ショートメッセージ【けがれた霊につかれた人】
マルコによる福音書4章35-41節
マルコによる福音書5章1-20節
(キリストによって平安が与えられる)
1、心の嵐にも平安を ― ガリラヤ湖の嵐とゲラサ人の物語から
2、この人がキリストに会う前の状態
3、霊的な戦い
4、その結果
マルコによる福音書4章35節から5章20節にかけて、ふたつの「嵐」の物語が連続して記録されています。ひとつは自然界に起こったガリラヤ湖の嵐、もうひとつは人の魂のうちに吹き荒れる「心の嵐」です。これらは単なる奇跡の連続ではなく、「イエス・キリストが自然も霊も支配される主であること」を明らかに示しています。
“前編”では、「ゲラサ人の状態」に焦点が当てられます。
彼は悪霊に憑かれ、墓場に住み、社会からも人間らしさからも切り離されていました。周囲の人々は彼を鎖で縛ろうとしましたが、その力でも彼を救うことはできませんでした。彼の叫び、自傷行為は、罪と絶望に満ちた魂の苦しみを物語っています。ここに、「心の嵐」の姿が生々しく描かれています。
“後編”では、「イエス様と彼との出会い」が描かれます。
イエス様は、誰も近づけなかったこの男に近づき、直接悪霊に語りかけられます。そして、《「けがれた霊よ、この人から出て行け」》とのひと言で悪霊を追い出されました。結果、彼は正気に戻り、イエス様の足もとに静かに座る人へと変えられたのです。
イエス様は彼に《「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。》(マルコによる福音書5章19節)と命じ、彼はデカポリスの地方全体にイエス様が、自分の身に成されたことを広めました。
この物語は、自然界の嵐も、心の内の嵐も、キリストの御言葉の前によって静まることを教えています。そして、それは昔の話ではなく、今も生きて働かれる主のお働きなのです。
1、心の嵐にも平安を ― ガリラヤ湖の嵐とゲラサ人の物語から
マルコによる福音書4章35-41節を読みます。
4:35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
4:38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
4:39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
4:41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
弟子達は嵐のために舟が沈みそうになっていました。この時、イエス様は起きあがって言葉だけで海を静まらせ、嵐を止められました。今回学ぶマルコによる福音書5章の1-20節の話しは、いま読んだ、マルコによる福音書4章35-41節の続きの話しで、文脈上“嵐”がベースにあります。
マルコによる福音書4章35-41節は自然界の“嵐”ですが、5章の1-20節では、人の心の中の嵐が取り上げられています。
罪の力と悪霊の奴隷となっている可哀想なゲラサ人がいました。その嵐は一番強い風の嵐よりも恐ろしい心の中の嵐でした。人は自分の罪を愛しながら、同時に罪を憎んで自分の存在が嫌になってきます。
イエス様が荒れてもいるガリラヤ湖を静めたと同じように、イエス様の言葉は、苦しんでいる人の心を安らかにすることもできます。見ていきましょう。
2、この人がキリストに会う前の状態
マルコによる福音書5章1-5節を読みます。
5:1 こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
ゲラサ人の地は、ガリラヤ湖の東岸で中央より少し北寄りに位置します。聖書地図では“ゲルゲサ”と表記されています。
(1)汚れた霊につかれていた
2節でゲラサ人の男性は、「汚れた霊」に憑かれており、9節では、その名は「レギオン」、すなわち「大勢の霊」であったと記されています。
(2)彼の“すみか”は墓場
3節を見ますと、彼の居場所は「墓場」でした。霊的に死の状態にある者にふさわしい場所です。ルカによる福音書にも悪霊につかれた人の事が書かれていますが、8章27節で彼は、《悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず》、死者とともに暮らしていました。
(3)誰も彼を鎖で繋ぎ止めておくことが出来なかった
4-5節を見ますと、人々は彼を鎖や足かせで縛ろうとしましたが、それを引きちぎり、誰も制御できませんでした。
(4)たえまなく叫びつづけ自傷行為をしていた
5節を読みますと、彼は鎖に繋がれることなく自由でした。しかし、自分の存在すらも嫌悪し、破壊せずにはいられなかったのです。
3、霊的な戦い
マルコによる福音書5章6-13節を読みます。
5:6 ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5:7 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
5:8 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5:10 そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
5:11 さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
5:13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
(1)悪霊はイエス様を誰か知っている
6-7節を見ますと、彼は遠くからイエス様を見て、走り寄って拝しました。それは彼の内にある悪霊が、イエス様を《いと高き神の子》と認めていたからです。
(2)悪霊に命令されたイエス様
8節を見ますと、イエス様は《「けがれた霊よ、この人から出て行け」》と命じられました。
(3)汚れた霊(悪霊)はイエス様を神の子と認めている
①5章7節で悪霊はキリストのことを理解しています。
②この霊は悪魔の使いであり、サタンの支配下にある存在です。
③彼らは《…苦しめないでください》と願い、裁きの時が来るのを恐れていました。
並行記事のマタイによる福音書8章29節を読みます。
8:29 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
《まだその時ではないのに》は、神さまの裁きの時のことです。
(4)キリストは悪霊どもに「行け」と言わた
マルコによる福音書5章9-13節を見ますと、12節で悪霊がイエス様へ《「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。》と願うので、13節で、イエス様は悪霊どもを豚の中に入ることを許されました。そして、豚の群れは海へなだれ込み、溺死しました。
4、その結果
マルコによる福音書5章13-20節を読みます。
5:13 イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
5:14 豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
5:15 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
5:16 また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
5:17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
5:19 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
5:20 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。
この地域は豚の群れがいて、飼っていた人たちがいた、と言うことは異邦人に住む地域だったことが分かります。
(1)かつて悪霊につかれていた人
15節を見ますと、
・着物を着て、
・正気になって、
・イエス様の足もとに座っていました。
ここで並行記事のルカによる福音書8章35節を読みます。
8:35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。
マルコによる福音書5章19節を読みますと、悪霊から解放された彼は、イエス様に従いたいと願いました。しかしイエス様は、《「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。》とお命じになりました。
そして、彼はデカポリス全域にイエス様のなされたことを伝え、多くの人々が驚きました。
(2)町の人々の反応
もう一度5章17節を読みますと、
5:17 そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
人は誰でも、キリスト・イエスに求めるならば、この記事のように自然界、人の心も静められ凪にし、イエス様のお言葉に従うようになります。
(3)最後に、適用の視点として
・罪や苦しみの中にある人が、心の安らぎをどこに見出すのか。
・誰も助けられなかった人生に、イエス様だけがもたらすことのできる解放と回復がある。
・救われた者が、どのように主を証しして生きていくか。
これらは、現代に生きる私たちへの直接の問いでもあります。
2025年10月12日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。