ショートメッセージ【アブラハム①】

創世記12章1-20節
1、アブラハムの召命
 12章1節を見ましょう。
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。

 この時、アブラムは75歳であったことが4節に書かれています。この時の平均寿命と言ってよいかどうかわかりませんが、アブラムのお父さんのテラは205歳で亡くなったと書いてあります。また、アブラム自身は175歳で亡くなったと聖書は書いてあります。今の約2倍は長生きだったようです。とすれば、アブラムは75歳で神さまに召命を受けてハランというところから出て行ったことになります。

 現在の年齢にすれば35-40歳でしょうか。また、精神的な自立もできている時期であるということがわかります。そう考えますと、責任ある中年世代であると言えます。現代で言えば、これからが腕の見せ所というような世代と言えるでしょうか。アブラムの召命は決して何も知らない若者の時に受けたものではなく、ある程度、社会常識を備えた世代だったことを覚えてほしいと思います。
 続けて12:2-3を続けて見ましょう。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。

 創造主なる神さまは、ノアの時代、人の悪が地にはびこり、世は神さまの前に乱れて、暴虐が地に満ちた時、地球レベルで地を割り大雨を降らせ洪水を起こしました。その創造主なる神さまのみ言葉を聞いてアブラムは出て行くわけです。右も左もわからない年齢ではなく、結婚もしていて経済的、また、精神的な自立もしている大人が召命されたわけです。

 れっきとした大人が召されたことを考えれば、ここで教えられることは経済的にも精神的にも、そして社会的にも自立している人が、これから用いられる人物であることを知るべきでしょう。そして、私たちは世の中でしっかりと働き、家庭を治め、精神的にも神さまのお言葉からしっかりと成長をすることが求められるのではないでしょうか。
 神さまの召命は、そのようなアブラムにあったことを覚えなければなりません。つまり、大いなる国民の始祖となるアブラムは、当時の社会で、しっかり生計を立てた人物でした。ですから、よい指導者とは、よい社会人、よい家庭人なのです。そして、そのようなアブラムが召し出されるわけですが、はじめから多くの困難や試みがあったようです。

2、与えられたはずの土地だが?
12:6-7によれば、
12:6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。
12:7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

 アブラムは神さまからカナン人の住んでいる土地、つまりカナンの地をあなたの子孫に与えると宣言されます。それに対して、アブラムはすぐに祭壇を築きました。そして8節にはベテルとアイでも祭壇を築いています。
12:8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。

 カナンの土地、今で言うイスラエルのエルサレムの北側、地図で見ますと直線約20km辺りで祭壇を築きました。そこに、いけにえをささげたということです。
 当時の礼拝の本質は、いけにえをささげることですから、カナンの地で、神さまに感謝しほめたたえたということです。それは将来、子孫に与えられることを確信していたからでしょう。信仰者が神さまのみ言葉に対して感謝をして礼拝をするということは現代の私たちにとってもわかりやすいですね。
 しかし、アブラムはこの後、ネゲブに移り、その後、ききんがあったのでエジプトに行きます。このことをどのように考えたらよいでしょうか。アブラムにしてみれば、自分自身ではなくて将来の子孫に与えられる地であるし、すでに先住民族であるカナン人がいることを考えますと、自分たちは違う地に言ったほうが良いと考えるのもわからなくはないです。このことで財産もたくさん所有することになりました。しかし、エジプトでは、妻サライを妹と偽って自分が助かろうとする記事があります。結果としてエジプトのファラオに誤解を与え迷惑をかけ追い出されます。

 神さまから、ネゲブやエジプトに下る命令は出ていませんから、エジプトに下って行ったのは、独自の判断であるということになります。人間的な観点であれば、目的は達し成功したようにも見えます。このことを聖書は良いとも悪い(神さまの御心に従ったか否か)とも書いていません。旧約聖書には、このように、どちらか善いか悪いかとはっきり書いていない箇所がいくつかあります。
 この創世記の著者であるモーセは、読者、すなわちカナンの地に入植するイスラエル人は、どのような判断と決断をするべきかをあえて書かないことで、信仰の学びをさせているのではないでしょうか。人生は、白か黒かだけで決めることのできない選択を求められる時があります。いわゆるグレーです。それはいつの時代の人も同じです。

3、神のみことばが中心にあるか
 この時、アブラムはカナン人をはじめとする先住民族らに遠慮して出て行ったのだと考えられます。当時は、今のように国境や境界を定め、法律などの決まりごとが条文化できていなかったので、部族同士がもめないために族長は気をつけていたと思います。はじめに言いましたように、アブラムは75歳という、当時、働き盛りで、そこそこの判断ができる族長であったと考えられます。
 最悪の場合、一族の絶滅する危機が目前にあるわけですから、自分のこれまでの知識や経験で、危機回避をする判断は当然です。また、彼の知恵によって、エジプトで一財産を得たこともまた事実です。しかし、このことが、ロトとの争いとなり、別れにつながった点を見逃してはいけません。

 もし、アブラムたちがカナンの地で、神さまからのご指示があるまで待っていたならば、異なった結果に至ったことは間違いありません。
 この創世記は、モーセという人が書いたのですが、当時のイスラエル人に伝えたかったことは、自分の知識や経験以上に、天地創造の神さまのみ言葉に頼ることを教えているように見えます。
 他の民族や国民が信仰している偶像の神とは違う事を伝えたかったのです。天地万物と人を創造した神さまと土着の偶像の神さまとの違いは、創造主なる神さまは、人知をはるかに超えた生きた真の神さまです。
 一方、土着の偶像の神は、人間が農産物の豊穣と戦争に勝つことを願った人間が造り出した神さまです。
 聖書は、その点を指摘しています。

 アブラムは、このようなところを抜けて、信仰者として成長していく過程を教えているのではないでしょうか。
 私たちも同じです。もちろん、世の中で得た知識や経験は、大いに役に立ちます。そして、それを率先して得るのも得策です。

 しかし、信仰をもっている者であれば優先するべきものは、それを超えた神さまのみ言葉であることを現代の私たちにも教えてくれているのではないでしょうか。
箴言1:7を開きましょう。《主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。》
アブラムの記事から私たちも神を恐れて、まずはみことばに従うものでありたいですね。そして、誰でもそのような弱さを覚えるとき、神を恐れる心を与えてくださるのです。
 詩編で作者は次のように述べています。
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

 この後、アブラムは家を造らず、寄留者として、み言葉に従いカナンの地で一生を終えるのです。
 み言葉に反していることが分かったとき、改めるのに早い方が良いことも教えられます。それがアブラムの良いところ、すなわち神さまの喜ばれる信仰者であるということなのですから。

【アブラハムの名前について】
創世記17章1-5節
17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、/「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
17:2 わたしはあなたと契約を結び、/大いにあなたの子孫を増すであろう」。
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、
17:4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。
17:5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、/あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の/父とするからである。

99歳になって、アブラムからアブラハムと神さまによって改名されました。

2022年2月13日(日)
メッセンジャー:香川盛治師