素直に読む【ヨハネの黙示録_29】
ヨハネの黙示録22章1-21節
「主イエスよ、きたりませ。」
〈はじめに〉
ヨハネの黙示録21章では、《新しい天と新しい地》、そして《新しいエルサレム》が示されました。そこは、もはや死も涙も悲しみもなく、神さまが人と共に住まわれる完全な御国です。古いものはすべて過ぎ去り、すべてが新しくされた世界が、鮮やかに描かれていました。
そして22章に入ると、その《新しいエルサレム》の中に流れる「いのちの水の川」と「いのちの木」が現れます。これは、創世記でアダムとエバが失った《いのちの木》の回復を意味し、神さまと人との断たれていた関係が永遠に回復されたことを示しています。
22章は、ヨハネの黙示録全体の結びにあたり、「神の国の完成」と「主イエス様の再臨の約束」が語られます。すべての涙がぬぐわれた後に広がる「いのちの川」の光景は、神の栄光に満ちた永遠のいのちの世界そのものです。
ヨハネが見た最後の幻・・・それは、神さまの愛と恵みが永遠に流れ続ける希望のビジョンでした。
〈本文〉
ヨハネの黙示録22章1-5節を読みます。
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
このヨハネの黙示録22章1-5節は、ヨハネの黙示録21章6節の《かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。》の詳しい様子が述べられています。
御使いはヨハネに、水晶のように澄みきった「いのちの水の川」を見せました。その川は、神さまと小羊(キリスト)の御座から流れ出て、都の大通りの中央を通っています。
その川の両側には《いのちの木》があり、十二種類の実を結び、毎月新しい実を実らせます。その木の葉は、諸国の民をいやす力を持っています。
もはや、のろわれるものは何ひとつありません。神さまと小羊の御座が都の中にあり、“神さまのしもべ”たちは、神さまを礼拝します。
彼らは神さまの御顔を仰ぎ見て、額には神の名が記されています。
そこにはもう、夜はありません。灯りも太陽の光も必要ありません。主なる神さまが彼らを照らしてくださるからです。彼らは永遠に神さまと共に支配する者となるのです。
エデンの園から追われた人間は、罪によって《いのちの木》から遠ざけられました。しかし、ここに描かれているのは、「のろい」も「死」も存在しない完全な回復の世界です。
「いのちの水の川」は、神から絶えず流れ出る恵みと命の象徴。
「いのちの木」は、その恵みを受け取る者がもはや枯れることのない存在となることを示しています。
また、《木の葉》が諸国の民をいやすという言葉は、神さまの救いがあらゆる民族に及び、平和といやしが世界を覆うことを意味しています。
私たちは今、まだこの完全な世界を目にしてはいません。ですが、キリストの贖いによって、すでにそのいのちの流れは私たちのうちに始まっています。それは、主イエス様の言葉に通じます。
ヨハネによる福音書4章14節を読みます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
この約束の水を受け取る者は、今すでに「新しい都」の市民として生かされているのです。
ヨハネの黙示録22章6-7節を読みます。
22:6 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
ヨハネの黙示録22章6-7節では、御使いを通してイエス様ご自身の言葉が語られます。その内容は、ヨハネの黙示録の1章3節と7節で語られていたことと重なっており、黙示録全体をもう一度確認させるものです。
ヨハネの黙示録1章3節
1:3 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
ヨハネの黙示録1章7節
1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。
ヨハネの黙示録22章8-9節を読みます。
1:8 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。
1:9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
8節は、ヨハネの黙示録1章1節の内容を思い起こさせます。そのあとに続くヨハネの行為は、黙示録19章10節と同じ光景です。
同じ失敗を繰り返しているようにも見え、ヨハネらしくないと感じるかもしれません。 しかし、それほどまでに彼が見た神さまの栄光は畏れ多く、聖なる威光に満ちており、思わずその場でひれ伏し、礼拝せずにはいられなかった。そのような状況に導かれたのだと言えるでしょう。
ヨハネの黙示録22章10-15節を読みます。
22:10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
22:11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
22:13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
10節でヨハネは、《この書の預言の言葉を封じてはならない。》と命じられています。つまり、この預言の内容は隠しておくものではなく、すべての人に告げ知らせるべきだということです。
なぜなら、《時が近づいているから》です。
終末の時が近づくにつれ、人々の生き方が二つの方向に分かれていくことが示されています。
一方には、義なる者・聖なる者・いのちの木にあずかる者があり、もう一方には、不義な者・汚れた者がいます。
聖書は、不義な者を「犬ども」「まじないをする者」「姦淫を行う者」「人殺し」「偶像を拝む者」「偽りを好み、これを行う者」と表現しています。
そして主なるイエス様は、《わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。》(13節)と語られます。
すなわち、すべてのはじまりと終わりを見通し、万物を創造された永遠に存在される御方が、それぞれの行いに応じて正しい報いを与えると約束されているのです。
今の世界を見渡すと、確かにさまざまな分断や二極化が進んでいるように見えます。
その現実を思うとき、「時が近づいているのではないか」と感じざるを得ません。とはいえ、ヨハネがこの言葉を受けてからすでに二千年の歳月が流れています。
それでも、《最初の者であり、最後の者である。》お方が語られた言葉は、必ず実現します。
だからこそ、私たちはこの神さまの言葉を軽んじることなく、油断せずに備える必要があります。
それは決して、緊張し続けて眠らずに待つということではありません。日々神さまの言葉に耳を傾け、その導きに従って歩もうとすること、つまり、信仰に生きる者として、神さまを愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛する歩みを重ねていくことなのです。
もう一度、ヨハネの黙示録22章14節を読みます。
22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
私たちは、《自分の着物を洗うことが許されている》(ヨハネの黙示録22章14節)ことを感謝しましょう。この「着物の汚れ」は、地上のどんな洗剤でも落とすことはできません。
旧約のエレミヤ書2章22節には、次のような言葉があります。
2:22 たといソーダをもって自ら洗い、また多くの灰汁を用いても、あなたの悪の汚れは、なおわたしの前にある」と/主なる神は言われる。
人間の努力や道徳心では、心の罪や汚れを完全に“きよめ”ることはできません。イエス様の血潮によって私たちは“きよめ”られ、白い衣をいただいたのです。
この恵みを決して忘れず、日々新たに感謝をもって歩みたいと思います。
ヨハネの黙示録22章16-21節を読みます。
22:16 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
22:17 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
22:21 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
8節では、《これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。》とありましたが、16節以降では、イエス様ご自身が証人として語っておられます。
イエス様は、16節で《わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。》とご自身を紹介されます。
これは御使いを通して語られた確かなあかしであり、この啓示が間違いのない神さまの言葉であることの強調とも言えるでしょう。
次に、17節《御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。》とあります。
ここで言う《花嫁》とは、キリストの花嫁である教会、すなわち信じる者たちのことです。
この《「きたりませ」》という祈りは、単にイエス・キリストの再臨だけを願う言葉ではありません。
ヨハネが幻の中で見せられた、神さまのご計画のすべて、封印・ラッパ・龍と獣・怒りの鉢・子羊の婚宴。その全過程を含めて、「神さまの目的が成就しますように」と願う祈りなのです。
そして、御霊と花嫁が《「きたりませ」》と言うとき、神さま聞く者にも同じように命じておられます。
《聞く者も「きたりませ」と言いなさい。》ですが、つまり、「あなたも『きたりませ』と言いなさい。」、ですから、私たち信仰者もまた、この祈りに心を合わせるように招かれているのです。
続く17節で、さらに主は、すべての渇いている者に語られます。
《いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。》
この《価なしに》とは、私たちが何かを支払う必要がないという意味です。なぜなら、その代価は、すでに子羊であるイエス様のいのちによって完全に支払われたからです。
神さまは、「遠慮なく、渇く者は誰でも飲みなさい」と招いておられるのです。
その一方で18節、この預言の言葉を書き加えたり、取り除いたりしてはならないと警告が与えられています。
この黙示録の内容は、神さまご自身が直接語られた“ことば”です。ですから、読む者・聞く者は、ありのままを受けとめ、心に刻むようにと教えられています。
そして、黙示録の結び20節でイエス様はこう言われます。
《「しかり、わたしはすぐに来る」。》
これが、すべての約束を締めくくる主のことばです。
ヨハネはそれに応えて、《アァメン、主イエスよ、きたりませ。》と祈ります。
私たちもまた、この黙示録に記された神のご計画、サタンの敗北、キリストの勝利、新しい天と地、新しいエルサレムの希望を心に抱きながら、同じ思いで祈る者でありたいのです。
《アァメン、主イエスよ、きたりませ。》
〈まとめ〉
今回の章で最も注目すべき言葉は、ヨハネの黙示録22章20節のところです。
22:20a これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。
この主の語りかけに対して、ヨハネはこう応えました。
22:20b アァメン、主イエスよ、きたりませ。
この応答こそが、私たち一人ひとりに問われています。
果たして、私たちは心から《アァメン、主イエスよ、きたりませ。》と言えるでしょうか。
これまで黙示録を通して見てきたように、神さまのご計画は壮大です。
燭台、封印、ラッパ、龍とけもの、怒りの鉢、大淫婦へのさばき、そして子羊の婚宴。
歴史全体を巻き込みながら進む神さまの御業のすべてが、「きたりませ」、すなわち「神の目的が成就しますように」という祈りの中に含まれています。
しかし、そのご計画がすべて成し遂げられるとき、形だけの信仰、名ばかりの信仰は立っていられません。
私たちはこれまで、どこまでも忍耐強く追い求めてくださるイエス様と、それに反して、どこまでもかたくなな人間の心の姿を見せられてきました。
罪の根は深く、私たち信仰者の中にも、肉の思いや自己正当化、疑い、不満、落胆、迷い、恐れ、不安、さまざまな形で顔を出します。
それでもなお、神さまは私たちを見放さず、招き続けておられるのです。
だからこそ、今問われているのは、そのすべての現実の中でなお、《アァメン、主イエスよ、きたりませ。》神さまの御心がすべて成りますように、と告白できる信仰です。
詩篇31篇5節には、ダビデの祈りがあります。
31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。
苦しみのただ中で、ダビデは恐れではなく信頼を選びました。私たちも同じように、すべてをご支配しておられる神さまに信頼し、委ねたいと思います。
そして、心からこう祈りましょう。《アァメン、主イエスよ、きたりませ。》
神さまのご計画がすべて成り、主の栄光があらわれますように。
2025年10月17日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_29】
タイトル:「主イエスよ、きたりませ。」
牧師:香川尚徳