぞきます。
 ヨハネによる福音書20章12-13節を読みます。

20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

 他の福音書を見ますと、マグダラのマリヤ以外にも女性たちが共に墓へ行き、御使いが、そこにいたことを記しています。そして御使いは、彼女たちに対して、イエス様は生き返ったのだと伝え、それを弟子たちに伝えなさい。と言いました。そこで、マリヤたちは、イエス様が語られた言葉を思い出して、弟子たちのところに行きます。

 マグダラのマリヤにとって、イエス様が、かけがえのない存在であったことがわかります。“イエス様がいなければやっていけない”という人物の一人でした。彼女は、ガリラヤ湖の北西の湖畔の町、マグダラ出身でした。
 ルカによる福音書8章2節では、

8:2 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、

 とあります。《七つの悪霊を追い出してもらった》ということは、レギオンという悪霊に憑かれた男性の話が、同じルカによる福音書福音書8章26-39節に登場しますが、墓場で鎖につながれていました。彼女も、まともな生活をすることは困難だったと考えられます。ところが、イエス様が悪霊を追い出してくださいました。

 そんなマグダラのマリヤ、ただただイエス様だけが頼りだったでしょう。彼女は、他の女性たちと共に、イエス様が十字架に付けられているのを遠くから見ていたし、またイエス様が葬られるのも見ていました。ですから、イエス様の体が取り去られたということは、彼女にとって、あまりにも衝撃的で耐えられなかったのだと思います。
 そのイエス様のご遺体に対する敬意がありますから、イエス様のご遺体が取り去られたと思い込んでいる時点では、侮辱を感じていたでしょう。

2、気づいたマリヤ
 ヨハネによる福音書20章14-16節を読みます。

20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

 この場面で、マリヤはうしろを振りむくと、イエス様ご自身がマリヤに話しかけ、《「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。》と尋ねておられます。
 それでも、マリヤは気づきませんでした。悲しみのどん底になっていたからでしょうか。または、涙で目が滲んでいたからかもしれません。また、イエス様ご自身のお姿とお顔も変わっていました。十字架につけられる前に暴行を受けていましたから、顔や姿勢が変形してしまっていたかもしれません。

 他に、イエス様がご栄光に満ち溢れた御姿でわからなかったからかもしれません。詳しくは分かりませんが、分かることは、彼女は、ただ見ただけでは分かりませんでした。《園の番人》だと思っていたのです。
 マリヤはうしろで《「マリヤよ」》と名前を呼ばれて気づきました。その一言で、彼女はふり返って、《「ラボニ」》と言って、イエス様にすがります。マリヤは一瞬で、イエス様だと理解しました。

 ルカによる福音書では、エマオの途上で歩いていた二人の弟子のところに、イエス様が現われました。彼らも気づいていませんでした。しかし、共に食事をしてイエス様が、パンを取り、祝福して裂き、彼らに渡しておられるうちに、彼らはこの御方がイエス様だと分かったのです。その時、イエス様の御姿が見えなくなりました。

3、すがりつくマリヤ
 ヨハネによる福音書20章17節を読みます。

20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。

 イエス様のマグダラのマリヤに対する一見不思議なお言葉《「わたしにさわってはいけない。…」》ですが、新改訳2017では、《「わたしにすがりついていてはいけません。》と訳されています。
 そして、《まだ父のみもとに上っていないのだから。》と言われるのです。
 イエス様は、四十日間、地上にこのままおられて神の国について弟子たちに語られます。
 それから天に昇られます。オリーブ山から昇られました。そして今、天において神の御座の右に着座しておられます。やがて、おいでになるのですが、それはまだ起こっていません。
 しかし、よみがえられてから 49 日後に、すなわち天に昇られてから 9 日後に、ご聖霊が弟子たちに降る(くだる)のです。そしてご聖霊によって、イエス様はご自身が彼らと共におられると約束しておられました。

 マグダラのマリヤは、今、イエス様にすがりついていますが、もう、そのようことはできなくなります。イエス様は、天に昇られるからです。
 それは、見えているイエス様が天に戻られた後に起こります。もうひとりの助け主であるご聖霊が、私たちと共におられ、また内に住んでくださるので、イエス様が、この地に体をまとわれておられる以上に、信じる者に内住されるご聖霊のお働きにより、より神さまと交わり、より親しく知ることができるようになります。

4、「わたしの兄弟たち」
 そして、イエス様は、《わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。》と言われます。これは、注目すべき御言葉です。
 イエス様は、彼らにとって主です。しかし、イエス様は、《わたしの兄弟たち》と仰っています。
 このことの意味は、イエス様と父なる神さまの間にある、その交わりの中に彼らも招き入れられたからです。とても重要な箇所なので少し解説します。ヨハネによる福音書15章13-15節を読みます。

15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 この聖書箇所は、弟子たちの立場の重要な転換点なのです。イエス様の愛と弟子たちとの関係の変化を丁寧に説明しています。もう少し分かりやすく、また流れがはっきりするようにまとめますと、
・これまでの弟子たちの立場:弟子たちは、神さまのことを直接にはよく分かっておらず、いつもイエス様に尋ねていました。何かを願うときも、イエス様に願い、それをイエス様が父なる神さまに取り次いでくださる、という関係でした。つまり、イエス様が「仲介者」のような存在でした。

・イエス様の言葉の転換点(これからはそうではない):イエス様は、「これからは、わたしを通して直接、父なる神さまに願うことができる」と語っています。それは、弟子たちが単なる「しもべ」ではなく、「友」として扱われるようになるからです。

・友と呼ばれる理由:イエス様は、父なる神さまから聞いたことをすべて弟子たちに知らせました。これは、“しもべ”には知らされない「神さまの御心」を共有された、ということです。ですから、弟子たちは神さまの働きに共にあずかる“友”とされるのです。

・最も大きな愛:この背景の中で、イエス様が「友のために命を捨てる愛が最も大きい」と語られることで、十字架の死の意味 ― “友”である弟子たち、そして、すべての信じる者のために命を捧げるという愛の本質が明かされているのです。
 ヨハネによる福音書16章23節を読みます。

16:23 その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。

 このように、イエス様の御名を通して父なる神さまへ親しい交わりを持たせて下さるようになったのです。
 最後にローマ人への手紙8章28-29節を読みます。

8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

 神さまが、ご自分を愛する者たちの間で働いてくださっています。そして、《万事を益となるように》働いてくださいます。
 それは、私たちにとっての“益”ではありません。イエス様が私たちの兄弟の長子となられて、神さまの働きが、私たちを通して行ってくださる、というところに“益”があるのです。
 イエス様の復活は、死を含めたすべての悪からの完全な勝利です。

2025年4月20日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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