ショートメッセージ【イザヤ④】
イザヤ書28-39章
(バビロン捕囚とその原因を示したイザヤ)
1、神さまから見たユダヤの民の姿(28~33章)
2、ヒザキヤ王の繁栄と失敗(36-39章)
1、神さまから見たユダヤの民の姿(28~33章)
28章から33 章は、神さまの視点から見たユダヤの民の姿が記されています。
イザヤ書28章14-15節を読みます。
28:14 それゆえ、エルサレムにあるこの民を治める/あざける人々よ、主の言葉を聞け。
28:15 あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。
エルサレムの民(南ユダ)は、アッスリヤに攻められ、踏みにじられる(イザヤ28章3節)、北イスラエル、サマリヤの状況をあざけっていましたが、自分たちの愚かさには気づいていませんでした。彼らは、エジプトと同盟を結んで、アッシリヤの勢力が及んでも私たちには届くことがないのだ。と安心しきっていました。
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。
これは新約聖書において、パウロもペテロも、《失望に終ることがない」》と、この箇所をメシヤ=救い主イエス・キリストの預言として紹介していますので以下に3つ記します。
ローマ人への手紙9章33節
9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。
ローマ人への手紙10章11節
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
ペテロの第一の手紙2章6節
2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
イザヤ書に戻ります。28章16節の《あわてることはない》という部分は、未完了形で書かれていまして、まだ、完了していない。という意味で、終末を迎えて神の国が誕生する時まで、《あわてることはない》と約束されています。
イザヤ書28章17-19節を読みます。
28:17 わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。
28:18 その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される。
28:19 それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである。
神さまに頼らず、あなたがたが頼りにする死との契約は破棄され、アッスリヤの勢力は、繰り返し、繰り返し、押し寄せ、それは恐怖でしかなくなると言われています。
ユダヤの指導者たちも、神さまから見れば、“エフライムの酔いどれ”と同じように、正気を失って汚れに満ちた存在だと言われています。
その“エフライムの酔いどれ”とは、イザヤ書28章1節と3節に記されています。
28:1 エフライムの酔いどれの誇る冠と、酒におぼれた者の肥えた谷のかしらにある/しぼみゆく花の美しい飾りは、わざわいだ。
28:3 エフライムの酔いどれの誇る冠は/足で踏みにじられる。
この、《エフライムの酔いどれ》ですが、その内容は13 節まで記されています。エフライムは、北イスラエルのことで、彼らは、豊かな土壌と経済力を持っていましたが、高慢になっていたため、“酔いどれ”のようであったと言われています。
エフライム(12部族の族長の子孫が治めた地域)は、肥沃な谷の頂にある、自分たちの誇りとする冠を、酒に酔いつぶれながら自慢していました。
神さまは、その“酔いどれ”の誇りとする冠を踏みにじるために、アッシリヤを送られたと言われています。
そして、エフライムだけではなく、南のユダも“酔いどれ”の状態でした。祭司や預言者といった人たちは霊的リーダー(民を神さまへ導くリーダー)でありながら、酔っぱらっているような状態だったのです。
神さまは、南ユダに対して、アッスリヤに踏みにじられる北イスラエルから教訓を得るようにと願っていましたが、彼らは学ぶことができませんでした。
南ユダの民は、自分たちが神さまに逆らっているとは思っていませんでした。形式だけの礼拝で、神さまを信じ、神の民として生きていると考えていました。
しかし実態は、神さまの言葉を聞かず、自分たちの知恵に頼り、エジプトとの同盟による外交で目に見える安全を図っていました。
しかしそのエジプトは、役に立たない《休んでいるラハブ》(イザヤ30書7節)でした。
続く31章でも、目に見える安心だけを求め、主に頼むことをしない不信仰の極みの姿が記されています。
しかしそのような民に、神さまは、さらに自ら悔い改めてメシヤを待ち望むように、イザヤを通して語り(イザヤ書32章)、希望を示すだけでなく、その希望を待ち望む信仰に立つならば、現実において、どんな困難も主に信頼することで、超えていく信仰者となることを示し、何より神さまを恐れることの重要性が語られています。
ここまでを振り返ると、イザヤ書は24章から27章は、終末の残りの民に対する神さまの救済計画が示されています。加えて、民たちもその計画の中にあることを示しています。
次の28章から33章で、神さまの眼に映る、民の姿が明らかにされています。
そして、40章のイザヤ書後半部分へのつながりとして、記されているのが34-35章になります。
34章では、神の民を攻撃した他国への報復が語られ、神の民への父としての激しい愛を示しています。そしてこの愛を感じ取るものになるよう教えられています。
そして35章は、神さまに立ち帰ったイスラエルの残りの者に与えられる祝福(千年王国)のことが語られるのです。
イザヤ書30章15節を読みます。
30:15 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
《あなたがた》、ユダヤの民はこのことを好まなかったのです。しかし神さまは、そんな民たちにあきらめずにどこまでも導きを与え続けています。
私たちはどうでしょうか。
私たちの歩みにおいても、神さまがすぐに、ご介入(お働き)されず、待つように求められることや、私たちの思いや考えを超えた導きをあたえてくださることがあります。
その時に、自分の知恵で乗り切ろうとするのではなく、神さまに立ち帰り、神さまに信頼し神さまの前に静まって、待つことの大切さを教えられています。
2、ヒザキヤ王の繁栄と失敗(36-39章)
イザヤ書36~39章は、列王紀下18章13節~20章19節と重なる内容です。預言者イザヤが史実をも誤りなく記していることが分かります。
また、ここでは、イザヤの預言が、用いられた例としての紹介となっています。
ヒゼキヤ王は、イザヤが預言者として働いた時代の4人目(最後の)王でした。当初、南ユダ王国は、アッスリヤの勢いに押されて、アッスリヤの王セナケリブに貢物を治めています(列王紀下18章13~16節)。
しかしヒゼキヤ王は、イザヤの教えに聞き従い、神さまを信頼して歩むことがイスラエルの王として、求められている姿であり、それが民とまた王としての自分がもっとも祝福された歩みになることを示され、人の知恵や他の国に頼るのではなくて、神さまに頼る選択をしたのでした。
37章14-17節を読みます。
37:14 ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、
37:15 主に祈って言った、
37:16 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。
37:17 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。
アッスリヤの王は、ユダのヒゼキヤ王の反抗を知り、ラブシャケという部下をエルサレムに大軍とともによこします。 そしてラブシャケは、直接、民に対して語りかけ、早く降伏するようにと説得します。
私たちは、このラブシャケの施策にサタンの巧妙さをみることができます。
大軍を率いて目に見える圧力をかけ、これまでの周辺国家が、ことごとくアッスリヤに滅ぼされたことを聞かせて不安をあおっています。
また、民に直接働きかけて、指導者と民たちの関係性を弱らせるように働きかけています。
サタンは、神さまと私たち1人1人の関係を弱らせて、神さまに頼ることから遠ざけようと働きます。そして、神さまに向かっても勝てないことが分かっているので、私たちが神さまの守りから離れるよう、さまざまな不安をあおってくるのです。
これまでの王も、民たちも、このサタンの思い通りに、神さまへ頼ることから離れてしまっていました。
しかしヒゼキヤは、民たちにラブシャケには答えないように命じていました。
36章21節を読みます。
36:21 しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。
人は、答える(応える)ことによって、言葉巧みに誘導されるからです。
私たちもサタンの巧みな働きかけに対して、見ない。聞かない。答えない。ようにして、ただ神さまの助けと導きとを、信じ続ける歩みの大切さが教えられています。
37章36節を読みます。
37:36 主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。
神さまを信頼したヒザキヤ王は、神さまによってアッスリヤに対しての勝利を収めました。
38章1節を読みます。
38:1 そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。
38~39章の内容は、少し、込み入っているのですが、ヒザキヤ王のこのアッスリヤへの勝利の少し前の出来事と考えられています。
38章5-6節を読みます。
38:5 「行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。
38:6 わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。
38章6節で《あなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。》と付け加えられています。ヒザキヤ王は、この余命を伸ばされた奇蹟(神さまのお計らい)を通して、あなたとこの町とを守ろう。と言われた、神さまの御言葉を心に留めていたのでしょう。
そして36-37章で見られる、神さまへの信仰によるアッスリヤの勝利を得たことがここで明かされています。
39章1節を読みます。
39:1 そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダク・バラダンは手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病気であったが、直ったことを聞いたからである。
ヒゼキヤは、バビロンの使節を歓迎して、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せたのです。
この行為は、同盟関係を結ぶために経済力と軍事力を見せびらかしたのでした。
しかし、これが大きな失敗でした。後になり、イザヤによって、あなたの見せたものすべてが、その国に奪い去られることになる。と言われるのです。
北イスラエル王国、南ユダ王国にとって、他国や人に頼ることは、神さまへの信頼の裏返しです。
エジプトを頼りにする反省のない態度、神さまへの信頼、また病気の癒された憐れみを裏切る行為が、南ユダをバビロン捕囚に向かわせる、きっかけになったことを、この記事によって明確にし、40章につなげられていくのです。
これまでの話は全て、この39章7-8節につながっているということができます。
39:7 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう」。
39:8 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。
神さまに背を向け、この世の者、人に頼るユダヤの民と指導者、そして、自分のことばかり考えて、神の民を導き続けようとしておられる神さまの御心を理解できない指導者が、南ユダの国をバビロン捕囚に向かわせたのです。
私たちの信仰はどうでしょうか。人に向いているでしょうか。神さまにむいているでしょうか。主なる神さまをおそれ、砕かれた心で向かう、向かい方が本当に何より大事であることを教えられています。
2023年9月10日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳
【気が楽な教会を探しておられる兄弟姉妹へ】
以前、日曜日に教会へ通っておられたのに離れてしまった方々へ。理由は、いろいろあると思いますが、それより、「もう一度、教会へ行ってみたいなぁ~」「礼拝へ出たいなぁ~」「賛美したい♪」「人と話すの苦手だけど礼拝に出席したい」と思われている方、ネットで礼拝に出席されませんか。
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