ショートメッセージ【ペテロ】
ルカによる福音書5章1-5節
マタイによる福音書16章13-20節
ヨハネによる福音書21章15-17節
使徒行伝4章5-12節、他
(素直に従って歩んだ人 ― 信仰者のお手本)
1、ペテロの素直さ
2、素直さによる失敗
3、復活のイエス様の励ましと聖霊に素直に従って
1、ペテロの素直さ
ルカによる福音書5章1-5節を読みます。
5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
5:2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
5:3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
5:4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5:5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
ここで「シモン」と呼ばれているのは、「ペテロ」です。群衆が押し寄せてきたということは、おそらく朝や昼など、人々が普通に集まれる時間帯だったのでしょう。深夜や早朝ではなかったことがうかがえます。
ちなみに、今もゲネサレ湖(ガリラヤ湖)では、昔ながらの方法で漁が行われているそうです。2人1組で夕方から夜通し、明け方まで漁をするのが一般的です。つまり、魚をとるには夜の時間帯が適しているのです。
そう考えると、イエス様がペテロに《「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」》と言ったのは、漁師としては「まったく魚がとれない時間」だったということです。プロの目から見れば、「そんな時間に網をおろしても意味がない」と思うのが当然でした。
しかもペテロ自身、《「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。》と言っています。つまり、一晩中頑張って漁をした直後だったのです。イエス様の提案は、疲れきった漁師にとっては、経験にも常識にも反するような話で、「そんなの無理ですよ」と笑い飛ばしたくなるようなことでした。
でも、ペテロはどうしたでしょうか。《しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。》と言って、素直にイエス様の言葉に従ったのです。ここには、イエス様とその言葉に対する信頼と、柔らかい心が表れています。
その結果どうなったかというと、続くルカによる福音書5章6-11節にあるように、網が破れそうになるほどの大漁で、2そうの舟が沈みそうになるほど魚がとれました。
ルカによる福音書5章6-11節
5:6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
5:9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
5:11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
この驚くべき出来事に、シモン・ペテロはイエス様の前にひれ伏し、《「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。》と言いました。
これは、単に“びっくりした”ということではありません。自分の知識や経験では、とても説明できない出来事に、イエス様の力、神さまの力を感じ、深い畏れ(おそれ)と敬意を抱いたのです。
ペテロは、この出来事を自分の考えで無理に納得しようとはしませんでした。また、「こんなこともあるさ」と軽く流したり、「たまたまだよ」として自分のプライドを守ろうとすることもありませんでした。むしろ、人間の知恵を超えたイエス様の力を心から認め、素直に受け入れたのです。そしてその心から、《わたしから離れてください。》という言葉が出てきたのでしょう。
その後、イエス様が《「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。》とおっしゃると、ペテロはすべてを捨ててイエス様に従っていきました。自分のこれまでの経験や理屈にこだわらず、イエス様が神の御方であることを信じ、その言葉に信頼し、素直に従う。それがこのときのペテロの姿だったのです。
2、素直さによる失敗
マタイによる福音書16章15-18節を読みます。
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
イエス様は、今お読みした16章15節で《…、あなたがたはわたしをだれと言うか》と尋ねられました。そのときペテロは、ためらうことなく《「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。》と答えます。ペテロは、日々イエス様と共に過ごす中で、神さまが与えてくださる導きや思いを素直に受け入れ、イエス様こそが旧約聖書で預言されていた救い主であると気づいたのです。
イエス様はその信仰を喜ばれ、ペテロに《「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。》と語り、さらに《あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。》と約束されました。これは、ペテロという人物そのものを土台にするという意味ではなく、ペテロの《「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。》という信仰告白が大切なのだということです。つまり、神さまからの導きを信じ、素直に従おうとするその信仰の姿勢こそ、私たちが見習うべきものなのです。
ところが、そのすぐ後の場面では、ペテロがイエス様からきびしく注意を受けてしまいます。
マタイによる福音書16章21-23節です。
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
イエス様は、自分がこれからエルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活することを弟子たちに話し始められました。するとペテロは、イエス様を引き寄せ、いさめはじめ、《「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」》と止めようとします。
そのときイエス様は、《「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。》とペテロを厳しく戒められました。ここでもペテロは正直な思いを口にしているのですが、それは神さまのご計画を理解してのものではなく、自分の感情や人間的な思いに基づくものでした。「こんなことが起きてほしくない」というペテロの気持ちは自然なことですが、神さまの視点ではなく人間の視点から発せられたものであり、結果的にはイエス様の十字架への道を妨げる言動になってしまったのです。
さらに、ヨハネによる福音書13章37-38節では、ペテロがイエス様に《…あなたのためには、命も捨てます」。》と語る場面があります。 しかしイエス様は、《鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。》と答えられました。そして実際にその通り、ペテロはイエス様のことを三度も「知らない」と否定してしまいます。
13:37 ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。
13:38 イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。
このときのペテロも、やはり“人のことを思っていた”状態であり、“自分の思いを優先した”状態でした。つまり、神さまに信頼するよりも、自分の考えや経験、恐れに支配されていたのです。人々の目や言葉が気になり、命の危険を恐れてしまった結果、自分の大切な主であるイエス様を否定する言葉を口にしてしまったのです。
ペテロは、イエス様にほめられるような信仰の告白をする一方で、自分の弱さから失敗もしてしまいました。それでもイエス様は彼を見捨てず、信仰者として成長させてくださいました。ペテロの姿を通して、神さまの導きに素直に従うことの大切さ、そして弱さの中でも赦されてなお用いられる恵みが示されています。
3、復活のイエス様の励ましと聖霊に素直に従って
ヨハネによる福音書21章15-17節を読みます。
21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
イエス様は、弟子たちと朝食を共にされました。これは、これから天に戻られた後も、「わたしはいつもあなたたちと共にいるよ。日々の生活の中にも深く関わっているよ」と弟子たちに伝え、励ましておられたのです。
その朝食のあと、イエス様はペテロに声をかけられます。ペテロはかつて、イエス様のことを三度も「知らない」と否定し、弟子としては最もつらい失敗を経験していました。そんな彼に、イエス様は《わたしを愛するか》とたずねられたのです。
でもペテロには、イエス様のような大きな愛に応えるだけの愛が、自分にはないと分かっていました。だから苦しい気持ちでこう答えます。《「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。》
イエス様はその言葉に対して、同じ質問を何度も繰り返されました。それはペテロを責めているのではなく、彼の心の中にある小さな信仰をもう一度見つけ出して、引き上げようとしておられるのです。
「ペテロ、あなたがあの時失敗したことは分かっている。でも、人間には弱さがあるものだ。あなたに、もう信仰がないとはわたしは思っていないよ。わたしを愛したい、わたしに従いたいという思いがある限り、それが信仰なんだ。だから、自分の弱さばかりを見て、自分の信仰を否定してはいけない。あなたには十分な信仰があるよ」と、イエス様は、そんな思いでペテロに語りかけておられたのです。
そして最後にイエス様はこう言われます。「わたしは今でもあなたを信頼しているし、受け入れている。だからもう一度、あなたに使命を託す。わたしの羊たちを養いなさい。そして、わたしに従いなさい。あなたは今も変わらず、わたしの弟子であり、弟子たちのリーダーなのだから。」
このようにしてイエス様は、失敗して傷ついていたペテロをやさしく立ち上がらせ、励まされたのです。そしてその後、ご聖霊を受けたペテロがどれほど力強く変えられていったかは、私たちも知るとおりです。
こうしてイエスさまに励まされ、その後、ご聖霊を受けたペテロを見てみましょう。
使徒行伝4章5-12節です。
4:5 明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。
4:6 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
使徒行伝4章6節を見ますと《大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。》とあります。これは当時、宗教的にも政治的にも最も大きな権力をもつ人々が、一堂に会して使徒たちを厳しく問いただそうとしている場面です。考えられる限り最大の圧力が、ペテロたちに向けられていたのです。
そんな中でペテロは、「イエス・キリスト以外に救いはない」(4章12節)とはっきりと語っています。この言葉から、彼がイエス様こそ唯一の救い主であるという確信をしっかり持っていたことがわかります。また、目の前にいる頑なな宗教指導者たちに対しても、誰かがイエス様を信じるかもしれないという希望をもって語っていたことがうかがえます。それは、彼が聖霊に満たされていたからです(4章8節)。
ご聖霊は、人の心を無理やり動かすような存在ではありません。ペテロ自身がご聖霊に心を開き、信頼し、素直に受け入れていたからこそ、ご聖霊は彼のうちに満ちて、力強く働くことができたのです。ペテロは、「ご聖霊の思いのままに導かれたい」「従いたい」と願い、自分の意思でその導きに従おうとしていました。だからこそ、どれほど大きな権力に囲まれても、ひるむことなく、力強く証しをすることができたのです。
ペテロのこの“素直さ”は、私たち信仰者が見習うべき姿です。私たちもまた、イエス様とその言葉、ご聖霊、そして神さまが心に与えてくださる導きに信頼し、素直に受け入れて歩んでいきたいものです。
ただし、気をつけなければならないことがあります。それは、「神さまのことではなく、人のことを思ってしまう」ことです。自分の知恵や経験、自分の力に頼る思い・・・つまり“肉の思い”に対しては、素直であってはいけません。そのような思いに流されそうになるときこそ、ご聖霊に助けを求め、立ち向かう必要があります。
4章12節《この人による以外に救はない。》(この人=イエス様)と、私たちもペテロと同じ信仰に立ちましょう。そして、聖霊なる神さまの導きに、最後まで従っていこうという意志を持ち続けましょう。たとえ私たちが弱さを抱えていても、神さまはそれぞれに与えられた賜物を最大限に引き出し、必ずご自身の働きのために用いてくださいます。
2025年9月7日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。