ショートメッセージ【イザヤ①】

イザヤ書1-6章
(正義感に満ちた若きイザヤ)

1、イザヤの背景
2、イザヤの召命

1、イザヤの背景
 イスラエルの王さまは、まことの神さまに仕え、民に神さまを示し、また、異国の民、諸外国にも、まことの神さまを知らせる役割がありました。しかし王国時代が進んで行くと、王さまが神さまを示すという宗教的、信仰的指導者という役割が軽んじられて、立てられた王さまは、もっぱら政治的指導に専念するようになります。

 イスラエルの民には律法が与えられていましたので、本来であれば、律法によって神の民として育てられていくはずでしたが、その律法を生活に活かすことができなくなっていました。
 そこで神さまは預言者を派遣し、民の罪を指摘し、悔い改めを迫り、また神さまにある希望を知らせたのでした。

 一方、預言者は、政治的な背景はありません。王さまや民が自分たちの気に入らない預言をすると、邪魔者扱いをされ、迫害を受けることもありました。しかし、神さまの言葉を曲げて伝えることはできませんから、板挟みとなって非常に辛い立場に置かれることも多かったようです。
 イザヤ書1章1節を読みます。

1:1 アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻。

 1章1節より、イザヤは、すでに見てきた預言者ホセアやヨナとおおよそ同じ時代、それより少し後に、南ユダ王国で預言した預言者であったことが分かります。つまり北イスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされる時が刻々と近づいている時でした。

 また、イザヤが預言を始めた、ウジヤ王の晩年は、南ユダ王国がこの世的には繁栄していました。しかし、人々の心は神さまから離れ、民の信仰は形式だけとなり、社会の不正が当たり前のようになっていた時代でした。 

 神さまが当時の人々を霊的(神さまへの信仰)には、死んでいるものと同然とみられ、神さまからの厳しい警告がイザヤ書1-5章に記されています。その中で、神さまがイスラエルの民を選ばれた壮大なご計画、その期待を裏切ったイスラエルの民、それでもなお、神さまが民を見捨てず、残りの者に期待をかけられることが示されています。

 また、民の高ぶり(2章12節ほか)が霊的破滅をもたらした原因であることも記されています。
 イザヤ書1章2-5節を読みます。

1:2 天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3 牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。
1:4 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。
1:5 あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、なおも打たれようとするのか。その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。

 民は、神さまの前に家畜以下であり、数えきれないほどの悪を重ねて神さまに背いている状態が示されています。
 イザヤ書1章11-13節を読みます。

1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。

 神さまは、「もう、ささげ物をするな」と言っています。如何に礼拝が心なく、形ばかりになっていたかが窺えます。それでいて民は、信仰を守っていると自負してささげものをし、礼拝を献げている=信仰を守っていると自負していました。

 24-28節を読みます。

1:24 このゆえに、主、万軍の主、イスラエルの全能者は言われる、「ああ、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、わがあだにむかって恨みをはらす。
1:25 わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く。
1:26 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」。
1:27 シオンは公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は、正義をもってあがなわれる。
1:28 しかし、そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、主を捨てる者は滅びうせる。

 神さまは厳しい警告を与えるだけでなく、信仰とは言えない信仰で生き、他の神々に迷わされている、どうしようもない民に容赦のない裁きをなさると言われます。神の民すべてが厳しい試練の中を通されることになると言います。しかし、悔い改め、きよめられ、元の神さまに忠実な信仰を示す町に回復させると言われているのです。
 これが残りの者=レムナントと呼ばれる思想です。イザヤ書ではこれが明確に示されています。

2、イザヤの召命
 この6章の、イザヤの預言者としての召しの体験が、最初のものであるのか、預言者として活動し始めてから再召命であるのか、意見が分かれる所です。ここでは後者の再召命として受けとめていきます。

 そう考えますと、これまですでに神さまの預言者としての働きをしてきたイザヤに、どうして神さまはあらためて幻を見せられたのでしょうか。それは預言者イザヤを聖別して、更に大きく用いるためであったと考えられます。
 イザヤ書6章1-7節を読みます。

6:1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
6:2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
6:3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
6:4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

 ここで注目すべきは点は、3節の《聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな》と3回繰り返されている言葉です。イザヤは、神さまの聖なる体験で、自分が如何に、汚れた者であるかを示したのです。
 そしてもう1つの注目する点は、7節の《あなたの罪はゆるされた》です。イザヤには明らかに罪があったということです。そしてそれは《聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな》の神さまとの対比で明かにされたのです。

 ではイザヤの示された罪は何だったのでしょうか。これは想像するしかありません。もちろんすべての人は罪人です。しかし、わざわざこの6章に来てこの記事が挿入されていることを考えれば、1-5章の過程でイザヤの中に生じた罪と考えるのが自然でしょう。

 ヨナは、神の民イスラエルの敵国であるアッスリヤに、憐れみを示す神さまに腹を立てていました。それは人間的な正義感からでした。しかし、神さまだけが人を裁くことができるお方です。神さまに成り代わって自分の正義感で人や国を裁くことはできません。

 イザヤもここまで神さまの預言を民たちに伝える中で、あまりにも不信仰なイスラエルの民の姿に対して、正義感による怒りが湧いてきたとしてもおかしくはないでしょう。つまり、「神さまは、このような民を、見捨てられた方が良いのではないか。」という思いです。

 そこで神さまは、イザヤにこの幻を見せられました。民よりも自分の方が信仰的だと思っていたイザヤに、神さまと自分を比較したときに自分は人を裁く側に立つことができる程、“きよくない”ことを分かりやすく示されたのでした。

6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

 《「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。》との神さまの御声に、これまでの高ぶりを悔い改めたイザヤが、「ここにいる私ではダメですか。この私を派遣させていただけませんか」と答えています。

 そして、「これからあなたが語ることを民は、頑なに拒み続けて、その愚かさを見続けることになるが、それでも行くのか。」という神さま問いかけに、それが神さまの御心だと考えなかったイザヤは、「いつまでですか」と聞きました。

 神さまは、イスラエルの町々が荒らされて、人々が捕囚され(北イスラエルがアッスリヤによって滅びること)、イスラエル全体の10分の1ほどの南ユダは残されるが、やがて、これも焼き滅ぼされて、切り株だけが残るといわれました。
 つまり、バビロンに補囚されて後に、イスラエルに帰ってくるのは、その内のわずかだけとなることが言われています。これが残りの者=レムナントです。

 イスラエル全体の中には、いつの時代も最後まで信仰を持ち続ける者が残されています。それが切り株であり、聖なる切り株がメシヤ=救い主であるイエス・キリストを指しています。

 神さまを信頼し、神さまの助けと祝福をいただいたイスラエルの民は、その信仰体験から学び、神さまとの関係に活かすことができませんでした。そして形だけ、見せかけだけの信仰に陥っていました。そうなると霊的な祝福も無く、霊的な信仰体験すら出来なくなって、“残りの者”になることはできません。

 私たちはそんな聖なる残りの者。イエス様の愛と恵みをいただいた者として、その祝福の体験から学び、それを日々の暮らしに活かしていくことを何より神さまが望まれています。
 それには、本日見たイザヤにも生じた高ぶりの心を“聖なる 聖なる 聖なる”神さまに砕いていただいて、悔い改めに早い者であることの大切さを教えられています。神さまはどこまでも“聖なる 聖なる 聖なる”お方であることを忘れてはいけないのです。

2023年8月20日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

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