ショートメッセージ【イザヤ②】
イザヤ書7-12章、歴代志下28章
(メシヤによる恵みを家族で証しするイザヤ)
1、アハズ王
2、インマヌエル
1、アハズ王
まず、最初にイザヤ書7章1-4節を読みます。
7:1 ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができなかった。
7:2 時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。
7:3 その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、
7:4 彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
南ユダ王国のウジヤ王の孫にあたるアハズが王の時のことです。この状況は、スリヤ(アラム)とエフライム=北イスラエル王国とが、強国アッスリヤに対抗するために、南ユダ王国に3国同盟を結ぶように持ち掛けましたが、南ユダ王国がそれを断ったので、スリヤと北イスラエルの連合軍がユダ攻めてきたと考えられています。そして王も民もその心が激しく動揺したのです。
歴代志下28章1-2節を読みます。
28:1 アハズは王となった時二十歳で、十六年の間エルサレムで世を治めたが、その父ダビデとは違って、主の良しと見られることを行わず、
28:2 イスラエルの王たちの道に歩み、またもろもろのバアルのために鋳た像を造り、
アハズは歴代志で、神さまの御心に背く王であったことが紹介されています。ユダの民の霊性(信仰心)は、ウジヤ王やヨタム王の時よりも、さらに悪化していたことは想像に難くありません。
イザヤは、神さまのお言葉を語れば語るほど、民の霊性が悪化するのを目の当たりにしながら、神さまのお言葉を伝えにアハズ王のもとに行っています。このような王にも神さまは預言者を遣わせて、導きを与えているのです。
そして、このような状況に《気をつけて、静かにし、恐れてはならない。》と伝えて、神さまを信頼するようにと導いておられるのです。さらに確かな神さまのしるしを求めて良いとまで言われています。
アハズ王に、神さまへ立ち帰る機会を与えられているのです。
イザヤ書7章11-12節を読みます。
7:12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
7:13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。
そこまで言われる神さまに対してアハズは申し出を断っています。このアハズの言葉は、神さまにしるしを求めてはならないとする信仰的な立場で、神さまを恐れているのではなく、アハズ王が全く神さまに頼る気がなかったからでしょう。
イザヤがアハズ王に会いに行けと言われた場所は、《布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端》(7:3)でした。この場所はエルサレム郊外にあるギホンの泉のことであり、この泉からエルサレム城内に水を引いていたと思われます。国家存亡の危機にあたって、アハズ王は水源の確認に行っていました。
アハズ王は神さまに頼らず、人の知恵に頼る王でした。
歴代志下28章16節を読みます。
28:16 その時アハズ王は人をアッスリヤの王につかわして助けを求めさせた。
アハズ王はアッスリヤに近い政策をとっていたので、この時もアッスリヤと共同して、スリヤ(アラム)と北イスラエルを挟み撃ちにする密約がなされていたのかもしれません。
神さまは、アハズ王の動揺する心を見て、神さまに頼り、神さまに立ち帰るようにイザヤを遣わしましたが、アハズ王の自分自身の思い、人の知恵に満ちた頑なな心は、その機会をはねのけてしまいました。
アハズの、この行動がイザヤ7章13節で語っている、《あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。》という行為でした。
神さまに頼るよりも、自分の考えや力に頼み、世の力に頼ろうとする。また、人を恐れ、状況を恐れて、神さまに助けを求め信頼しようとしない。
人はどこまで行っても、神さまを煩わせる存在であると思わされます。
箴言29章25節では、
29:25 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
とあります。
2、インマヌエル
神さまは、アハズ王や民に対して、不信心の愚かさを気付かせるために、国家存亡の危機になさいました。自分たちの力に頼る愚かさを悟り、主に頼り主を仰ぎ見る者となるように気づきを与えるためでした。
神さまは今の民だけではなく、ダビデの家全体(イスラエルの民全体)として、長い目で見ておられました。預言の“しるし”を受けとめようとしないアハズに対して、ここで一方的に示されているのが、“メシヤ=イエス・キリストの誕生”の預言でした。
イザヤ書7章14-16節を読みます。
7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
7:15 その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。
7:16 それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王の地は捨てられるからである。
乙女から男の子が産まれ、インマヌエル(神はわれらとともにおられる)と呼ばれるようになり、その子が、善悪の判断ができる時までの幼い時までに、スリヤ(アラム)と北イスラエルは滅ぼされる。これがインマヌエルの実現の“しるし”だと言われました。
7章14-16節の前の7章9節では《もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない》と言われていました。
このような明確なしるしが示されたにもかかわらず、アハズ王はアッスリヤを頼ります。それで、この危機を逃れたかのように見えたのですが、今度はアッスリヤに悩まされ、辱しめを受けることになるのでした。
7章と8章から、イザヤには奥さんがいて2人の子供がいたことが記されています。
1人はシャル・ヤシュブ(残りの者が帰ってくるの意)、もう1人はマヘル・シャラル・ハシ・バズ(分捕りものは素早く、獲物はさっと持ち去られるの意)でした。
これは近い将来、スリヤとエフライム(北イスラエル)の分捕り物がアッシリヤによって、素早く奪い去られる裁きとそして、残りの者が帰ってくる救いを意味していました(イザヤ8章4節)。
イザヤ書9章6節を読みます。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
続けてイザヤ書11章1-2節を読みます。
11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
ダビデの子孫から救い主が生まれ、その救い主(メシヤ)の上に神さまの霊がとどまり、それがメシヤ(メシヤ)にとって必要な能力であることが語られています。
アダムとエバが罪を犯した時点で、人間は、もはや再生不可能で、聖なる神さまから見て、受けいれ難いものになりました。しかし神さまは、そのような人間を、ご自身の喜びとなるように、神さまが最初にご創造された、罪なきかたちを取り戻させようとされたのです。
そこで、アブラハムがイスラエルの父祖として選ばれ、アブラハム家族からイスラエルという民族となり、導かれ、力を注ぎ続けられました。しかしその甲斐なく、完全に滅びる一歩手前まで来ていました。
神さまは、それでもあきらめられず、イザヤを通して、民族の中の一部でも残りの者として、なお再生に導き続け、救い主=メシヤを遣わせ、救われて神さまの恵みの深さを抱くことができる人を導かれました。これがイザヤの預言です。
ここで、メシヤ預言が語られ、メシヤによってもたらされる救いが、どんなに素晴らしいものであるかを残りの民に向けて示されています。
ここでの残りの民とは、自分が神さまの前に価値のない人間であることの本質を悟らされ、神さまへ完全に信頼を置いて、神さまの贈られた救い主の助けが必要であることを信じるすべての者なのです。
残りの民の神さまへの信仰が継承され、メシヤが来られた後、救いが実現し、その救いの恵みの深さと、その素晴らしさが伝えられて今に至っています。
私たちも救いを得た残りの民の1人として数えられています。その救いの恵みの素晴らしさを日々の生活の中で味わいつつ喜び、他の人にもそのバトンを渡して残りの民を途切らせないようにすることを神さまは望まれているのです。
イザヤは、自身と家族を通して、また預言を通して、残りの民とその祝福について、メシヤである救い主イエス・キリストの大いなる恵みについて、今も語り続けているのです。
そのメシヤはインマヌエルの主であり、変わることなく世の終りまでともにいてくださる救い主です。
インマヌエルと言う言葉は、自分の力に頼ることをやめ、自分の方策で乗り越えようとすることをやめ、主が共にいてくださるということが一切の解決であり、喜びであり、平安であることを私たちに教えています。
神さまは、インマヌエル(神はわれらとともにおられる)の主であるイエス様に頼ることを私たちに明確に示しています。
このインマヌエルの主を信じないならば、人は恐れと不安の中に追いやられて、希望を見ることはできないのです。
神さまが、ダビデ王の信仰を喜ばれたのは、罪を犯さないきよい人間だったからではなく、自分の罪が何よりも深く、聖い神さまの御前に、顔を上げることすらできない人間であることを悟っていたからでした。また、ただ裁かれるしか価値のない者だと自覚できていたこと(詩篇51篇)でした。
“聖なる 聖なる 聖なる”神さまを恐れて、インマヌエルの主に頼りましょう
2023年8月27日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
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