素直に読む【ヨハネの黙示録_23】
ヨハネの黙示録16章1-21節
「事はすでに成った」
〈はじめに〉
16章で神さまは、何とかして1人でも救いをという愛とあわれみの御心を閉じられます。そして完全な義であり、聖であるお方として立たれます。7つの鉢が傾けられることで神さまの徹底した”さばき”が示されていきます。
〈本文〉
ヨハネの黙示録16章1節を読みます。
16:1 それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。
前回15章で、神さまの怒りが満ちた7つの金の鉢、つまり災いを1つずつ携えた7人の御使いの幻をヨハネは見ていました。そして、16章のはじめに、いよいよその鉢を地に傾けるようにとの大きな声がかかります。
ヨハネの黙示録16章2-7節を読みます。
16:2 そして、第一の者が出て行って、その鉢を地に傾けた。すると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた。
16:3 第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。
16:4 第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。
16:5 それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。
16:6 聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。
16:7 わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。
16章2節、第1の鉢が傾けられると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々全員のからだに、ひどい悪性のでき物ができます。これまでのように3分の1とかではありません。神さまの“さばき”が、手加減なく完全に全うされていきます。
16章3節、第2の鉢が海に傾くと、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまいます。自然界への災いです。海からの食糧は断たれ、また、海全体から来る耐えがたい悪臭が苦痛を与えることになります。
16章4節、第3の鉢が傾けられると、川と水源の水が血に変わります。生きていくのには、無くてはならない水が飲めなくなります。これも地にいる全員に、たちまち影響を与えるものです。
16章5-6節、水は血に変わり、水を守る役割を神さまから解かれたであろう御使いが告白します。正しい”さばき”をされる神さまを褒めたたえています。
16章7節、そして祭壇からも神さまの正しい”さばき”をたたえる声が聞こえてきます。
この声の主は、御使いたちか、長老たちか、または、ケルビムと思われる4つの生き物か、もしくは、6章で見た、祭壇の下の殉教した人々の霊だったかもしれません。内容からは神さまの正しい“さばき”の全うされることを望んでいた殉教者たちの声だったように思われます。
ヨハネの黙示録16章8-16節を読みます。
16:8 第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
16:9 人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
16:10 第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、
16:11 その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
16:12 第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。
16:13 また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
16:14 これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。
16:15 (見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)
16:16 三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。
16章8-9節、第4の鉢が傾けられると、太陽が異常な高温になって、人々が炎熱によって焼かれる状態となり、もはや陽を避けずには生きられなくなります。
地球の平均気温がたった4℃上がるだけでも、多くの生き物が絶滅し、食べ物が不足するほど深刻な影響が出ると言われています。そう考えると、もし太陽が今よりもっと熱くなり、その熱に地球が耐えられなくなったとしたら、地球の環境はすぐに壊れてしまうだろうと想像できます。
16章10-11節、第5の鉢は、悪と汚れの巣となっている獣の座に向けて傾けられました。
その”さばき”は、暗闇をもたらすものでした。よく考えると、全くあかりのない世界というのは、恐ろしいほどの苦痛ではないかと思われます。
不思議です。ここまで、明確な神さまの力を見ても、この地にいる人々はその不信仰を悔いるどころか、《天の神をのろった。》と言います。
16章12-16節、第6の鉢が傾けられると、大ユウフラテ川が一瞬にして干上がり、国々が神さまに戦争を仕掛けるための道が整えられます。これがハルマゲドンの戦いへと続きます。
《ハルマゲドン》は、ヘブル語で“メギドの丘”という意味になります。“メギドの丘”は、イスラエルのガリラヤ湖の西南、地中海との間に実際に位置します。ここで最後の戦いである《ハルマゲドン》が起こると考える人が多いのです。しかし、“メギド”という言葉には“虐殺”という意味がありますから、単に、“虐殺の丘”という意味を伝えているとすれば、実際にイスラエルの“メギドの丘”で戦いが起こるかどうかは、わかりません。
13-16節でサタンが総動員をかけます。龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から“かえる”のような3つの汚れた霊が形となって出たと言います。
これらの霊は、人々を魅惑する“しるし”を行うことができる悪の霊でした。そして、人々の心を惑わして、神さまを敵として全面戦争を起こすように導いて、ハルマゲドンに加わるように仕向けてくるのです。しかし、結果は、次の第7の鉢が傾けられることによって、神さまの一方的な勝利に終わります。
ヨハネの黙示録16章17-21節を読みます。
16:17 第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。
16:18 すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
16:19 大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
16:20 島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。
16:21 また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が、非常に大きかったからである。
16章17節、最後の第7の鉢が傾けられると聖所の中から大きな声が、《「事はすでに成った」》と言います。神さまが計画されたことがすべて成し遂げられ、完了したと叫んだのです。この声の主も不明です。御使い、長老、4つの獣、祭壇の下の殉教者らの合わさった声だったのかもしれません。
この《「事はすでに成った」》とは、ここの箇所以降、黙示録の最後22章までの内容がすでに成った、成就したという事です。
16章18節、そして、その始まりが、天地を揺るがす、人類史上かつて経験しなかった、最大規模の災害です。いなずま、雷鳴、激しい地震、島が沈むか、移動するかして見えなくなり、山が崩れて形がなくなります。そして約30㎏もある雹が降れば、もはや逃れる場所がどこにもないことが示されているのでしょう。
これこそが、神さまの激しい怒りの杯です。信仰を練り聖めるための試練などではありません。神さまの怒りに満ちた”さばき”なのです。しかし、地上に残された人々はそれでも悔い改めるどころか、ますます神さまを呪うのです。
〈まとめ〉
16章では、神さまの御心に不適切な者をすべて滅ぼす”さばき”が始まりました。確かに、7つの鉢による災いは、地にいるすべての者に及んでいきます。しかし、もはや滅ぼすだけであるのに、7つの鉢にわざわざ災いを分けられたのはどういうことでしょうか。
これは神さまのご計画が、最初から計画されていたとおりに一分の狂いもなくすべてが実現したことを示すためであったのでしょう。
7つの鉢の”さばき”の中では、どの段階においても、悔い改める者は1人もいませんでした。これこそ神さまのご計画の完全さ、緻密さを現わしているのではないでしょうか。
つまり、神さまは、この終末における”さばき”を通して、救うべき者を一人残らず救い、最後にもう少し時間をあげればよかったと思える者は一人も残さずに、”さばき”を終えられたのです。
ヨハネが見た幻を通して、神さまのご計画は少しの無駄も狂いもなく完璧であるということを私たちに見せてくださっています。人の目に正しく見える道よりも、その時は理解できなくとも、神さまのみ心に従う道を選ぶようにと私たちに示しているのです。
ここで、士師記21章25節を読みます。
21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。
これは士師記で繰り返し語られているお言葉です。
しかし今、私たちには、イエス様という新しい国の王がいてくださいます。人の目に正しいと見えるところにではなく、イエス様に従って歩む道こそが正しい道なのです。
神さまは、最終的な“さばき”を、7つの鉢に分けて私たちに見せておられます。これは罪を憎む神さまの徹底した怒りの恐ろしさを私たちが、目に焼き付けて、信仰に歩むようにとの導きなのです。
大牧者であるイエス様の御手の中から、飛び出して行く羊にはならないようにとの戒めでもあります。私たちは、弱い羊であることを覚えて、常に罪から離れる必要があることを心に留める必要があります。このヨハネが見た幻、この光景をよく覚えて、主の御心の内を、御手の羊として歩んで参りましょう。
2025年4月18日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_23】
タイトル:「事はすでに成った」
牧師:香川尚徳