ショートメッセージ【ニコデモ】
ヨハネによる福音書3章1-10節
ヨハネによる福音書7章50-51節
ヨハネによる福音書19章38-40節
(弟子であることを隠していた人)
1、疑問を持つニコデモ
2、「どうして」と聞くニコデモ
3、用いられたニコデモ
1、疑問を持つニコデモ
ヨハネによる福音書3章1-2節を読みます。
3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
パリサイ人は、当時、ユダヤの最高議会の構成員でした。今でいう“〇〇党”のようなものです。彼らは、モーセの律法を厳格に守ることを大切にしていた人々です。
しかし、彼らの多くは、律法を守ることで自分たちは神さまに近いと思い込み、それに満足してしまい、心が本当に神さまに向いてはいませんでした。
さらに、自分たちは特別な存在だという誇りを持ち、その特権が脅かされるのを恐れて、イエス様の言動に反発し、敵対心を抱くようになっていました。
そんな中で、ニコデモは他のパリサイ人とは違って、神さまに心を向けていた人物でした。
イエス様が行われた奇跡(しるし)を見て、「この方は神から遣わされたに違いない」と感じていたのです。
それでもまだ、イエス様の言葉を全面的に信じて受け入れるには至っていませんでした。
ニコデモは、おそらく律法を守っている自分たちの信仰のあり方に、何かしら疑問を感じていたのでしょう。「本当にこれでいいのだろうか?」「このままで神の国に入ることができるのだろうか?」
そんな思いを抱えながら、夜、イエス様のもとを訪れたのです。
ニコデモが心の中に持っていた疑問は、次のようなことだったと考えられます。
彼はユダヤ人として神さまに選ばれた民であり、パリサイ人として律法を守り、さらにユダヤ人社会の指導者でもありました。しかし、果たしてそれだけで本当に神の国に入ることができ、永遠のいのちにあずかることができるのか。そのことに不安や疑問を感じていたのだと思われます。
イエス様は、そのニコデモの心の内をすでにご存じでした。
そして、彼が言葉に出す前から、その疑問に対する答えを語り始められたのです。
次に、イエス様が語られたことと、それに対するニコデモの反応を見ていきましょう。
2、「どうして」と聞くニコデモ
ヨハネによる福音書3章3-4節を読みます。
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
ここでイエス様は、ニコデモに対してこう語られました。
《「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。》と。
つまり、神さまによって、もとの神のかたちに造り変えられる「新しいいのち」が必要だと伝えられたのです。
この《新しく生れ》るということは、ただ外見が変わるという意味ではありません。
それは、神さまの前に心を悔い改め、イエス・キリストによって罪を赦され、神さまとの正しい関係を回復する「霊的な再創造」のことを指しています。
実際、バプテスマのヨハネも、人々に悔い改めを呼びかけ、こうした新しい歩みを備えるように導いてきました。
しかし、これを聞いたニコデモの答えは、イエス様の言葉の本質を理解しているとは言えませんでした。
彼は、《「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。》と、まるで文字どおりに受けとめたような返答をします。
つまり、イエス様が語られた「霊的な新生(あたらしい誕生)」を、ニコデモはまだ“肉の考え”、つまり人間の理屈で捉えようとしていたのです。
そこでイエス様は、《新しく生れなければ、神の国を見ることはできない》という言葉の意味を、さらに具体的に説明されます。
ヨハネによる福音書3章5-6節です。
3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
ここでイエス様が言われた「水から生まれる」というのは、心を悔い改め、バプテスマ(洗礼)を通して神さまへ向き直ることを意味しています。
その悔い改めと信仰によって、イエス様の十字架による罪の赦しを受けることができるのです。
また、《霊から生れる》というのは、罪が赦された人のうちに、ご聖霊(神の霊)が内住されるようになり、その人の内側から新しい命が始まることを指しています。
これは、自分の努力や行いによってではなく、神の霊による新しい働きであり、《水と霊とから生れ》るとはその両方のことを意味しているのです。
イエス様はさらに、たとえを用いて説明を続けられます。
ヨハネによる福音書3章7-8節です。
3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
このたとえでイエス様は、「風」を使って霊的なことを説明されています。
風は目には見えませんが、その音や動きを感じることで、そこにあると分かります。
それと同じように、「霊による新しい命」も目に見えるわけではありませんが、確かに存在し、力強く働いているのです。
「だから、見えないからといって信じないのではなく、神さまの言葉をそのまま信じて受け入れなさい」と、イエス様はニコデモに語っておられるのです。
私たちが使っているスマートフォンを考えてみましょう。
多くの人は、どのように音や映像が遠くまで届くのか、どのようなメカニズムで遠くの人の声や映像が届くのか仕組みをすぐに説明できるという人は少ないでしょう。多くの人は、正確に説明することができません。
それと同じように、イエス様は「霊的なことも、まずは受け入れて信じることが大切なのだ」と教えておられるのです。
ヨハネによる福音書3章9節を読みます。
3:9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
ニコデモは、この時点でもまだ納得できておらず、《「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。》と問い続けます。
この《どうして》という言葉は、ヨハネによる福音書3章4節でも同じように繰り返されており、彼の中で信じることへの葛藤が続いていたことが分かります。
しかも、その《どうして》と問いかけていた相手は、まさに神の子であるイエス様ご自身、つまり神さまなのです。
神さまの言葉を素直に信じきれずに、「理屈で納得しないと受け入れられない」という姿勢は、祭司ザカリヤが天使の言葉を信じなかった時と同じです。
ザカリヤは不信仰ゆえに罰を受けました。しかし、イエス様はニコデモを罰することなく、むしろ忍耐をもって、彼を導き続けられました。
イエス様のこの深い愛と寛容さに、私たちは目を留めるべきでしょう。
3、用いられたニコデモ
ヨハネによる福音書19章38-40節を読みます。
19:38 そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
19:39 また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
19:40 彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。
この場面では、これまでイエス様の弟子であることに人目を避けて隠していたニコデモが、ついに人前に姿を現します。
そして、アリマタヤのヨセフとともに、イエス様の遺体を丁寧に引き取り、葬りの準備をしたのです。
ここで注目すべきことは、以前ニコデモは夜にこっそりイエス様を訪ねていたのに、今や昼間、人目をはばからず、公にイエス様のために行動しているという点です。
彼は、もはや周囲の人々の目を恐れず、信仰をもって大胆に歩み始めているのです。
思い返せば、イエス様から《新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。》(ヨハネによる福音書3章3節)と語られた時、ニコデモはすぐにはその意味を理解することができませんでした。
しかし、彼の心の中には確かに変化が起こり始めていました。
ヨハネによる福音書7章50-51節を読みます。
7:50 彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
7:51 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
この場面では、イエスを非難しようとするユダヤ人たちに対し、ニコデモは「まず本人の話を聞いてから判断するべきだ」と冷静に意見を述べています。
これは、イエス様の語られた言葉を、単に聞き流すのではなく、心で受け止めようとしていた姿勢の表れです。
その後、十字架の上でのイエス様の姿や最後の言葉を目の当たりにして、ニコデモの霊はさらに大きく動かされたのでしょう。
今まで自分の立場や周囲の目を気にしていた彼が、それを捨てて、信仰に立って行動する者へと変えられていったのです。
興味深いことに、弟子たちはこのとき皆、逃げ隠れていました。
しかし、イエス様の遺体を葬るという働きは、まさにニコデモとアリマタヤのヨセフという、いわば「目立たない立場の信者たち」によって担われました。
そしてこの埋葬があったからこそ、3日後の「復活」が公に証しされる土台が整ったのです。
ニコデモは最初、疑問を抱き、理解できず、行動も控えめでした。自分が弟子であることも隠していました。
それでも彼は、イエス様の言葉を聞き続け、問い続ける中で、やがて神さまのご計画に大きく用いられる者へと変えられていったのです。
このニコデモの歩みを通して、私たちも学ぶことができます。
神さまは、最初からすべてが分かっていて、信仰が強く、行動力のある人だけを用いられるわけではありません。
むしろ、疑問や迷いを抱き、弱さを持つ者にも、必要に応じて働きかけ、導いてくださるのです。
ニコデモのように、はじめはこっそり、遠慮がちであっても、“神さまのことば”に耳を傾けていくならば、信仰へと育まれていきます。
そして、神さまはそうした人を、時が来ればご自分のご計画の中で用いてくださるのです。
神さまは、信じる者に、ふさわしい時にふさわしい働きを与えてくださいます。
信じていない方には、まことの神さまを知る機会を与え、信じている者には、神さまから与えられている役割に気づかせ、そこに応答するように導いてくださるのです。
それを見いだせる人は幸いです。
では、どうすればよいのでしょうか。
大切なのは、「目の前の出来事のすべてに神さまが関わっておられる」という視点を持つことです。
そして、自分の思いや判断だけに頼るのではなく、示されることを素直に受け取り、あとは神さまに信頼して、日々を一歩ずつ忠実に歩んでいくことです。
それこそが、神さまの御心に応答する歩みであり、私たちもまたニコデモのように用いられていく道なのです。
2025年9月21日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
「人と話すのはちょっと苦手だけど、礼拝には出席したい」
そんな思いが心のどこかにある方へ。
まずは、ご自宅からオンラインで礼拝に参加してみませんか。
オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。
【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。
※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
ニックネームでの参加もOKです。