ショートメッセージ【エリヤ⑦】

列王紀下2章1-17節
(召されたエリヤ)
1、預言者グループへ別れを告げるエリヤ
2、《預言者のともがら》とは
3、召されるエリヤ
 

1、預言者グループへ別れを告げるエリヤ
 列王紀はイスラエルの王様の記録です。その列王紀の中で預言者エリヤとエリシャの事が多く書かれています。両者とも北王国にかかわっていますが、それは北イスラエル王国の偶像崇拝や神さまへの背きで、荒んだ状態とそこにご介入せざるをえない神さまの憐れみがあるからです。
 2章1節をお読みします。

2:1 主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。

 預言者エリヤの最期は、奇抜で不思議な召しでした。
 続けて2章2節を読みます。

2:2 エリヤはエリシャに言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをベテルにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはベテルへ下った

 この2節と4節(エリコ)、6節(ヨルダン)の3回、エリヤはエリシャを離そうとします。しかし、エリヤとエリシャは共にベテル、エリコ、ヨルダンへ行きました。
 エリヤがエリシャを連れていったのは、ベテルとエリコでは、預言者たちと会うため、ヨルダンでは最後の別れの奇蹟に立ち会わせるためでした。
 
2:3 ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。

 《預言者のともがら》の情報に対してエリシャの応じた《はい、知っています。あなたがたは黙っていてください》は、このようなやり取りは、このベテルの預言者グループだけではなく、エリコの預言者グループでもありました。
 これらは、愛する先生であるエリヤが召されることの覚悟を固める葛藤が描かれています。

2、《預言者のともがら》とは
 列王紀上19章18節を読みます。

19:18 また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。

 以前、エリヤがシナイ山で神さまの声を聞いたとき、この19章18節の御言葉を告げられました。
 2章に登場する預言者たちも、おそらく残された人たちです。エリヤは自分の任務を終え、挨拶を兼ねてでしょう。預言者としての後継者をエリシャとすることを他の預言者たちに知らせに行きました。
 もう一度、3節を読みます。

2:3 ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。
 
 《ベテルにいる預言者のともがら》とありますが、5節には《エリコにいた預言者のともがら》、7節では《預言者のともがら五十人》とあります。
 《預言者のともがら》は、預言者の親しい仲間という意味ですが、 
 《ともがら》は、 בְנֵֽי־ 「ベン」息子や若者と言う意味もあります。
 原文では“預言者の子たち”となります。英文のKJVでも“sons”と訳されています。

 この《ともがら》ですが、このことからエリヤやエリシャが預言者学校のようなものを作ったという解釈がありますが、ここではあまり深堀りはしません。
 旧約聖書全体の文脈と、サムエル記から続く書物としての文脈から少し考察します。

 預言者は、モーセやサムエルの働きからもお分かりのように、直接神様が選ばれてその仕事を託される者です。そのような人たちの中には聖書に名前が記録されていない預言者も含まれています。

 王や祭司は、世襲はありますが、預言者は、世襲はありません。そこで列王紀の前の書物であるサムエル記から考えますと、サムエル記上3章1節《わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。》と記されています。ですから、サムエルの他に、同様な力のある預言者が出てくるのは、後のことであると考えられます。

 サムエルが生きて活躍していた時の記録には、サムエルのような預言者は現れていません。
 しかし、預言する人々の一団は登場してきます。サムエル記上10章5節《その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。》この預言する人々の群れは、サウル王の任命に関する根拠としての予見的記述です。おそらく礼拝を終えた人々が、ご聖霊の導きを受け一致して楽器に合わせて神さまを賛美する様子も《預言しながら》と表現されています。

 サムエル記上19章20節には《サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。》預言者の一群のリーダーはサムエルと書いています。

 彼らはサムエルの指導の影響下にあったと考えられます。
 サムエルは当時、預言者として人々に神さまの言葉を教えるために、イスラエル内を巡回していました。
 途中、深い信仰や神さまへの高い志を持った人々の中から、神さまに導かれた人々を集めたか、集まったなどしてサムエルが律法や神さまの御心を丁寧に教えた後に、その事を理解した信仰者たちの群れが一群となり、サムエルが、彼らを巡回に派遣したということが考えられます。

 列王紀でエリヤやエリシャが預言者を養成したような記述が無いことから、エリヤやエリシャ、そして彼らと共にいた《預言者のともがら》もサムエルが巡回し、神さまの言葉を教え、それらを忠実に行う信仰者集団の系統であったと考えるのが自然です。

3、召されるエリヤ
 最後にエリヤに戻ります。列王紀下2章8-17節です。

2:8 エリヤは外套を取り、それを巻いて水を打つと、水が左右に分れたので、二人はかわいた土の上を渡ることができた。
2:9 彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。
2:10 エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
2:11 彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
2:12 エリシャはこれを見て「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、再び彼を見なかった。そこでエリシャは自分の着物をつかんで、それを二つに裂き、
2:13 またエリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。
2:14 そしてエリヤの身から落ちたその外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言い、彼が水を打つと、水は左右に分れたので、エリシャは渡った。
2:15 エリコにいる預言者のともがらは彼の近づいて来るのを見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言った。そして彼らは来て彼を迎え、その前に地に伏して、
2:16 彼に言った、「しもべらの所に力の強い者が五十人います。どうぞ彼らをつかわして、あなたの主人を尋ねさせてください。主の霊が彼を引きあげて、彼を山か谷に投げたのかも知れません」。エリシャは「つかわしてはならない」と言ったが、
2:17 彼の恥じるまで、しいたので、彼は「つかわしなさい」と言った。それで彼らは五十人の者をつかわし、三日の間尋ねたが、彼を見いださなかった。

 エリヤとエリシャが歩んだ道は、ギルガル → ベテル → エリコ → ヨルダン川の西側 → ヨルダン川の東側です。 
 ここでエリヤは《エリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。》のです。
 エリシャもヨルダン川を渡り、エリヤの霊の二つの分を分け与えられて、引き返す時に、水を打ち、水は左右に分かれて渡ります。

 エリシャは旧約聖書に登場する預言者のなかで、最も多くの奇蹟を行った預言者です。エリシャの働きにはエリヤに勝るものがあります。

 聖書を読みますと「主の名によって」と言いながら、目の前にいる王の気に入るようなことを言うだけの偽「雇われ預言者」はいました。
 しかし、真の預言者は迷いなく神さまのお言葉に従い王を批判します。このような神さまに仕える真の預言者のモデルがエリヤでした。この真の預言者の系譜を後代に継承することもエリヤの役割であり、それをエリシャに託すことも使命でした。

2023年6月18日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:戀田寛正

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