素直に読む【ヨハネの黙示録_3】

ヨハネの黙示録1章9-20節
「イエス・キリストは教会の真ん中におられる」

〈ふりかえり〉
 前回、イエス・キリストは来られるとして、1章1-8節を見て来ました。
 イエス様は三位一体の神さま。
 イエス様は、死からの新しいいのちの誕生を成し遂げ、死が死であることの人への恐怖を取り去り、私たちを死への完全な勝利者とされました。そのイエス様は、私たち1人1人を愛し続けてくださる。

 その血によって私たちを罪から解放してくださった(過去形、イエス様の十字架刑、死、葬り、復活の過程1回で終わらせてくださった)ということ。
 そのことによって、私たちは罪から自由にされ、また、死からも自由にされて、地上のイエス様の国、千年王国で、その国民としてくださるだけでなく、私たちが、祭司として仕える栄誉ある働きをご用意してくださっている。と言われています。

 そのイエス様が、《「わたしはアルパであり、オメガである」。》(黙示録1:8)と言われます。
 アルパとして、《神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。》(創世記1:31)と、天地創造をはじめられたイエス様は、私たちを導き、私たちのオメガとして、どんなことがあってもご自身の計画を最後まで達成されるのです。私たちをはじめ、世界の被造物が《それは、はなはだ良かった。》ものとして、御国に置いてくださる。と言われています。

 ヨハネは、そのイエス様が、必ず来られる、今にも来られようとしているのだから、希望を見出しなさい。元気を出しなさい。慰めを受けなさい。と言われた、恵みに満ちた個所を見てきました。

 今日は、そのあと、1章9節から20節、「イエス・キリストは教会の真ん中におられる」というテーマで見ていきます。

〈本文〉
 ヨハネの黙示録1章9節を読みます。

1:9 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

 ここはヨハネの語りかけです。自分も(手紙を読んでいる、聞いている)皆さんと同じ、苦難と忍耐に与っています。同じところに、迫害の中に立っていると優しく語りかけ、聞き手に聞く耳を持たせています。しかし、悲壮感を漂わせていないのは、それが、イエス様の苦難と忍耐なのだ。イエス様の救いに与っているためのもので、やがてイエス様の御国での喜びに変えられる苦難と忍耐なのだと言っているからでしょう。

 そして、聞き手を励ます言葉を選んでいます。そして、臆することなく、神さまの言葉とイエス・キリストを証したが故、今、パトモス島にいると、その経緯は詳しく語られていませんが、そのようにヨハネ自身を紹介しています。
 1章10節

1:10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

 《主の日に御霊に感じた。》この主の日は、週の初めの日、日曜日のことです。御霊を感じたということころは、原語の文法的には「御霊の中にいた。」と書かれています。周囲の世界から切り離されて、見てはいるが、肉体の目ではなく、聞いてはいるが、肉体の耳によってではない、霊的な直接的交わりの中で、神さまの幻を見聞きしていたのです。
 1章11節

1:11 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。

 そして、ヨハネはその声の言うとおりに、受けた幻を書き留めて、手紙として七つの教会に書き送りました。
 1章12-16節

1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

 13節で書かれている《人の子のような者》の姿。
 不思議な表現ですが、旧約聖書ダニエル書7章9-14節、また、同じくダニエル書10章5-6節の言葉と似ています。
 ヨハネ自身、ダニエル書にとても親しんでいたのだと思われます。(以下に転載します)

 ダニエル書7章9-14節

7:9 わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。
7:10 彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。
7:11 わたしは、その角の語る大いなる言葉の声がするので見ていたが、わたしが見ている間にその獣は殺され、そのからだはそこなわれて、燃える火に投げ入れられた。
7:12 その他の獣はその主権を奪われたが、その命は、時と季節の来るまで延ばされた。
7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
7:14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

 ダニエル書10章5-6節

10:5 目をあげて望み見ると、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、ウパズの金の帯を腰にしめていた。
10:6 そのからだは緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足は、みがいた青銅のように輝き、その言葉の声は、群衆の声のようであった。

  黙示録1章13節で、ヨハネは確かに振り向いて、“人の子”、イエス様を見ました。しかし、その容姿は、かつてヨハネが知っていた、自分を愛してくださった、また、地上での数々のはずかしめを忍ばれた、そのイエス様のお姿とは全く異なっていました。だから、ヨハネは、《人の子のような者》としか表現できませんでした。なぜ、お姿が違っていたのでしょう。

 それは、ここに描かれている人の子、イエス様は、ご自身の教会を聖め、キリストに従わない者、反キリストをさばき、罰するイエス様。
 力と、権威と、恐れを身にまとわれたお姿であったということなのでしょう。

 13節の服装ですが、足まで垂れた長い上着に金の帯、それが腰ではなく胸で留められている。
 王であることを示す長い衣であり、また、腰ではなく、胸の位置で、帯を留めるのは祭司服の特徴です。

 王でもあり、祭司でもあるイエス様を示しています。そして祭司として、私たちの教会の礼拝をとりなし、神さまにお献げするものとして成立させてくださっているということでしょう(教会においてイエス様が祭司として働いてくださっている。御国では、私たちがその祭司と言われている。教会における祭司としては、まだ、私たちには成長の余地がある)。

 14節は、朝日に照らされて輝く雪のように、目もくらむほど白く輝く髪の毛、心という心を読み取り、残らず見通す燃える炎のような目。

 15節は、悪しき者たちを踏みにじる炉で精錬され真っ赤に燃える真ちゅうのような足、岩に砕ける大波のようにとどろきを上げて響き渡る声。

 16節は、口から出る両刃の鋭い剣、これは、キリストに従わないものを悔い改めに導き、また裁く、そしてサタンをも切り刻む、御言葉の剣でしょう。

 ヘブル人への手紙4章12節を読みます。

4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

 続けて16節、そのお顔は、強く照り輝く太陽のように強烈で、人の目をもって見つめることのできない、見続けることのできないものとして描かれています。⇒神さまの栄光に輝くお姿。
 ヨハネの黙示録1章17-20節を読みます。

1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。
1:20 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。

 17節でヨハネは、イエス様の足元に倒れて死人のようになりました。そのあとイエス様から、《「恐れるな。…」》と声をかけられていますので、倒れて死人のようになったのは、イエス様のお姿に恐れを抱いたからだったと考えられます。また、恐怖もあったでしょうし、じっと見続けることのできないほど輝く神さまとしての栄光と、力と権威を崇め敬い、息が止まるほどに、ひれ伏さざるを得なかったのでしょう。

 ハバクク書3章13節と16節を読みます。

3:13 あなたはあなたの民を救うため、あなたの油そそいだ者を救うために出て行かれた。あなたは悪しき者の頭を砕き、彼を腰から首まで裸にされた。〔セラ

3:16 わたしは聞いて、わたしのからだはわななき、わたしのくちびるはその声を聞いて震える。腐れはわたしの骨に入り、わたしの歩みは、わたしの下によろめく。わたしはわれわれに攻め寄せる民の上に/悩みの日の臨むのを静かに待とう。

 しかしイエス様は、ヨハネに恐れを抱かすためではなく励ましに来らました。
 そして、イエス様は、ヨハネに励ましの言葉をかけられています。

 ヨハネの黙示録1章17節途中から18節まで《すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。》とあります。

 イエス様は、黙示録1章8節に続き「はじめたのはわたしで、わたしが終わりまでも守る。そのわたしは、生きている者」と2回言っています。
 2回目は、永遠に生きている者であると言っています。そして、そのお方が、死と“よみ”との鍵を持っていると言っています。死んだもの魂が行く場所が“よみ”です。

 “よみ”についてですが、日本語聖書では、出版社によって表現が少し異なります。
 旧約 ヘブル語:シェオール、 新約 ギリシャ語:ハデス
 口語訳:旧約 陰府(よみ)、新約 黄泉(よみ)
 新改訳2017:旧約 よみ、新約 よみ
 新改訳第3版:旧約 よみ、新約 ハデス
 新共同訳:旧約 陰府(よみ)、新約 陰府(よみ)
※ゲヘナ(地獄)は、最後の審判(白い御座の裁き)のあと第二の死(永遠の滅び)を迎える場所。

 死は、人々を“よみ”に閉じ込めてしまいます。しかし、イエス様は、それをこじ開けて出てこられた。そして今は、その鍵をお持ちであると言われている。
 詩編16篇10節を読みます。

16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。

 ダビデが、この箇所をイエス様のことを指している(この詩篇がメシア詩篇)ことは、使徒行伝2章25-28節に記されています。

 召されたキリスト者(クリスチャン)の魂は、“よみ”に捨て置かれず、イエス様の管理のもとにあるのです。
 “よみ”の管理人として、“よみ”でイエス様が近くで見守られているのか、他の場所でイエス様とともにあるのか、いずれにしても、死んだキリスト者は、イエス様とともにある平安をいただいているのでしょう。
 
 イエス様が、死んだ者の魂を閉じ込めておく、黄泉の鍵をもっているのだから、イエス様にある者も、黄泉に閉じ込めておかれることはない。

 死に勝利し、死から必ずよみがえる、イエス様が黄泉の鍵を開けて、よみがえらせてくださる。そう約束されるイエス様は、今、生きておられるのです。世々限りなく生きておられるのです。

 永遠の黄泉の管理人であり、終わり=オメガの存在であるので、最後の最後まで、完全に、約束通りに、キリストにあるものを1人残らず、御国に案内するのであると言われています。
 そう言って、イエス様はヨハネを励まし、それを記した手紙の朗読を聞いた、迫害にある教会、キリスト者が励まされ、今も聖書によって、全世界の教会が励ましを受けているのです。

〈おわりに〉「イエス・キリストは教会の真ん中におられる」
 最後に、「イエス・キリストは教会の真ん中におられる」と言うタイトルでまとめたいと思います。
 20節で、7つの星は7つの教会の御使いで、7つの燭台は7つの教会である。と明かされています。
 1つの教会に1人の天使がついていて、教会を見守り、イエス様との間をとりなしておられる。その天使をイエス様がその力ある右の手でしっかりと支え持っておられる。教会はそのようにして見守られているのです。

 そして、13節《それらの燭台の間に》イエス様がおられると書かれています。
 この「間に」とやくされていることばは、「 μέσος (メソス)」中央にある、真ん中のという意味です。
 イエス様は、7つの教会の真ん中に立っておられ、この7つの教会は、全世代の全世界の教会をあらわしていますから、イエス様は、すべての教会の真ん中におられるのです。

 教会を見守り、そして祭司として、私たちの教会の礼拝をとりなし、神さまにお献げするものとして礼拝として、成立させてくださっているのです。
 なんと、幸いなことでしょう。

 いつでもイエス様は、教会、信じた者の真ん中におられるということなのです。

 マタイによる福音書18章20節でも約束されています。《ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。》ということです。
 ここで《その中》と訳されている言葉にも、13節と全く同じ言葉「 μέσος 」中央にある、真ん中という意味の言葉が用いられているのです。

 ここでは、“中”という前置詞「 ἐν 」(英語でin)も併せて用いられていますから、「二人か三人が、わたしの名において集まっているところには、わたしイエスが、皆さんの輪の真ん中のその中にいますよ」と言っておられます。

 いつでも教会や私たちの集いの真ん中におられ、父なる神さまの前に祭司として、とりなしてくださっているイエス様が、おられる、わたしはそうして、キリスト者を、教会を励ましている、支えている、父なる神にとりなしている、死を、黄泉を、貫くいのちに導いているとイエス様が励ましてくださっているのです。

 さらに、すべての教会に、私たちに、御使いをも遣わしてくださっているのです。その御使いたちを、イエス様が力ある右の手(神の右の手=力の象徴)で、保っておられるのだよと言ってくださっています。

 私たち、キリスト者、教会にとって、これ以上の励ましはないのではないでしょうか。

2023年8月25日
尚徳牧師の素直に読む【ヨハネの黙示録_3】
タイトル:「イエス・キリストは教会の真ん中におられる」
牧師:香川尚徳