ショートメッセージ【アンデレ】

ヨハネによる福音書1章35-42節、他
(イエス様のもとに連れてくる人)

1、救い主に会ったアンデレ
2、導くアンデレ
3、アンデレのように

1、救い主に会ったアンデレ
 ヨハネによる福音書1章35-40節を読みます。

1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
1:36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
1:37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 1章40節を見ますとアンデレは、前回登場したシモン・ペテロの兄弟です。
 ここで出てくる35節の「ヨハネ」とは、使徒ヨハネのことではなく、イエス・キリストが来られるために道を備えた「バプテスマのヨハネ」のことです。
 アンデレは、もともとそのバプテスマのヨハネの弟子だったのです。

 バプテスマのヨハネは、キリストについてこう言っていました。ヨハネによる福音書1章27節です。

1:27 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。

 そして、先ほど見たヨハネの福音書1章36節では、バプテスマのヨハネが、歩いておられるイエス様を見て、《「見よ、神の小羊」》と言いました。
 このときすでに、バプテスマのヨハネはイエス様にバプテスマ(洗礼)を授けており、その場で、御霊(みたま)が鳩のように天から降ってきて、イエス様の上にとどまるのを見ていました。
 この体験を通してヨハネは、「イエス様こそ救い主(キリスト)だ」と確信したのです。
だからこそ、アンデレともう一人の弟子に向かって、「あの方について行きなさい。あの方こそメシヤなのだ」という思いを込めて、《「見よ、神の小羊」》と伝えたのです。

 こうして、アンデレともう一人のバプテスマのヨハネの弟子は、イエス様のあとをついて行くことにしました。
 もう一度、ヨハネによる福音書1章38-39節を読みます。

1:38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。

 バプテスマのヨハネに「この方こそ救い主だ。ついて行きなさい」と勧められた二人(アンデレともう一人)は、イエス様について行きました。
 イエス様に《「何か願いがあるのか」》と尋ねられたとき、本当なら「あなたに従いたいのです」と答えると筋が通ります。まだ、イエス様が救い主である確信がなかったのか、それとも自分がしている行動やその動機についてまだ頭の整理ができていなかったのか、神さまとしてのイエス様の権威に畏れを抱いたのか、理由は、わかりませんが、彼らはまだ自分の気持ちを整理できず、思わず《「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。》と聞いたのでしょう。

 イエス様にすれば、泊っている町の名称や場所を伝えれば会話は成立します。しかし、イエス様は彼らの本当の望みをわかっておられ、《「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」》と招かれました。これは「泊まる場所を見るだけでなく、私がメシヤ(救い主)だとわかるはずだ」という意味を含んでいました。
 ヨハネによる福音書1章39節の中ごろから最後まで(39 b-d)を読みます。

1:39 b-d そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。

 二人はイエス様と一緒にその日を過ごしました。この間おそらく彼らはイエス様と長く語らい、イエス様から多くのことを聞くことになったでしょう。そこで彼らは、イエス様こそ待ち望まれていた救い主だと確信するに至りました。アンデレは兄弟のペテロにこう言いました。
 ヨハネによる福音書1章41節を読みます。

1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。

2、導くアンデレ
 ヨハネによる福音書1章41-42節を読みます。

1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
1:42 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。

 アンデレはイエス様が聖書の約束する救い主メシヤであることを確信して、その喜びと驚きを胸に、兄弟シモン(=ペテロ)に告げています。
 そして、すぐにシモン(=ペテロ)をイエス様のもとに連れていきます。
 まさに「百聞は一見にしかず」です。アンデレの心の中には、イエス様が救い主であるという揺るぎない信じる気持ちがあったのです。
 ヨハネによる福音書12章20-22節を読みます。

12:20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
12:21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。

 ここでもアンデレは、ピリポとギリシヤ人たちにイエス様を紹介しています。
 また、5千人の給食の奇跡の箇所でもアンデレは重要な働きをしています。
 その場面を書いているヨハネによる福音書6章5-9節を読みます。

6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

 アンデレ自身も、「これだけではとても足りない」と思っていたようです。
 しかし彼は、自分の判断で「役に立たない」と決めつけて終わらせるのではなく、その子どもをイエス様のもとへ連れて行き、判断をイエス様に委ねました。
 これが「神さまに委ねる」という信仰の姿勢でしょう。

 私たちはつい、自分の判断や評価に頼りたくなります。自分が納得できることだけを受け入れがちです。でも、人間の判断には、知らず知らずのうちに罪の影響・・・たとえば、思い上がりや逆に自分を過小評価する気持ち・・・が入り込んでいます。
 だからこそ、信仰者は自分の視点だけでなく、「神さまはどう見ておられるか」という目線で考える努力が必要です。
 そして最終的には、神さまにすべてをお任せする心がけが大切です。

 「自分にはこれしかないけど・・・」とためらわずに、「どうぞご覧ください」と素直にイエス様に差し出す・・・。
 そんなアンデレの姿勢から、私たちは多くを学ぶことができます。

3、アンデレのように
 今回は、アンデレにならう、アンデレのように導くことを学びました。でも今、イエス様は天におられます。
 では、私たちはどうやって人々をイエス様のもとへ導けばよいのでしょうか。
 今の時代、「来て、見てください」と素直に誘う場所は、キリストの体である教会だと言えるでしょう。
 では、その教会はどのような教会であるべきでしょうか。
 大切な要素はいろいろとありますが、ここでは3つに絞ってお話しします。

① イエス・キリストが語られる教会
 エペソ人への手紙1章22節

1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

 教会の中心には、かしらであるイエス・キリストがいなければなりません。それは説教の中だけでなく、証しや交わりの場でも同じです。
 もしイエス・キリストの名が語られないなら、それは世の集まりと何も変わらないのです。
 当たり前のように思えるかもしれませんが、実際には「イエス」や「キリスト」という名前が一度も出てこない教会のメッセージも少なくありません。

② 一致した群れである教会
 コロサイ人への手紙1章18節

1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

 教会は、キリストのからだです。そしてその“からだ”とは、イエス様を信じる一人ひとりのことです。
 私たちは皆、キリストのからだの一部分であり、互いに結ばれて一つの群れとなります。
もし一致がなければ、バラバラの状態のままです。そのために、私たちにはご聖霊が与えられています。
 エペソ人への手紙4章3-4節

4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。

 それぞれ違う私たちですが、同じ御霊をいただいているからこそ、一致が可能です。
 御霊(=ご聖霊)によって一つになろうとする姿勢が大切です。

③ お互いに愛し合う群れである教会
 ヨハネによる福音書13章34-35節

13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 教会が愛に満ちた群れであるとき、そこに来た人々はイエス様を感じ、見るようになります。
 愛し合う中で、私たちはイエス様のような姿に少しずつ変えられていきます。 また、その群れ全体としても「キリストのからだ」にふさわしい姿へと成長していくのです。

 もちろん、すぐに完全にキリストに似ることはできません。けれども、「そうなりたい」と願い、成長を目指す教会こそが大切なのです。

 このような教会であれば、私たちもアンデレのように「来て、見てください」と人々を招くことができます。その招きによって、キリストが人々の心に証されていくのです。

2025年9月14日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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もし今、心に問いかけたいことや、立ち止まりたくなるような時を過ごしておられるなら、どうぞ礼拝のひとときを通して、静かにご自分の心と向き合ってみてください。
礼拝は、心にそっと安らぎを与えてくれるかもしれません。

※当教会は、信仰の有無や長さに関係なく、
 気楽に集いたい方、気楽に聖書を学びたい方に向いています。
※聖書解釈はオーソドックスなプロテスタントですが、
 教理・教条主義ではありません。
※牧師・伝道師の属人的な教会ではありません。
 上下関係は無く、フレンドリーで話しやすい教会です。
※オンラインですので顔出ししなくても大丈夫です。
 ニックネームでの参加もOKです。