ショートメッセージ【全き人ノア】

創世記6章6節-9章28節
 前回、神さまのみこころを求めて信仰によって歩んでいた人々が、神さまから目をそらせて、自分の思いで歩み始めたのを見ました。アダムから引き継いだ罪を持つままで、神さまのおことばに聞かない歩みは、1つの罪が罪を呼び、悪がはびこる結果を生みました。

 そこで、神さまは、《「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。》と、決心をされます。それがノアの洪水です。過去の歴史においてこのような大洪水が実際にあったかどうか、その議論は未だ尽きないようです。しかし、世界各地からの厚い粘土層の発見は、世界規模の大洪水が起こった有力な根拠となっています。

 前回、創世記5章のアダムの系図のところで、エノクが例外であった話をしましたが、実は、ノアも特別です。
 創世記5:32《ノアは五百歳になって、セム、ハム、ヤペテを生んだ。》とありますが、ここには、他の人たちのように「そして彼は死んだ。」という記載がありません。ノアは死ななかったのではなくて、神さまへの信仰による特別な働きがありました。その働きを終え、しばらく経ったあと、9章29節に《そして彼は死んだ。》と出てきます。
創世記9:28-29
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。
9:29 ノアの全生涯は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 創世記6章9節からこの9章28節までの間に、ノアと洪水について記しています。
 本日も3つに分けてお話しします。

1、神さまの苦悩/罪のインパクトの大きさ
創世記6:6-7
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

創世記 6:13
6:13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

 前回もお話ししましたが、6章6-7節の神さまが悔いているのは、痛みを覚えて悲しむという意味です。そして7節、また、13節で神さまは、人をぬぐいさろう、人を絶やそうと決心されています。この決心は、人の悪が地にはびこり暴虐で満ちている様子を見てのことで、その原因は人の罪でした。

 国家の秩序が、現代のように整備されておらず、罪があるままで神さまの言葉に従わない人の肉の欲は限りなく、ドミノ倒しのように悪がはびこり、もはや神さまによっても回復不能となってしまったということでしょう。

 神さまが、はじめに造られた世界は、創世記1:31にあるように、はなはだ、非常に良かったのです。
創世記1:31《神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。》

 しかし、このとき神さまが目にしていた光景は、《はなはだ良かった》世界が、人のもたらした罪によって、悪と暴虐に満ちていくありさまでした。

 神さまは、エノクを信仰者の歩みの希望とし世の光としました。しかし、その光にならって歩んだのがノアとノアの家族だけでした。ノアが舟を完成させるまでの間、それを目にしていた人たちの中からも神さまに立ち返って、箱舟に乗ろうとした人は1人もいなかったのです。
 神さまは、もはや滅ぼすしかなかったのです。
 それは、人の罪のために地の生き物がすべて巻き添えになるほどでした。それは、神さまの創造のみわざの中で、人は重要な存在として造られたと言えます。そもそも洪水を起こすことは、創造のはじめに空を創って分けられた水を元に戻すことになります。それは、はじめの混沌とした状態にもどすことでした。
 神さまの苦悩、痛みと悲しみの理由がここにあります。
 私たちは、人の罪による神さまの苦悩、そして、聖である神さまが、人ではなく、「人の罪」を憎まれているということをしっかり学びとる必要があります。

2、ノアの歩み/信仰の歩みとは
 新約聖書のヘブル人への手紙11章7節にノアのことが書かれています。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

 その時代ノアは、人々が、自分の思いを満たすための欲に走る中にいました。しかし、ノアはそのような人々を見ず、また、影響されずに神さまを見て歩みました。人々が町を築き、文化を誇り讃えていたのでしょう。また、《すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかり(6:5)》《時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。(6:11)》と書いていますから、弱い人・困難にある人たちに気を配り、助けるようなことは無かったのではないでしょうか。
 そのような中でも、ノアは、神さまのお言葉に聞き従って歩みました。

 聖書には、ノアの時代まで「雨」に関する記述はなく、ノアを含め、当時の時代の人たちは、「洪水」、さらに「雨」を見たことがなかったと言えます。しかし、神さまが言われたこと、《わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。(6:17)》という言葉をノアとノアの家族だけは信じました。
 神さまが言われたことは必ず実現することを疑いませんでした。
 ((創世記2:5-6)地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。(創世記2:5-6))

 そしてノアは、神さまが言われたことに素直に従いました。「なぜ」、「どうしてですか」と聞き返したり、「そんなのできませんよ」とつぶやいたりしませんでした。
 神さまには神さまのご計画があり、神さまの摂理(やり方やご計画、万物の法則)があり、それが自分にとっても最善であること。また、自分にできないと思っても必ず神さまがそれを成してくださる、助けてくださる神さまに不可能はないとノアは信じ、受け入れていました。

 舟の大きさ(長さ132m=大きな観覧車の直径で100m、幅22m、高さ13m=3-4階)、構造にかかわる細かな注文、経験のないものには想像もつかないような作業だったでしょう。生き物たちを集め、その餌を用意し、舟に乗せる・・・。考えただけでも気の遠くなる大変な作業です。しかし、不平を言わず働きをするノアに、神さまは必要なすべてを与え、また必要な助けをされました。

 人々や世の風潮に影響されずに、神さまを仰ぎ見て歩むこと、神さまの約束は必ず実現し、神さまのご計画だけが進んでいくこと、それが自分にとっての最善であると信じること、必要なものや必要な助けは必ず神さまが与えてくださることを信じて歩むこと。
 これが神さまと共に歩んだノアの信仰の歩みでした。神さまは、ただ人を絶やす、まったくリセットするというのではなく、はじめに造られた人に愛着をもち、その人を再生したいと思われていました。そのためにノアを用いられたのです。

 ノアは、素晴らしい信仰の歩みをしましたが、神さまは、ノアが神さまを信頼し、その信仰の歩みを守られたということもあったでしょう。聖書には一貫して、神さまに向いて歩もうとする人を神さまが、滅ぼさずに残りの者として守ることを記しています。
 モーセはイスラエルの民へ、ノアのように信じて歩まなければ、エジプトでの奴隷からの解放、荒野の旅、そして、約束の地カナンへ入ることは出来ない事を伝えたかったのでしょう。

3、ノアの失態/全き人とは
創世記7:21-22
7:21 地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。
7:22 すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。

 この洪水のような特別な出来事によってもまた、そうではなくても、罪のもたらす結果はいずれにしても死であるとあらためて思わされます。

創世記8:20-21
8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
8:21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

 水が引き、地に降り立ったノアが最初にしたことは、主を恐れ、救いの感謝をもって神さまに礼拝を献げることでした。ノアといっしょに舟に乗った清い動物が7つずつ(7:2)であったのは、この礼拝のための犠牲であったことが分かります。
 ノアは、衣・食・住にかかわることよりも先に、神さまへの感謝と礼拝を優先しています。
 神さまを第一とするときに、生活の問題は神さまが解決してくださるという大原則がここに示されています。

 《わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。》の神さまのお言葉は、洪水によって滅ぼすしかなかった人と生き物に対する痛みと悲しみの故、また、ノアとその家族への期待の故と言えるでしょう。

 しかし、しかしです。
創世記9:20-23
9:20 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、
9:21 彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
9:23 セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。

 ここで、登場するハム、セム、ヤペテはノアの子供たちです。
 これは、神と共に歩む信仰者と言われたノアの失態の記事です。聖書はこのようなことも隠さず記しています。

創世記 6:9
ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 ノアは「正しく、全き人」と言われていました。でもこの失態は、どういうことでしょう。

 正しく、全き人とは、人の心が全面的に正しい方向、神さまのほうに向けられている状態です。自分の思いではなく、神さまのお言葉にしたがい、神さまのお心を成しているときに人は、正しく、全き人、神と共に歩む信仰者となれるということなのでしょう。
完全、完璧な人はいません。そして、私たちは誰しもが罪をもって生まれてきます。

 創世記8:21《…人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。…》と言われるとおりです。
神さまへ、心が向かない人々がつくる世は、どうしても罪が満ちてしまいます。その影響を誰もが受けてしまいます。しかし、神さまを見上げて神さまの方向に向く時に、神さまは私たちを「正しく、全き人」として導いてくださいます。

 セムとヤペテとは着物を取って、父の醜態に後ろ向きとなり、父を見ずに神さまを仰ぎ見ながら父に近づきました。父親の権威を尊重したその2人を神さまが祝福されました。

 それが神さまの摂理(やり方やご計画、万物の法則)のうちにある秩序だからです。

 世の中には、完璧な人はいません。誰しも完璧であろうとしますが成れません。私たちは、他人を見て、他人と比較して、他者を恐れて、神さまから離れてしまいやすい弱い者です。

 少し、神さまへ関心を向けると、神さまの方へ向きが変わります。そうすると聖書の書いていることが徐々に解ってきます。
 神さまは人を愛いていること、そして、自分自身が神さまの愛の対象なんだという事を実感します。神さまは、「正しく、全き人」として、私たちを愛し、その御手の守りをもって私たちを導いてくださいます。

2022年1月30日(日)

メッセンジャー:香川尚徳師

サイモン・ド・マイル 「アララト山に到着したノアの方舟」 (1570)