ショートメッセージ【モーセ⑥】

レビ記1章-27章
1、会見の幕屋に入れないモーセ
2、レビ記の構造
3、レビ記のあらすじ
(1)儀式の区分「1-7章と23-25章」
(2)祭司の区分「8-10章と21-22章」
(3)きよさの区分「11-15章と18-20章」
(4)宥めの日(贖いの日))「16-17章」

1、会見の幕屋に入れないモーセ
出エジプト記40章34-35節
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

 前回、出エジプト記の終わりで、モーセが会見の幕屋に入ることができなかったところで終わりました。そこで、その理由と神さまからの解決を見ていきます。

 神さまは、ご自身の栄光をイスラエルのただ中にある幕屋に住まわせたかったのですが、イスラエルの罪が、神さまとの関係を隔てていました。出エジプト記の最後では、イスラエルの代表であるモーセが、神さまの臨在がある幕屋に入れませんでした。レビ記はその根本的な問題を思い起こさせるように、《主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、》という言葉で始まります。

 罪と自己中心にまみれたイスラエルは、どうすれば聖なる神さまと和解ができるのでしょうか。それがレビ記のテーマです。
 つまり神さまは、寛大にも罪深く堕落した民が、きよい神さまと共に生きるための道を備えてくださるのです。 

 レビ記に入る前に、神さまのご性質である『きよさ=聖』をみます。これはレビ記を理解する上で極めて重要です。『きよい=聖』という言葉の意味は『分離されている』『他に類を見ない=他とは異なる性質』ということです。

 聖書において、神さまは、すべてのものの創造者。「全ての命の創り主」という、私たち人間の既成の枠にとらわれないご性質のゆえに、他のすべてのものから分離されています。そして神さまが『きよい』なら、身の回りの空間も『きよい』ということになります。それは神の『善』『生命』『純潔』『義』で満ちているからです。ですから、不正と罪にまみれたイスラエルが、神さまの聖なるご臨在の中に住むためには彼らも『きよく』なければなりません。彼らの罪の問題には解決が必要なのです。

2、レビ記の構造
 レビ記の構造は対称(シンメトリー)になっています。
 レビ記は、神さまがイスラエルをご自分の聖なる臨在の中に住まわせるために備えた三つの方法を記しています。最初と最後のセクションは聖なる臨在の中でイスラエルが守るべき『儀式』の手順についてです。その間は神と民との仲介者である『祭司』の役割についてです。そして、より中心はイスラエルの『きよさ』についてです。そしてこの書の中心に最も重要な儀式として『宥めの日』が記されており、このようにレビ記全体は一つにまとまっています。最後は、モーセがイスラエルに対して、『この契約に誠実であれ』と呼びかけて閉じられています。

3、レビ記のあらすじ
 (1)儀式の区分「1-7章と23-25章」
 最初の区分「1-7章」には、イスラエルが命じられた5種類の捧げものについて書かれています。そのうちの二つは感謝の捧げもので、神さまが与えてくださったものを記念して捧げるものです。残りの三つは、謝罪として捧げるものです。
 
 例えば一人のイスラエル人が神さまの造られた良き世界に、悪と死をもたらす罪を犯したことを告白する場合、動物の血を捧げるようなものです。

 神さまは、罪人を滅ぼすのではなく、赦したいと願っています。そこで罪の贖いを象徴するために動物が代わりに殺されるのです。この儀式を行う事によって、イスラエル人は神さまの恵みだけではなく、『神さまの義』、そして、自分たちの罪が招く結果の恐ろしさも、絶えず思い起こしていたのです。ここと対になっている区分「23-25章」では、イスラエルが毎年行う7つの祭り『過越し』『種なしのパンの祭り』『初穂の祭り』『五旬節」『ラッパの祭り』『宥めの日』『仮庵の祭り』に関する儀式があります。

 一つひとつの祭りは、神さまがエジプトの奴隷だったイスラエルをいかに救い出し、荒野を通らせ、どのように約束の地に導いたかと言う出来事の歴史の各部分を記念するためのものです。これらを毎年祝うことで、イスラエルは、自分たちとは何者で、神さまとは、どんなお方なのか思い出すことができるのです。

(2)祭司の区分「8-10章と21-22章」
 次に、祭司についての区分を見ます。イスラエルを代表して神さまの御前に出るようにと最初に任命されたのは、モーセの兄アロンとその息子達です。そしてこれと対になる区分「21-22章」には、祭司になるための資格が記されています。祭司は民を代表するのと同時に、民にとっては、神さまを代表する存在なのです。
 道徳的に、また、儀式的に、最大限の『きよさ』が求められます。初めの区分「8-10章」を見ると祭司の『きよさ』が、なぜ、そこまで大事なのかがわかります。
 アロンの家系が祭司に任命された直後、アロンの二人の息子たちは軽々しく神さまの御前に出ていき律法を踏みにじったのです。彼らはその場で滅ぼされました。この出来事は、神さまの『きよさ』の前で生きることの素晴らしさと、それを軽んじることの恐ろしい危険の両方を教えています。ですから、イスラエルの祭司が『きよく』あること、また、イスラエル全体が『きよく』あることは重要なのです。

(3)きよさの区分「11-15章と18-20章」
 次のより内側のセクションは、そのことについて述べています。11章から15章にかけては、イスラエル人に求められる儀式的な『きよさ」。18章から20章にかけては道徳的な『きよさ』について記されています。ここでは『きよい』ものと『汚れた』ものについて多く書かれています。

 神さまは『きよく』また『分離』された存在ですから、その御前に出て行くイスラエル人も『きよく』なければなりません。それが『きよい』『汚れていない』状態です。

 汚れた状態のものは、神の御前に出ることができず、その状態は『きよくない』「『汚れている』と呼ばれます。例えば次のような場合、その人は汚れていると見なされます。

 精液などに触れた者。皮膚病の者。カビや菌に触れた者。死体に触れた者。イスラエル人は、これらを「死」または「命を失う」ことの象徴と考え、さらに、「死に触れたものは汚れる」とみなしていました。

 死は、神さまのきよさの対極にあります。なぜなら、神さまは『命の源』だからです。

 ここで気をつけなければならないのは、汚れた状態になるのは、罪でも悪でもないということです。生活していれば起こりうることであり、汚れた状態は一時的で、一週間から2週間で終わります。本当に悪いことは、死や汚れを象徴するものを身にまとったまま、軽々しく神さまの前に出て行くことなのです。これは許されません。

 最後に特定の動物を食べることによって汚れる場合があります。この区分「11章」には、食に関する規定が書かれています。衛生上の問題や文化的なタブーなど、それらの動物がなぜ汚れているかという、仮説が今までたくさん立てられてきましたが、はっきりは分かりません。

 正しい基本的なメッセージは明らかです。これらは神さまの『きよさ』は彼らの生活の全てに及ぶということをイスラエルが思い起こすための文化的な象徴です。

 これに類似するのは道徳的な『きよさ』について書かれた区分「18-20章」です。イスラエル人はカナン人とは違う生き方をするために召されました。つまり貧しい者を見捨てずに気をかけ、性的にも高潔であり、自分達の国で正義を追い求めるためなのです。

(4)宥めの日(贖いの日)「16-17章」
 レビ記の真ん中には、イスラエルの祭りの一つである『宥めの日』についての記述があります。イスラエル人が一年を通して捧げる罪の犠牲の中で、どうしても生じる抜け落ちを補うため、年に1度行う儀式です。大祭司が2頭のヤギを取り、そのうち1頭は『きよめ』のための捧げもので、人々の罪を贖います。もう一頭はアザゼルのヤギと呼ばれるもので祭司がイスラエルの罪を告白し、その罪を象徴的に、このヤギに移して荒野に放ちます。
 このことからも、神さまが、イスラエルの民と平和のうちに一緒に暮らすために彼らの罪とその結果を取り除きたい御心がわかります。

 この書の最後26-27章は、ひと言でまとめますと、契約の全てに対して誠実であれというモーセの呼びかけで閉じられます。
 モーセはイスラエルが律法に従うなら平和と豊かさが与えられると述べ、もし不誠実で神の『きよさ』を軽んじるなら、彼らは滅び、やがて約束の地から追い出されるだろうと警告しています。

 次の書である民数記の最初の文章を見ると、
民数記1:1 《エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた、》
 つまり、モーセはイスラエルを代表して神さまの御前に出ることができたのです。
 レビ記に書かれていることが実を結んだのです。イスラエルの民は過ちを犯しましたが、神さまは、それを覆う道を備え、罪深い民と平和のうちに住むことができるようにしてくださったのです。

2022年7月31日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

【教会を離れてしまった兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに離れてしまった方々へ。理由は、いろいろあると思いますが、それより、「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ~」「礼拝へ出たいなぁ~」「賛美したい♪」と思っている方、ネットで礼拝に出席されませんか。
ネットの気軽さとコロナ感染の予防の観点から、礼拝と聖書の学びが出来るよう準備しました。
ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。
礼拝用のZOOMのIDとパスコードをお知らせ致します。

【人生に行き詰った方へ】
教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
教会や聖書の書かれていることに、ご興味ある方は、お問合せフォームからご連絡下さい。
礼拝用のZOOMのIDとパスコードをお知らせ致します。