ショートメッセージ【イザヤ⑤】

イザヤ書40-48章
(神さまの望まれる“しもべ”を示したイザヤ)

1、イスラエルの慰めと希望(40章)
2、神さまの答弁 ~ 神さまの“しもべ”(41-48章)

 イザヤ書は、一般に40章からイザヤ書後半に分けられています。イザヤ書を見ますと1章から39章までがアッスリヤ時代の記述で、40章以降は、北イスラエルと南ユダが滅亡後の時代。バビロンに捕虜として連行され、そこからの解放やそれらに関連した出来事が述べられています。

 ちなみに40章~55章までを第2イザヤとし、56章~66章を第3イザヤとして、イザヤより後の無名の預言者によって書かれたとする説もあります。
 それは、40章以降、語られている内容が、イザヤが活躍したよりも後の時代のもので、これまでと異なっているとの理由からです。

 しかし人の納得できるような枠組みに、全知全能の神さまのお言葉を閉じ込めようとすること自体に無理があると思われます。

 というのは、イザヤ書40章3節は、マタイ3章3節、マルコ1章2節、ルカ3章4節、ヨハネ1章23節の四福音書で取り上げられいて、そこでは「預言者イザヤ」と紹介されています。
 さらに、イザヤ書61書1-2節も、ルカ4章17-19節でイエス様が読まれた箇所で「預言者イザヤの書」と書かれています。新約聖書自身が40章以降も預言者イザヤが書いたと証明しています。

 今回は、目的から逸れてしまいますので詳しく取り上げませんが、イザヤ書を複数の著者と想定してしまいますとイザヤ書の前半と後半の緊密な関係が崩れてしまいます。
 また、先ほど取り上げた四福音書や新約聖書全体が「預言者イザヤ」の言葉として、言及している点は軽んじることはできません。
 では、イザヤという1人の預言者を通して示された預言として40章以降も見ていきましょう。

1、イスラエルの慰めと希望(40章)
 ここまでイザヤは、悔改めいやされることのない、鈍くて頑なな民へ預言を語り続けていました。民たちのうち、誰1人悟ることも、霊の目が開かれることもないと分かっていて語り続けたのです。それでも耳を傾ける日が、いつか来ることは受け止めていました。
 イザヤ書6章11-12節を読みます。

6:11 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、
6:12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。

 イザヤは、神さまからのお言葉をこの時のものと感じ取って、神さまから示された慰めと希望の福音を取り継いでいます。
 イザヤ書40章1-2節を読みます。

40:1 あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、
40:2 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」。

 2節の《服役の期は終り》と言うのは、バビロン捕囚のことを示すと同時に、終りの時代に、再びイエス様が来られる前の試練のあとのことも、合わせて預言されているようです。
 ヨハネによる福音書12章37-38節を読みます。

12:37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

 これは使徒ヨハネが、イエス様の度重なる“しるし”(奇跡)を伴った救いへの導きを、頑なな心で拒否し続けたイエス様の時代の民たちが、イザヤが語った民たちの預言が成就した。と言っている箇所です。預言は、その時だけでなく、後の時代にも成就することが示されています。

 40章1節《あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、」》とありますが、神さまの慰めが宣言され、2節でエルサレムの心に語れと言われています。民に理解させて悟らせるようにということです。
 そしてこの慰めとは、40章9節の《よきおとずれ》のことであり、具体的には2節の民の罪の赦し、11節の民の養いと御手の守りと導き、そして新たなる力です。
 イザヤ書40章31節を読みます。

40:31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

 これは、捕囚からの帰還というよりも、イエス様の再臨以降の神の国(千年王国)でのことでしょう。ここで民たちが神さまの王国を築くという希望が与えられています。

 そして、今イエス様を信じて受け入れた者には、この時、語られている民と同じく、自分たち犯した罪の赦しと、新しいエルサレムである天の御国に確実に招き入れてくださるという、決して消えることのない希望が与えられています。

2、神さまの答弁 ~ 神さまの”しもべ”(41-48章)
 イザヤ書40章27節を読みます。

40:27 ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

 民は、自ら神さまに背を向けていながら、神さまが自分たちの困難を無視し、自分たちの訴えを応じないと言っていたのです。
 そんな民たちの非難に対して、神さまが答弁をされています(裁判の形式のよう)。
 41章1-4節を読みます。

41:1 海沿いの国々よ、静かにして、わたしに聞け。もろもろの民よ、力を新たにし、近づいて語れ。われわれは共にさばきの座に近づこう。
41:2 だれが東から人を起したか。彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、もろもろの国を征服し、もろもろの王を足の下に踏みつけ、そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。
41:3 彼はこれらの者を追って/その足のまだ踏んだことのない道を、安らかに過ぎて行く。
41:4 だれがこの事を行ったか、なしたか。だれが初めから世々の人々を呼び出したか。主なるわたしは初めであって、また終りと共にあり、わたしがそれだ。

 2節で東から起こされた人は、「ペルシャのクロス王」と考えられます。「初めであり、また終わりである」神が「クロス王」を起こして、バビロンに捕囚となっていたユダの民を解放するのだと言われています。

 そのあとで、41章8節

41:8 しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、

 と言われています。

 《わがしもべイスラエル》とは、神であるわたしに属するもの、それほど大切だといっているのです。また、《わたしの選んだヤコブ》とは、神であるわたしが、価値のない、虫けらのような(イザヤ 41章14節)あなたを選びだしてあなたを立てた。わたしが選んだのだから、あなたを捨てることはしないし、わたしがともにいて、あなたを強くし、助け、勝利の右の手をもって支えると保証されています(イザヤ書41書9-10節)。

 そして神さまは、絶大な信頼を寄せて友として扱ってくださり、お心を隠すようなことはされないと宣言されています。

 しかし、神さまがそのように信頼し、愛された“しもべ”イスラエルは、他の国々にまことの神さまを証しするという役割を果たすことができませんでした。
 42章20-25節を読みます。

42:20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。
42:21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。
42:22 ところが、この民はかすめられ、奪われて、みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。彼らはかすめられても助ける者がなく、物を奪われても「もどせ」と言う者もない。
42:23 あなたがたのうち、だれがこの事に耳を傾けるだろうか、だれが心をもちいて/後のためにこれを聞くだろうか。
42:24 ヤコブを奪わせた者はだれか。かすめる者にイスラエルをわたした者はだれか。これは主ではないか。われわれは主にむかって罪を犯し、その道に歩むことを好まず、またその教に従うことを好まなかった。
42:25 それゆえ、主は激しい怒りと、猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、彼らを焼いても、心にとめなかった。

 それでも尚、神さまはイスラエルを祝福しようとされるのです。
 そこで、神さまは、イスラエルに代わって、神さまの役割を果たす神さまの“しもべ”を登場させるのです。
 42章1-4節を読みます。

42:1 わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
42:2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
42:3 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
42:4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。

 この箇所は、新約聖書マタイによる福音書12章17-21節でこのように紹介されています。

12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

 この“しもべ”こそ、神さまが理想とされる“しもべ”であって、神さまとイスラエルが結んだ契約を確かなものとして、地のすべての国民に祝福を与える”しもべ”です。
 それがメシヤなるイエス・キリストです。そのことが、神さまの御言葉である、旧約の預言と新約の御言葉とによって明確にされています。

 神さまの“しもべ”であるイエス・キリストが神の民イスラエルに代わって、律法を成就し、これまでの神さまとイスラエルの契約を確かにして、世界中の人々に罪の救いからの祝福をもたらしてくださいました。

 イエス様を信じた私たちは、罪の赦しと神の国の希望と日々の歩みにある神の守りと導きをいただきました。これは、イザヤが神さまのお言葉として、イスラエルの民に約束したものと同様です。
 そうして救いをいただいた私たちは、イスラエルの民と同じように、神さまを証しする役割が与えられているのです。

 それは、ここまでの神さまとイスラエルの民の歩みの歴史的な背景を知れば、その流れがよくわかります。
 何の役割も果たしていない、神さまに罪を赦される価値など何もない私たちが、神さまの理想的な“しもべ”、イエス様によって救っていただいたことを思う時、それぞれの場にあって神さまを証ししていくことは、当然の役割となります。
 何も特別なことではありません。
 ヨハネによる福音書13章35節を読みます。

13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 愛によってイエス様の弟子であることを周囲の人に知ってもらうことができます。
また、互いに愛することは、私たちが父なる神さまのお言葉に従うことだと教えられています(ヨハネの第二の手紙6節)。
 結果、神さまのお言葉に従い、互いに愛し合い人生を歩む私たちは、イエス様の弟子であることを周囲の人々が知り、イエス様を通して神さまのご存在を知らせる”しもべ”となるのです。

2023年9月17日(日)
ニホン・ネットキリスト教会
メッセンジャー:香川尚徳

『イザヤ書著者複数説について』
 なぜ、複数著者説が論じられるようになったかをごく簡単に申しますと、イザヤが生きていた時代より未来のことが書いてあるからです。
 バビロンを滅ぼし解放したペルシャの王の名「クロス」が固有名詞に挙げられているのです。つまり、神さまは全知全能で、未来の出来事も含めて何でも知っている。ということを認めない、無神論の学者がイザヤ書複数著者説を論じているのです。

 イザヤ書複数著者説を認めるクリスチャンは、ご本人は自覚しておられないかもしれませんが、もしかすると、聖書の神さまを信じていない、本当のクリスチャンではない可能性があります。
 その一方で、聖書の出来事を信じるクリスチャンは、聖書の神さまを信じるクリスチャンだと言えます。神さまが、未来のことを正確に「預言」できることを当たり前のように認めています。

 現在のイスラエルに行けば、かつての預言者たちが預言したことが文字通り現実になっていることをご自身の目で見ることができます。

 イザヤ書は、確かに内容は40章を境に変わるのですが、39章までが第一部として見ることができ、バビロン捕囚という神さまのさばきがあることの警告。40章以降は第二部でバビロン捕囚という神さまのさばきからの解放となっています。聖書全体を通して読めば分るのですが、神の言葉を守ると“祝福”、違反すると“のろい”(懲らしめ・さばき)、悔い改めるならば“回復”(救い)することが繰り返されているのです。

祝 福:申命記28章1-2節
のろい:申命記28章14-15節
回 復:申命記30章1-4節

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【教会や聖書にご興味のある方へ】
 教会は、人がこの世に生まれた時から天に召される時まで、すべての時が神の導きと祝福の内にあることを実感するところです。そして、聖書は人生の処方箋とも言えます。人生に行き詰まりを感じることや、疲れをおぼえる時は、先ず休むことです。明日のことは、明日にならないとわかりません。明日に備えてグッスリ眠るほうが健康的です。
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