ショートメッセージ【エリヤ③】

列王紀上18章30節-19章4節
(対決の答えとエリヤの疲れ)

1、対決の答は「主が神である。主が神である」 
2、大雨の音 
3、エリヤの燃え尽き症候群(バーンアウトシンドローム)

1、対決の答は「主が神である。主が神である」
 まず、30節を読みます。

18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。

 30節でバアルを礼拝していためにエリヤは《こわれている主の祭壇を繕った》とあります。祭壇の整備、建て直しは神さまの御業の絶対に必要なものです。
 33-35節を読みます。

18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。

 33-35節で3度の水注ぎによる行為は、神さまのお働きの確信があるからです。
 37-40節を見ます。

18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。
18:40 エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。

 37節の民の回心を望む祈りの誠実さは民の39節で繰り返して《「主が神である。主が神である」。》の告白を生じさせています。40節では、このチャンスを逃すことなく、エリヤはバアルの預言者を一掃します。そして、アハブのことは書かれていませんから、おそらく頭も体も動かない状態だったのでしょう。

2、大雨の音
 41節を読みます。

18:41 エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。
18:42a アハブは食い飲みするために上っていった。

 18章1節で神さまがエリヤに告げられた通り、アハブに告げています。そして、何のための《食い飲み》かはわかりません。考えられるのは、儀式的な意味かもしれません。ここで重要なのは雨を見せることです。ですから《「大雨の音がするから、上って行って》と書いてあります。敗北したバアルに意気消沈したアハブを高いところで雨雲を見せ、予告した《大雨の音》の後に雨が降るという最後の決着を見せることです。

18:42b しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、
18:43 彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。
18:44 七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。
18:45 すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。
18:46 また主の手がエリヤに臨んだので、彼は腰をからげ、エズレルの入口までアハブの前に走っていった。

 しもべが上って行って海を見ても雨の様子は全くありません。
 ここも注目すべき点です。エリヤの祈りです。淡々と述べられていますが、緊張感が伝わる祈りと7度にわたる確認作業です。そして45節で大雨となりました。45節のエズレルにはアハブの別の宮殿(21:1)があり、44節の《「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。》の助言は、結果的にエリヤがエズレルの宮殿へ送り届けるような形になっています。
 これまでのエリヤのアハブへの対応は、甘いと言いますか。包容力をもって接しているように見えます。
 この先を読むとわかるのですが、21章25節で《・・・その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。》とあります。エリヤは、イゼベルこそが罪の根源と考えていたようで、アハブの回心を期待していたかもしれません。それは46節《また主の手がエリヤに臨んだので》とあり、車に乗っているアハブと同じぐらい早く足で走りました。

3、エリヤの燃え尽き症候群(バーンアウトシンドローム)
 私たちは前回、エリヤがバアルの預言者四百五十人の対決を見ました。牛に火がつくように、各々の信仰する神さまへ祈ったところを読みました。
 バアルの預言者四百五十人が一日中祈っても、何の変化もありませんでした。しかし、エリヤが祈ると、主である神さまからの火によって、いけにえも、石も焼き尽くし、みぞの水もなめつくしてしまいました。そして、エリヤはバアルの預言者四百五十人を殺しました。

 また、この後、神さまに、雨が降るという語りかけのために祈り始め、雨が降ることがわかったエリヤはアハブ王に、《『雨にとどめられないように車を整えて下れ』》と命じました。

 19章1節では、イゼベルは〔かかあ天下〕なのか、アハブがイゼベルに対して依存心があるのか、イゼベルに起こった事すべてを告げます。
 19章1-2節を読みます。

19:1 アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、
19:2 イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。

 イゼベルは翌日の今ごろエリヤを殺すと脅しています。
 18章でのエリヤの戦いはバアルとの対決であり、アハブへの恐れはなく、逆に言えばアハブがイスラエルの本当の神さまへ信仰を持つよう強く促しています。アハブがイゼベルに告げ、イゼベルが自らエリヤに使者を遣わすのは、エリヤの真の相手はアハブではなくイゼベルであることを示しています。イゼベルはアハブの妻となり以降、バアル宣教に使命感を持ってアハブを指導していたのでしょう。
 3-4節を読んでエリヤの様子を見ます。

19:3 そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、
19:4 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。

 一種の燃え尽き症候群(バーンアウトシンドローム)の状態です。厚生労働省のサイトに“生活習慣病予防のための健康情報サイト”と言うところに、燃え尽き症候群の解説があるので紹介します。
 「それまで意欲を持ってひとつのことに没頭していた人が、あたかも燃え尽きたかのように意欲をなくし、社会的に適応できなくなってしまう状態のことをいいます。

 絶え間ない過度のストレスにより発生し、うつ病の一種とも考えられています。朝起きられない。職場に行きたくない。アルコールの量が増える。イライラが募るなどの症状がみられ、仕事が手につかなくなり対人関係を避けるようになります。病気に対する抵抗力も低下し、人生に対して悲観的になることから、家庭生活の崩壊や最悪の場合には自殺や過労死に至ることもあります。」とありました。

 ここでのエリヤの《恐れ》の対象を考えますと、今まで対決してきたバアルやアハブ王ではないようです。やはり、使者を遣わしたイゼベルです。では、イゼベルの何を《恐れ》たのでしょう。(3節の《恐れて》は、ヘブル語では「見て」となります。)
 エリヤは、バアルは空しい偶像だと分かっています。そしてアハブ王に対してはイスラエルの神さまへ信仰を持つように促している考えです。そうするとエリヤの内に湧く《恐れ》イゼベルとなります。

 2節のイゼベルの言葉《・・・神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。》は、強い誓いの言葉です。
 夫アハブから告げられたエリヤと神さまのお働きの内容は、普通の人だとエリヤの背後に力をもってお働きになる神さまに恐れを抱くでしょう。

 しかしこの異邦の女イゼベルの宗教的熱心さと権勢欲、さらにイスラエルの神さまの預言者への執念とも言える迫害。また、実際、神さまの預言者の多くを殺したイゼベルですから、エリヤはイゼベルと言う人物に対して何を考えて何をしだすか分からない気味悪さと戸惑いを感じていたのは間違いないでしょう。

 18章でエリヤは、圧倒的な勝利をしたのにもかかわらず、4節のエリヤの祈りは、疲労困憊だったと言えます。しかし、神さまにこのような祈りが出来るのもエリヤは、神さまを信頼し交わりが深かったからです。

2023年5月21日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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