ショートメッセージ【マルコの福音書3章_1】
マルコによる福音書3章1-6節
(安息日における癒し)
1、片手のなえた人 ― 人々の意図
2、イエス様の問いと癒し ― かたくなな心への嘆き
3、律法学者たちの殺意 ― 敵対する者たちの結託
4、自己の義を捨て、神さまの憐れみを優先する心を持つこと
マルコによる福音書2章で、主イエス・キリストが安息日の主であり、罪を赦す権威をお持ちであることを学びました。律法学者やパリサイ人たちが、イエス様の行動を厳しく咎める中で、イエス様は《「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。》(2章27-28節)と明確に宣言されました。今回から学ぶ3章は、この対立がさらに深まり、イエス様が神の国をどのように確立し、ご自身の家族を形成されるのかというテーマが展開されます。
1、片手のなえた人-人々の意図
マルコによる福音書3章1-2節を読みます。
3:1 イエスがまた会堂にはいられると、そこに片手のなえた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやされるかどうかをうかがっていた。
再びイエス様は会堂に入られました。1章21節では、悪霊に取りつかれた人からの解放によって人々を驚かせたカペナウムの会堂です。
しかし今回は、そこにいた《片手のなえた人》を人々が《安息日にその人をいやされるかどうかをうかがって》いました。
この《人々》とは、話を読み進めればパリサイ人たちのことを指しています。彼らはイエス様を訴えようと、イエス様の行動を監視していたのです。これは、彼らの心が憐れみではなく、律法の解釈という枠組みの中で、イエス様を裁くことに向かっていたことを示しています。
2、イエス様の問いと癒し-かたくなな心への嘆き
マルコによる福音書3章3-5節を読みます。
3:3 すると、イエスは片手のなえたその人に、「立って、中へ出てきなさい」と言い、
3:4 人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。
イエス様は《片手のなえた人》に《「立って、中へ出てきなさい」》と命じ、集まっていた人々に問いかけました。《「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」》。彼らはこの問いに対して沈黙しました。イエス様は《「怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて」》、片手のなえた人に手を伸ばすように命じると、その手は元どおりになりました。
モーセの律法の本来の命令は、安息日は「働いてはならない」という厳しい戒めがあり、神さまが天地を六日で創造し、七日目に休まれたことに倣い、イスラエルの民も七日目を休息日として聖なるものとすることが命じられていました。具体的には、火を焚くことや荷物を運ぶことなどが禁じられていました。
しかし、この「労働」が具体的に何を指すのか、律法では詳細に書かれていませんでした。
そのため、後の時代になり、パリサイ派の人々のようなユダヤ教の指導者たちは、何をもって労働とみなすかを詳細に解釈し始め、多くの「言い伝え」や「口伝律法」を作り上げていきました。これらは「ミドラシュ」や「タルムード」といった形でまとめられ、律法を日常生活に適用するための細かい規定となりました。
例えば、マルコによる福音書2章23節からの出来事の弟子たちが麦畑で穂を摘んで食べた行為は、律法そのものでは飢えを満たすための行為として許されていたものの(申命記23章25節)、パリサイ人たちはこれを「刈り取り」や「脱穀」といった労働とみなし、安息日の言い伝えに違反しているとして責めました。
特に病気や怪我の治療に関して、これらの後世の解釈では、「命に別条がなければ、治療してはいけない」という規定が設けられるようになりました。つまり、生命の危機を伴わない病気の治療は、安息日に行うべきではない「労働」と見なされ、禁じられていたのです。
マルコによる福音書3章に出てくる、片手の萎えた人の癒しの場面では、人々(特にパリサイ人たち)は、イエス様が安息日にその人を癒すかどうかを注意深くうかがっていました。これは、命に関わらない病気の治療が安息日の労働とみなされ禁じられていたという、当時のユダヤ教の慣習に基づいています。
このように、イエス様の時代には、元々の律法の精神に加え、ユダヤ教の指導者たちが作り上げた詳細な口伝律法や解釈があり、それによって安息日の行動、特に病気の治療が厳しく制限されていた、という背景があります。
3、律法学者たちの殺意 - 敵対する者たちの結託
マルコによる福音書3章6節を読みます。
3:6 パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた。
この《片手のなえた人》の癒しの後、パリサイ人たちは会堂を出ると《すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた》。
ヘロデ党はユダヤ教の一派というより、ローマの支配下でヘロデ王朝を支持する政治的団体でした。パリサイ派は反ローマ的でしたが、政治力を持たないため、敵対するヘロデ党と手を組んでイエス様を排除しようとしたのです。
彼らがそこまで頑なになった問題、つまり彼らの罪は「自分たちが正しいとすること」にありました。この自己の義の心は、カインが弟アベルを殺した罪の時から始まっていると説明されています。自分自身の基準で正しいと信じる高慢な心は、神さまの働きを拒絶し、遂には殺意へと発展してしまうのです。
4、自己の義を捨て、神さまの憐れみを優先する心を持つこと
捕囚前のイスラエルは神さまの律法を守らず裁きを受けましたが、神さまの憐れみによりペルシャ王クロスがバビロンを滅ぼし、イスラエルの民は捕囚から解放されて第二神殿の再建を許され、それ以降は律法を重んじるようになりました。
しかし、当時のパリサイ人を含め指導者たちは、自分たちの定めた律法の解釈に固執し、イエス様の憐れみに満ちた癒しの行為を「罪」と断罪し、ついには殺意を抱くまでに心を頑なにしてしまいました。
私たちも、時に自分自身の経験や知識、教会や伝統の「こうあるべき」という枠組みに囚われ、神さまの新しい働きや、他者への憐れみを疎かにしてしまう危険性があります。本当に大切なのは、律法の字面を守ること以上に、神さまの御心である「善を行い、命を救う」ことです。形式的な信仰に陥らず、常に神さまの御心と憐れみに心を向け、柔らかな心で他者の必要に応える者でありたいと願います。
2026年2月22日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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