ショートメッセージ【サマリヤの女】

ヨハネによる福音書4章1-42節
(変えられた女性・・・人目を避けた水汲みから人前での証し人に)

1、サマリヤの女性
2、変えられた女性
3、証しした女性

1、サマリヤの女性
 もともと、ユダヤとサマリヤはひとつの「イスラエル王国」でした。
 しかし、歴史的・宗教的な事情によって、イエス様の時代には別々の国となり、互いに対立する関係にありました。
 ユダヤ人はサマリヤの人々を好まず、通常はサマリヤの地域を通るのを避けて遠回りをしていました。
 どうしても通過しなければならない場合でも、サマリヤ人に話しかけたり関わったりせず、ただ黙って通り過ぎるのが通常でした。
 ヨハネによる福音書4章4節を読みます。

4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

 この《通過しなければならなかった。》という表現には、単なる地理的な都合以上の意味があります。
 イエス様は、あえてサマリヤに立ち寄られたのです。それは、サマリヤの人々を救いへと導くため、特にある一人の女性に出会うためでした。
 ヨハネによる福音書4章35節を読みます。

4:35 あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。

 これは、イエス様が弟子たちに語られた言葉です。
 「あなたがたは、サマリヤ人のような者たちが神に立ち返るのはまだ先のことだ(今は収穫の時ではない)と思っているかもしれない。でも、よく目を開いて見なさい。実は今、もう心が神さまに向かって動いている人たちがいる。すでに収穫(救い)の時を迎えているのだ」とイエス様は言われたのです。

 つまり、サマリヤの人々の方が、宗教に固くなっていたユダヤの指導者たちよりも、むしろ素直に神のことばを受け入れる準備ができていたのです。
 実際、多くのサマリヤ人がイエス様を信じて救われました。
 ヨハネによる福音書4章41-42節を読みます。

4:41 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。

 この42節の《女》とは、イエス様が特別に会いに来られたサマリヤの女性のことです。
 ヨハネによる福音書4章5-7節を読みます。

4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。

 この女性について、著者ヨハネは次のように記述しています。ヨハネによる福音書4章18節です。

4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。

 つまり彼女は、過去に5人の夫と結婚していましたが、離婚していて、今は結婚していない男性と共に暮らしている、という状態でした。
 5人の夫との別れの理由は、聖書には明記されていませんが、死別や社会の混乱も含まれていたかもしれません。
 しかし、当時の社会では、結婚していない男女の同棲は、厳しく非難されるものでした。

 また、彼女が水を汲みに来たのが《昼の十二時ごろ》というのも注目すべき点です。
 普通は朝や夕方の涼しい時間帯に人々が井戸に来ますが、彼女は人目を避けるかのように、最も暑い時間帯にやって来ていました。
 これは、おそらく人から後ろめたく思われるような過去や生活のことを、自分でも恥ずかしいと感じていたからではないでしょうか。

 聖書は彼女の気持ちについて直接は語っていませんが、その背景を考えると、「神さまにも、人々にも、また社会そのものにも不満やあきらめを抱え、でも自分の心の闇とは向き合おうとせず、何かのせいにしながら、男性に依存して生きている」・・・そんな姿が見えてくるように思います。

 そんな彼女のもとに、イエス様はわざわざ会いに来られたのです。
 その出会いが、彼女の心を変え、やがて多くのサマリヤ人に救いのきっかけを与えることになります。

2、変えられた女性
 ヨハネによる福音書4章9節を読みます。

4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。

 ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけることは、当時としては非常に珍しいことでした。
 しかも、公の場で男性が見知らぬ女性に声をかけることも、普通はありませんでした。
 そのため、このサマリヤの女性は、イエス様が自分に話しかけてきたことに強い警戒心を抱いたのです。

 けれども、イエス様との会話が続く中で、彼女の心は少しずつ変化していきます。
 やがて彼女は、イエス様のことを「主」と呼ぶようになります(ヨハネによる福音書4章11節、15節、19節)。
 この「主」という言葉は、神さまを指す言葉ではなく、「先生」や「ご主人様」といった、尊敬のこもった丁寧な呼び方です。

 さらに、イエス様が彼女の過去・・・夫が五人いたこと、現在は結婚していない男性と暮らしていること・・・を言い当てたとき、彼女は驚き、「あなたは預言者だと思います」(4章19節)と認めます。
 そして会話の終わりには、イエス様のことを「キリスト(=救い主)」と呼ぶようになっています(4章29節)。

 最初は身構えていたこの女性が、次第に心を開き、ついにイエス様が救い主であることを自ら語るようになっていきます。

 自分の過去を見抜かれた彼女は、もう隠したり逃れたりできないと感じたのでしょう。
 それまで避けてきた自分の心の奥にある痛みや闇に、ようやく向き合いはじめました。 そして、その心をイエス様の前に差し出したのです。
 すると、イエス様によって彼女の霊は目を覚まし、新しい命へと導かれていきました。
 ヨハネによる福音書4章25-26節を読みます。

4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

 イエス様は、はっきりと「わたしがキリストです」とこの女性に明かされました。
 これはとても特別なことです。イエス様は、多くの場面ではご自分がメシヤであることを明言されませんでしたが、この女性には直接そう語られたのです。

 現代のことばにするならば、イエス様は、彼女にこのように語っておられます。
 「今、キリストであるわたしがここにいる。あなたの心にある闇や罪は、救い主であるわたしによって取り除かれ、あなたの霊は自由にされたのです。だから、その霊によって、神さまを、まことをもって礼拝しなさい。」
 ヨハネによる福音書4章24節を読みます。

4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 イエス様は、ここで「新しい礼拝の時代」の到来を告げておられます。
 かつては神殿でしか礼拝できないとされていましたが、これからは、どこにいても、心からの真実な礼拝を神さまにささげることができるのです。
 神さまは霊であり、私たちが霊とまこと(真心)をもって礼拝するなら、神さまはその場におられ、受け取ってくださるのです。

 このサマリヤの女性のように、すべての人の心の中には神さまが与えてくださった霊があります。
 たとえその心が、過去の傷や罪でかたくなになっていても、イエス様はその心を優しく開いてくださいます。

 だからこそ、私たち信じる者もあきらめることなく、人々に福音を伝え続けることが大切なのです。
 どんなに遠く見えても、誰の心にも、神さまに出会う可能性は備えられているのですから。

3、証しした女性
 ヨハネによる福音書4章29節を読みます。

4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。

 以前は人目を避けて生活していたこの女性が、イエス様との出会いによってすっかり 変えられ、人々の前に出て、力強くイエス様のことを語り始めました。
 彼女の言う「もしかしたら、この方がキリストかもしれません」は、疑いの言葉ではなく、「きっとこの方が救い主に違いない」という確信に近い気持ちを、人々に丁寧に伝えている表現です。

 彼女は、イエス様が自分のすべて・・・過去の失敗や心の痛み、孤独やむなしさをすべてご存じで、なおかつ理解してくださる方であることに気づきました。
 その深い理解と受け入れによって、心は癒され、満たされたのでしょう。だからこそ、それまでとはまるで別人のように、喜びにあふれた姿で、周りの人々にイエス様のことを語り始めたのです。

 しかも、彼女は水を汲みに来たのに、水がめを置いたまま人々のもとに走って行きました。
 それは、イエス様と出会ったことの喜びが、日常の必要さえ忘れるほど大きかったことを物語っています。
 サマリヤの人々もまた、この女性の変わりように驚いたことでしょう。
 それまで避けられていた彼女が、こんなにも熱心に語る姿に心を動かされ、耳を傾けたのです。

 そしてイエス様は、この一人の女性を通して、サマリヤの町全体に救いの光を届けられました。
 ヨハネによる福音書4章40-41節を読みます。

4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。
4:41 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。

 サマリヤの人々は、イエス様に癒しや奇跡を求めたのではなく、もっと深いところ・・・神さまのことばと真理を知りたいという霊的な願いをもって、イエス様にとどまってほしいと願ったのです。
 イエス様もその真剣な心をご存じで、喜んで二日間彼らと共に過ごされ、教えを語られました。

 そしてその結果、彼らの多くがイエス様を信じたのです。

 当時のユダヤ人であればどうだったでしょうか。
 「私のことも当ててください」「証拠を見せてください」とイエス様に奇跡を求め、信じる前に納得しようとしたかもしれません。けれども、サマリヤの人々は違いました。
 彼らは心を開き、女性の語った言葉に耳を傾け、素直な信仰の態度でイエス様を受け入れたのです。
 もう一度、ヨハネによる福音書4章4節を読みます。

4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。

 この《通過しなければならなかった》という表現には、偶然ではなく、イエス様のはっきりとした意図と使命が込められています。
 イエス様は、このサマリヤの人々に救いを届けるために、意図的にこの町に来られたのです。
 ヨハネによる福音書4章42節を読みます。

4:42 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。

 サマリヤの人々の信仰は、女性の言葉をきっかけとして始まりましたが、やがて彼ら自身がイエス様と直接出会い、直接その教えに触れて、心から信じるようになったのです。
この言葉は、「もうあなたの言葉は必要ない」と言っているのではなく、「今、私たちは自分自身でイエス様を知り、信じる者となった」という、信仰の自立と成長を表しています。

 この女性もまた、イエス様のもとから去ったのではなく、サマリヤの人々とともにその場にとどまり、イエス様のことばを聞き続けていたと考えられます。
 それは、彼女の信仰が一時的な感情ではなく、人生を根本から変えられた証でもあります。

 救い主イエス様とは、どんなお方でしょうか。
 イエス様は、天にある神の栄光を捨てて、人としてこの世に来られました。
 神としての権威を手放し、無実でありながら私たちの罪をすべて背負ってくださいました。
 人間の考えうる最も過酷な刑である十字架の苦しみを受けることを選ばれ、父なる神さまからも見捨てられる孤独を味わわれたのです。

 そのイエス様は、今も私たちと共にいてくださいます。
 どんなに痛みや苦しみの中にあっても、「あなたはひとりではない」と語りかけてくださいます。
 「その痛みも苦しみも、わたしはすべて経験した。だからこそ、あなたと共に背負うことができる」と優しく言ってくださるお方です。

 私たちは、この方に自分の心を委ねることができます。
 慰めも、励ましも、真の希望も、イエス様のもとにあります。

 サマリヤの人々は、自分の目でイエス様を見て、耳で直接その声を聞いて信じました。
 これは、「もうあなたのおかげではない」と冷たく言っているのではなく、「今、私たちはイエス様を自分の信仰で信じるようになった」という感謝と報告の言葉です。

 信仰とは、神さまとの1対1の出会いから生まれ、育っていくものです。イエス様のことばを自分自身で聞き、心に受け取り、自分の人生の中で神さまと出会っていく・・・それこそが、本当の信仰の歩みなのです。

2025年9月28日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに、今は少し離れておられる方々へ。
理由は人それぞれ、さまざまだと思います。けれども――
「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ」「礼拝に出たいなぁ」「賛美したい♪」
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そんな思いが心のどこかにある方へ。
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オンラインの便利さを活かして、どこからでも、無理なく、あなたのペースで礼拝と聖書の学びにふれていただけるよう、心を込めて準備しています。 

【教会や聖書にご興味のある方へ】
教会は、人がこの世に生まれたときから天に召されるときまで、すべての時が神さまの導きと祝福のうちにあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えるでしょう。
もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
 ニックネームでの参加もOKです。