ショートメッセージ【姦淫を行った女性】
ヨハネによる福音書8章2-11節
(わたしもあなたを罰しない)
1、女性―現場で捕らえられた
2、権力者たちの浅知恵とイエス様の知恵
(1)陥れようとする偽善者たち
(2)問うた者たちと沈黙するイエス様
3、わたしもあなたを罰しない
4、私たちと律法学者やパリサイ人
1、女性―現場で捕らえられた
ヨハネによる福音書8章2-4節を読みます。
8:2 朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
8:3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
この女性は、最も恥ずかしい現場で捕えられ、引っぱられて人々の前に立たされました。それは、肉体的にも精神的にも、最も弱くされ、無力にされた瞬間でした。
律法に照らせば確かに彼女は罪人です。しかし、なぜ罪の相手の男は連れてこられなかったのでしょうか。ここに、彼女が単なる「正義の実行」の犠牲者でなく、「何かの目的に使われた存在」であることが見えてきます。
私たちも、ときに人の過ちを“正しさ”の名のもとにさらけ出したくなる時があります。しかし、その動機は本当に神さまの義にかなうものなのでしょうか。正しさ、すなわち善悪をさばかれるのは神さまです。ここで、伝道の書12章13-14節を読みます。
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
ルカによる福音書12章2-3節を読みます。
12:2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
とあります。私たちが人目から隠せたとしても、神さまの目から隠せるものは何一つありません。
2、権力者たちの浅知恵とイエス様の知恵
(1)陥れようとする偽善者たち
ヨハネによる福音書8章5-6節を読みます。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
律法学者やパリサイ人たちは、「モーセは律法で石打ちを命じた」とイエス様に詰め寄ります。しかしその目的は、女性の救済でも律法の実現でもなく、イエス様を《訴える口実を得るためで》した(8章6節)。彼らの本当の目的は“義”ではなく、“罠”です。
レビ記20章10節を読みます。
20:10 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
姦淫の当事者は男も女も処罰の対象ですが、ここに男はいません。つまり、彼らは律法を守ろうとする“ふり”をして、イエス様を陥れるためだけに律法を“利用”しているのです。これは、自分の罪を棚上げし、他人の罪を棚卸しする態度です。
(2)問うた者たちと沈黙するイエス様
ヨハネによる福音書8章7-9節を読みます。
8:7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
イエス様は問いかけられても、すぐには答えず、静かに地面に文字を書かれました。
沈黙のうちに、イエス様は彼らの心を見抜いておられたのです。そして語られた一言は、まさに神さまの知恵そのものです。《「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。》
この言葉は誰をも告発せず、誰をも弁護していません。ただ、裁きの資格があるのは誰かという根本的な問いを突きつけました。
それを聞いた彼らは、《年寄りから始めて》一人ひとり去っていきました。年長者ほど、自分の過去の罪を思い出したのでしょう。また、罪の意識が深かったのだと思います。結局、残ったのはイエス様と女性だけ。罪なき者はただひとり、イエス様だけでした。
3、わたしもあなたを罰しない
ヨハネによる福音書8章10-11節を読みます。
8:10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
このとき、彼女は《先生》ではなく《主よ》と呼びました。彼女の心の中に、何かが変わり始めていたのです。
イエス様は言われました。《「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。》これは罪を軽視した言葉ではありません。罪を赦し、新しい生き方へと導く言葉です。ヨハネによる福音書3章17節でイエス様は、
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
彼女は赦されました。そして、新しい人生への門が開かれました。
4、私たちと律法学者やパリサイ人
私たちはこの物語の中で、だれの姿に自分を重ねるでしょうか?
「この女」として赦しを必要とする存在なのか。
あるいは、「罪のない者」として他人を裁こうとする者なのか。
イエス様は、私たちのどちらの面も見ておられます。そして、すべての人に問われるのです。
先ほど触れましたが、律法学者やパリサイ人たちは、女と共に罪を犯した男を見逃しています。私たちも、他人の罪に目を向けがちになりますが、自分の罪には注意を向けず無関心となります。
これは、人のもっている性質でもあるのです。神さまがアダムに、彼の罪を聞かれた時、アダムは《「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。》(創世記3章12節)と言いました。この時の罪の性質を受け継いで帯びているのです。
マタイによる福音書7章3-5節で、イエス様は、
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
と言われ、自分の罪を認めない人は、偽善者であると教えられたのです。
彼女に言われた、イエス様のお言葉《「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。》は、赦しとともに与えられる新しい人生への招きです。
2025年10月12日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正
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※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
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※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
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