ショートメッセージ【イザヤ③】
イザヤ書13-27章、歴代志下 28章
(悟らない民の中で希望を見出したイザヤ)
1、諸国への託宣(神さまの意志表明)(13~23章)
2、終末につながるイザヤの預言(24-27章)
1、諸国への託宣(神さまの意志表明)(13~23章)
最初にイザヤ書13章19節を読みます。
13:19 国々の誉であり、カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。
ここから南ユダ王国を取り巻く諸国に対する神さまの意志表明がイザヤを通して語られます。始めにアッスリヤを滅ぼすバビロン帝国が登場します。
そのバビロン帝国の滅びは、南ユダ王国が、北イスラエル対策として、スリヤ(アラム)とアッスリヤ寄りの政策をとった、アハズ王の治世から約200年ほど先の出来事となります。
13章3節を読みます。
13:3 わたしはわが怒りのさばきを行うために/聖別した者どもに命じ、わが勇士、わが勝ち誇る者どもを招いた。
神さまはエルサレムに対して、ご自身の憤りを示すための器(代役)としてバビロンを用いられます。しかし、13章17節で
13:17 見よ、わたしは、しろがねをも顧みず、こがねをも喜ばないメデアびとを起して、彼らにむかわせる。
とあります。
このイザヤの預言のとおり、バビロンは、紀元前539年メディヤ・ペルシアの連合軍によって滅ぼされます。
南ユダ王国がバビロンによって陥落するのは、それよりさかのぼること約50年の紀元前586年のことです。
バビロンの滅びの理由は、彼らの高ぶりでした。
14章13-15節を読みます。
14:13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、
14:14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。
14:15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。
この高ぶりには、もと天使であって神さまより高くなろうとして、天から落とされた堕天使のサタンが大きく影響しているのは明らかです。
聖書の中で、“バビロン”と言う国の名は、神さまに逆らい、高ぶる王やサタンを示す象徴的な言葉としても用いられています。
同じように
14章28節~はペリシテ全地、
15章1節~は、モアブ、
17章1節~はダマスコ、
18章1節~はエチオピヤ、
19章1節~エジプトに対する神さまの託宣(預言)が語られていきます。
20章1-5節を読みます。
20:1 アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、これを取った年、――
20:2 その時に主はアモツの子イザヤによって語って言われた、「さあ、あなたの腰から荒布を解き、足からくつを脱ぎなさい」。そこでイザヤはそのようにし、裸、はだしで歩いた。――
20:3 主は言われた、「わがしもべイザヤは三年の間、裸、はだしで歩き、エジプトとエチオピヤに対するしるしとなり、前ぶれとなったが、
20:4 このようにエジプトびとのとりことエチオピヤびとの捕われ人とは、アッスリヤの王に引き行かれて、その若い者も老いた者もみな裸、はだしで、しりをあらわし、エジプトの恥を示す。
20:5 彼らはその頼みとしたエチオピヤのゆえに、その誇としたエジプトのゆえに恐れ、かつ恥じる。
ここで神さまは、イザヤに三年間、裸で人々の前を歩くようにと言われます。この象徴的な行動によって、神さまの心を示すようにということでした。
これは、エジプトとエチオピヤを頼みとしようとしていた南ユダの愚かさを示すためでした。アッスリヤによって、エジプトもエチオピヤも制圧され、それらを頼みとしていたら、南ユダも同じようにされることを示しています。
神さまは、すべてをご支配され、歴史さえもコントロールされています。
歴史は神さまのご計画とご意思のとおりに動くのだから、あなたがた人の思いや考えによって、人を頼りとすることがいかにばかばかしいことか。そして神さまに頼ろうとしない愚かさを、イザヤを通して民に明らかにしていたのでした。
21章から23章においては、これまでの託宣とは違い、バビロンの滅びの声を聞いた時のイザヤの反応が描かれています。ドマ、アラビヤ、ユダとエルサレム、ツロなどが滅びようとしていることを思いイザヤが嘆き悲しんでいます。
特に22章のユダとエルサレムについては、自分たちが、どれほど神さまを悲しませているか分かろうともせず、その愚かさに気づかされても、主である神さまの前に、心が砕かれることはありませんでした。悔い改めの代わりに、開き直って飲み食いをしていたのです。
イザヤは、こんな民なら、いっそ神さま滅ぼしてくださいとは思わず、神の民の愚かな、みじめな姿を嘆き悲しんだのです。
21章3節を読みます。
21:3 それゆえ、わが腰は激しい痛みに満たされ、出産に臨む女の苦しみのような苦しみが/わたしを捕えた。わたしは、かがんで聞くことができず、恐れおののいて見ることができない。
ここでイザヤは、神の民だけではなく、すべての民の悲しみを自分のことのように受けとめて悲しんでいました。
それは黙示録で、イエス様が何としても、1人でも多く民を救いたいと、どこまでもあきらめずに導き続けてくださるお心とその姿に重なるものがあります。
イザヤは、神さまのなさることの表面だけを見るのではなく、その深いお心をも理解した上で神さまのお心を受けとめて預言した預言者でした。
私たちは、神さまのご計画にある深いお心と愛を全面的に信頼して、神さまに対する疑いや不満をぬぐい去り、人にではなく神さまに頼ること、人に頼る愚かさと儚さを教えられています。
2、終末につながるイザヤの預言(24-27章)
24章1節を読みます。
24:1 見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる。
この時の南ユダの民は、神さまがどれほど忍耐し、語りかけても、神さまに背を向け、災い(のろい)を受ける者たちとなりました。結果彼らのみならず、世界中が災い(のろい)を受け、民が安住できなくなることが言われています。
24章13節を読みます。
24:13 地のうちで、もろもろの民のなかで残るものは、オリブの木の打たれた後の実のように、ぶどうの収穫の終った後にその採り残りを/集めるときのようになる。
13節では多くの人々が打たれる中でわずかな民が残され、残された民は主(神さま)をたたえます(14節)。しかし助かって残されたと思う民に恐れと、落し穴と、わなとが待ち受けていることを告げ、さらに大きな自然災害に遭い人々を罰すると言います。
これは、この時の不信仰に対する裁きが、この世の終わりの日の裁きに結びついていることを示しています。
その日、神さまは天で、堕落した天使たちを、また地においては、地のもろもろの王を罰し閉じ込めて、神さまが、直接エルサレムを支配して栄光を現わされるとの預言がされています。
25章1節を読みます。
25:1 主よ、あなたはわが神、わたしはあなたをあがめ、み名をほめたたえる。あなたはさきに驚くべきみわざを行い、いにしえから定めた計画を/真実をもって行われたから。
24章では、ほとんどの民が、悔い改めようとしないことが分かっているのに、終末預言が語られました。それは、ただ民を脅すためではなく、頑なな民の中にわずかであっても、救い出される残りの者への期待と確信があったからでしょう。
その神さまのお心と導きを理解したイザヤは、その神さまの深いお心と愛、そして行われた恵みの御業に対して神さまを賛美しています。過去の歴史的出来事を思い浮かべて、神さまはその時代その時代で神の民を愛しあわれんで、忍耐を持って導かれ、守り育ててこられました。
25章4節を読みます。
25:4 あなたは貧しい者のとりでとなり、乏しい者の悩みのときのとりでとなり、あらしをさける避け所となり、熱さをさける陰となられた。あらぶる者の及ぼす害は、石がきを打つあらしのごとく、
確かに大多数の者は、愚かで、悟らず、不信仰のままですが、神さまは、必ずその中からわずかであっても残る者を置かれます。そして、その残りの者に対して、過去の歴史においてなされたように、信じる者のためには、火の城壁となって守ってくださる、それはこれからも変わらないとイザヤは確信したのです。
26章1-3節を読みます。
26:1 その日ユダの国で、この歌をうたう、「われわれは堅固な町をもつ。主は救をその石がきとし、またとりでとされる。
26:2 門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。
26:3 あなたは全き平安をもって/こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。
その日、最後の時に、神さまに信頼する残りの者、正しい国民には、神さまの全き(完全)な平安が約束されています。これはイエスさまが王となられる千年王国を示していると考えられます。
27章3-6節を読みます。
27:3 主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守って、そこなう者のないようにする。
27:4 わたしは憤らない。いばら、おどろがわたしと戦うなら、わたしは進んでこれを攻め、皆もろともに焼きつくす。
27:5 それを望まないなら、わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」。
27:6 後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。
神さまは、残りの民を、損なうことなく守ってくださり、以前の罪を忘れてくださり、それに対する憤りはないと言われます。そして神さまの保護にたより、神さまとの和らぎの関係を大切にして歩みを続けていくようにと言われています。
《和らぎ》と訳されている言葉は、ヘブル語のシャロームです。《和らぎ》が繰り返されているのは、強調の意味です。大いなる神さまとの平和の関係が、なにより大切だと言われています。
そうすれば、その結果として、根をはり、芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになるのです。
私たち信仰者も、「神さまを頼り神さまの御翼の陰で守っていただくようにしなさい」と言われています。残りの者となっている限り、神さまへ向いている限り、これまでの歴史が証明しているように、神さまは必ず損なうことなく守ってくださいます。
神さまを信頼していれば、神さまが保護して、共にいてくださることで、神さまにある勝利の人生を歩めるのです。この事を信じ切って、この事を心に留めておくことが何より大切なのです。
そしてもう1つは、神さまとの《和らぎ》の関係をいつも意識して重んじることです。
神さまとの関係が正しく保たれていれば、つねに神さまにある平安が与え続けられます。今の私たちで言えば、イエス様と言う“ぶどうの木”につながり続ける枝となることと言えるでしょう。(ヨハネによる福音書15章)
イザヤは、「今、イエス様を信じているあなたがたも、私(イザヤ)が、神さまから示され希望を見出した残りの者なのです。これまでの歴史が証明している通り、神さまは残りの者を必ず損なうことなく守られます。そのことを自覚し、神さまの保護のもとで、神さまとのシャローム(平和)を保ち続けて歩んでください。希望の子らよ。」と言っているように思います。
2023年9月3日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
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