素直に読む【ヨハネの黙示録_28】
ヨハネの黙示録21章1-27節
「新しい天と地」
〈はじめに〉
ヨハネの黙示録20章では、サタンの敗北と最後のさばきが描かれ、すべての罪と死が取り除かれました。
そして21章に入ると、《新しい天と新しい地》《新しいエルサレム》が示されます。そこは死も涙も悲しみもない、神さまが共に住まわれる完全な御国です。
ここは黙示録全体のクライマックスであり、神さまの救いの計画がついに完成する姿が描かれています。
〈本文〉
ヨハネの黙示録21章1節を読みます。
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
恐ろしい裁きの場面が終わり、悪と罪をもたらしたサタンと反キリストの勢力が滅ぼされた後、ヨハネは「古い天と地」がすべて消え去り、《新しい天と新しい地》が現れるのを見たと語ります。
イザヤ書65章17節を読みます。
65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
神さまはイザヤ書でこのように語られました。この啓示は、黙示録の幻とも深くつながっています。ここで言われているように、罪に満ちた古い世界はすっかり消え去り、これまでとはまったく異なる新しい世界が創造されるのです。
さらに《海もなく》と記されています。聖書では、海は罪が処理される場所を意味しています(ミカ書7章19節)。
ミカ書7章19節
7:19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、
ですから、新しい天と地には罪を処理する必要がなく、そこは罪のない完全に聖い世界である、ということが示されているのです。
ヨハネの黙示録21章2-3節を読みます。
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
新しい天と地が「御国」だとすれば、《新しいエルサレム》とは何を指しているのでしょうか。21章全体を読むと、《新しいエルサレム》は神さまと子羊イエス・キリスト、そして聖徒たちの集まりを表していると理解できます。
つまり、《新しいエルサレム》とは、神の霊によって一つにされた聖なる共同体のことでしょう。そこに集う人々は、古い自分を完全に脱ぎ去って、心も体も新しく造り変えられた者たちなのです。
新しい心と新しいからだに造り変えられた者について、黙示録21章4節にはこう記されています。ヨハネの黙示録21章4節を読みます。
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
これは、イザヤ書65章17節
65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
という御言葉の実現です。神さまに従ってこの世を歩む中で受けた迫害や困難、苦しみや痛みは、もはや思い出されることもなく、完全に過ぎ去ってしまいます。
古い人はすっかり新しくされ、涙の必要すらない世界がここに約束されているのです。
ヨハネの黙示録21章5節を読みます。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
黙示録21章5節には、涙を一例に挙げて、《「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」》と語られています。そこに訪れるのは、これまでの思いや概念、考えの枠組みを超えた、まったく新しい世界です。
神さまの約束は必ず実現します。新しい世界こそが真実であり、それは必ず起こることなのです。その保証をしてくださるのは、初めであり終わりである永遠の神さまです。そしてヨハネには、《「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。》(黙示録21章5節後半)と命じられました。
ヨハネの黙示録21章6節を読みます。
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
《かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。》とは、ご聖霊に満たされ、御言葉を受け取り、神さまの愛と喜びと平安にいつもあふれている姿を表しています。
ヨハネの黙示録21章7-8節を読みます。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
ここで神さまは、私たちにもう一度はっきりと問いかけておられます。
神の子として勝利者となるのか、それとも神さまに敵対して「第二の死」、すなわち永遠の滅びへと進むのか。
ヨハネの黙示録21章9-10節を読みます。
21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
御使いの一人が、ヨハネに《新しいエルサレム》(神さまと聖徒たちの集まり)をさらに詳しく示します。その素晴らしさを、私たちが理解できるように、霊的な共同体をわざわざ具体的な映像として描写しているのです。このことは、ヨハネの黙示録21章11–27節に記されています。
ヨハネの黙示録21章11節を読みます。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
11節に記されている都の輝きとは、23節にある神さまの栄光そのものです。本来、たとえることのできないものですが、ヨハネはあえて高価な宝石にたとえるしかなかったのでしょう。
ヨハネの黙示録21章12-15節を読みます。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
21:15 わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。
ここで描かれる《城壁》と《門》について考えてみましょう。
すでに神に敵対する者は一人もいないので、本来なら門や城壁は守りのためには必要ないはずです。しかしここでは、神さまの御手による守りを象徴していると理解できます。
さらに、門にイスラエルの十二部族の名前が記されているのは、信仰の父アブラハムへの神さまの約束を思い起こさせます。アブラハムを通してすべての民が救われることが、《新しいエルサレム》に入る人々が「十二部族の名のついた門」を通ることによって象徴されているのです。
また、城壁の土台に十二使徒の名前が記されているのは、神さまの守りが十二使徒の伝えた福音の上に築かれていることを示しているのでしょう。
ヨハネの黙示録21章16-17節を読みます。
21:16 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
16節によると、その都の大きさは一辺がおよそ2,220km四方、城壁の高さは約64メートルと記されています。現実の都市としては想像できないほどの規模ですが、それだけ私たちの住まいが限りなく広く、十分に備えられていることを示しているのでしょう。
ヨハネの黙示録21章18-27節を読みます。
21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、
21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。
21:22 わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
21:23 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
21:24 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
18節以降には、想像を超えるほど清らかで透き通った都の姿が描かれています。ガラスのように輝く純金や宝石のきらめきによって表現されるその美しさは、汚れのない完全な世界を示しています。
この都にはもはや聖所はありません。なぜなら、全能の神と小羊イエスご自身が聖所であり、神さまと聖徒たちの普段の交わりそのものが礼拝となるからです。さらに、神さまの栄光の輝きが都を照らすので夜はなく、門も閉ざされることはありません。
ただし、そこに入ることができるのは《小羊のいのちの書》に名が記されている者だけです。汚れや偽りにとどまる者は決して入れません。この対比によって、《新しいエルサレム》の聖さと輝き、そしてそこに迎え入れられる恵みの大きさが一層強調されているのです。
〈まとめ〉
今日の箇所は、私たちに《新しい天と新しい地》の素晴らしさを伝えています。
新天新地を神の御国=天国とするなら、《新しいエルサレム》とは神さまと聖徒たちの集まりです。イエス様を信じ、新しい心とその心にふさわしい新しい体を与えられた人々の共同体です。その姿が具体的に描写されているのが、21章11–27節です。
私たちは、見ることができなければ信じにくく、想像しにくい存在です。そのため神さまは、具体的なイメージとして《新しいエルサレム》を示してくださいました。
《人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。》(黙示録21章4節)。
神さまは、どんなに辛く流した涙も拭い去り、それを思い出すことすらなくして、喜びで満たしてくださいます。まるで子どもを抱き寄せて慰めるように、神さまがご自身の愛で包んでくださるのです。しかし、これはほんの一例にすぎません。
私たちは今、古い体に縛られ、この世の文化や情報に押し込められています。そのため「新しい人」の姿を想像することは難しいのです。けれども新天新地では、涙も過去も完全に過ぎ去り、時間に追われることもなく、うそや駆け引き、憎しみもなく、老いや病気もありません。重荷も悲しみも辛さもすべて消え去り、心も体も満たされて喜びにあふれる生活へと変えられるのです。まさに「一切が新しくなる」のです。
ここで「パラダイムシフト」という言葉を思い起こしましょう。これは「考え方の枠組みが根本から変わる」という意味で、新製品や新しい発想に使われることもあります。しかし、聖書が示すパラダイムシフトは、信仰者が「古い人から新しい人へ」と造り変えられることです。
コリント人への第2の手紙5章17節にはこうあります。
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
涙が拭い去られるように、体も心も思いも環境もすべてが新しくされます。ヨハネはこの《新しいエルサレム》を《「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。》と命じられました。私たちは古い人の枠にとらわれず、新しい世界の素晴らしさをどれほど期待し、待ち望むかによって、信仰がさらに高められていくのです。
辛く、悲しく、情けなくて流した涙は、もはやありません。それはほんの一例にすぎません。すべてが新しく変えられる新天新地、《新しいエルサレム》、新しい体を望み見つつ、神さまからの励ましと力をいただきましょう。
2025年9月19日
香川尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_28】
タイトル:「新しい天と地」
牧師:香川尚徳