ショートメッセージ【ヤコブ⑤】

~ペニエルでの祝福~
創世記32章-33章
 先週は、自分の国カナンに逃げ帰るヤコブを見ました。途中、伯父のラバンに追いつかれましたが、神さまのとりなしでラバンと和解することができました。この箇所で学ぶことは、何があっても神さまから離れないこと、そして、神さまの御心、ご計画だけが成るということを受け入れて、その御心を知り歩む信仰の素晴らしさを学びました。また同時にご利益信仰がいかに不合理かということも見ました。

 本日は、創世記32章と33章を見ます。3つお話しします。

1、ヤコブ、神さまに励まされる

 和解した伯父のラバンが去った後で、ヤコブはホっとしてラバンから解放された喜びをかみしめていたでしょう。しかし、それもつかの間、自分がだましたせいで、殺意をもつほどに怒りを燃やす兄エサウに近づいていること、しかし、ラバンとの約束で、もはや後戻りできないという現実に向き合わされて、ヤコブは大きな不安を抱えていたと思われます。
 そんなヤコブに神さまは、御使いを送り、励ましを与えるのです。

創世記
32:1 さて、ヤコブが旅路に進んだとき、神の使たちが彼に会った。
32:2 ヤコブは彼らを見て、「これは神の陣営です」と言って、その所の名をマハナイムと名づけた。

 神さまは、ヤコブに神さまから離れずに、神さまを信頼し続けるようにとこの恩恵を与えられました。マハナイムというのは、2組の軍隊という意味です。ヤコブが自分たちを地の軍勢、神さまの御使いを天の軍勢としてこう呼んだのでしょう。

 神さまに励まされたヤコブでしたが、また、いつものように、神さまに頼ることなく、自分で策をあれこれ考えて、使者を遣わし、兄エサウのご機嫌をとり、怒りをおさめようとします。

 しかし、帰ってきた使者のことばは、ヤコブを恐れさせます。

32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った、「わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます」。
32:7 そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて、

 これまでヤコブは、自発的にひとりで神の前に祈ったということはなかったのです。しかし、使者の情報に大きな恐れに支配されたヤコブは、必死で兄エサウからの守りを祈っています。

32:11 どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。

 これはヤコブの真剣な祈りです。しかし、まだ保身のための自分本位な祈りです。自分が神さまを頼り、兄エサウを恐れないようにと自分が変えられることを求めていません。自分はそのままで相手が変わることを期待して、相手の手から逃れられるようにと自己中心的な祈りです。
 しかし神さまは、この祈りを通して、ヤコブの人格の最も深いところを取り扱われます。

 神さまは、私たちの保身や自己中心から出た祈りも、すべて聞いてくださいます。
 「助けてください」と神さまにお願いすることはとても大切です。
 でもさらに、御心が成るのであれば、それを恐れずに受け止めることができるように。 
 最後まで神さまを信頼し頼り切ることができるように。
 変わらなければならないところは変えてくださるように。と祈れる信仰者の成長することを教えらえています。

2、ヤコブ、祝福される

32:13 彼はその夜そこに宿り、持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を選んだ。

 ヤコブは神さまに祈った後、兄エサウの怒りをなだめるために贈り物を選びます。しかし、人と人を和解させるのは「物」ではありません。贈り物に心がこもっていなければ、その贈り物はかえって逆効果でしょう。なだめるための心、それは、神さまの愛から出てくる謙遜です。
 新約聖書で言えば、イエス・キリストが、私たちの罪のために命を差し出して神さまの御心を成して低く仕えたそのお心と行動です。
 それは神さまの前に砕かれた心から生まれます。
 そして神さまは、ここでヤコブをそのように取り扱われるのです。

32:21 こうして贈り物は彼に先立って渡り、彼はその夜、宿営にやどった。
32:22 彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。
32:23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。

 ヤコブはこれまで、兄エサウから長子の権利を奪い、父イサクをだまして祝福を奪い、伯父ラバンの裏をかいて富を得ました。自分の計算通りにうまくやってきたのです。しかし、今や怒れる兄エサウの前に危機的な状況に追い込まれています。
 その時ヤコブは、ひとりの人と戦います。このひとりの人は、30節をみれば、神さまご自身であったことが分かります。

32:25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。

 全能の神さまが、人に勝てないということはありません。
 神さまは、ヤコブが、その強い自我を解き放って、心の内側を神さまに開放することを願われていました。
 しかしヤコブの心は頑なでした。そういう意味では、勝てなかった、ヤコブの心を解き放てなかったのです。
 神さまは、仕方なくヤコブのもものつがい、股関節を外されました。
 股関節が外されては、いざとなってエサウと戦うこともできません。歩くのもままならない状況です。危機に直面したヤコブは、必死でした。

32:26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
32:27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。
32:28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。

 名を訪ねられたヤコブは、自分でヤコブと答えています。これは「かかとをつかむ」という意味がありますが、この同じ語根に「だます」という意味をも持っています。
 ここで聞かれている「名」とはヤコブの本質、存在そのものを意味します。ヤコブは自ら、自分の本質は、人を「だます」と認めました。
 そう答えたヤコブは、恐れの本質が、その自分の本性から来ていることを教えられ、それに気づきました(人をだますのでその相手を恐れる)。ヤコブは、自分の本性(性格や考え方)を知ったのです。 

 そして、ヤコブの「名」を聞いた神さまは、《あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。》と告げたのです。イスラエルとは「神とたたかう(イスラエルの「エル」は神を表し、「イスラ」は、「戦う」の派生語と考えられている)」という意味で紹介されています。しかし、「神が支配したもう」と言う意味で理解すると分かりやすいと思います。

 自分の弱さを認め、頑なな心を神さまに開放し、神さまに頼り、神さまにご支配される存在になる。つまり神さまの御心の内を歩む者を神さまは恐れから解放してくださいます。

3、ヤコブ、エサウと再会する

33:1 さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、
33:2 つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、
33:3 みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。
33:4 するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。

 神さまによって変えられたヤコブには、エサウへの恐れは消えていました。自ら進み出てエサウとの再会を果たします。
 エサウの態度から、エサウには全くヤコブへの怒りがないことが分かります。ヤコブの抱いていた兄の怒りは、もはや彼自身の思い過ごしになっていたのです。ヤコブ自身が神さまに変えられることによって、ヤコブの問題は解決されました。

33:19 彼は天幕を張った野の一部をシケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取り、
33:20 そこに祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

 神さまは、エサウとの間にあったわだかまりを修正し、ヤコブを約束のカナンの地に戻し、ヤコブがアブラハム信仰の継承者として歩む道へ導かれました。
 神さまは、ヤコブの「恐れ」を克服するのは神さまへの信頼しかないことを気づかせました。神さまの導きを知ったヤコブはシケムにおいて祭壇を建て、「エル・エロヘ・イスラエル」と名づけます。「神はイスラエルの神である」という意味ですが、イスラエルはヤコブの新しい名前でした。とすれば、神は「ヤコブ」の神という意味もあり、ヤコブの信仰告白としての証しの祭壇ということになります。
 神さまへ信頼することによって、私たちは自分が変えられる。ここではそのことを私たちに強く示され教えられています。

2022年5月15日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳師

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